四季シリーズ PART4 

春、出発。

   BY hachi様

 早春である。

桜が綻ぶには早いが、冬将軍の蹄の音は確実に遠ざかりつつある、そんな季節。

清四郎の心には、一足も、二足も早く、春風が吹きはじめていた。

 

 

 

清四郎に気の早い春が訪れたのは、二月十四日の夜。

それも、夜の11時を大きく回った、深夜のことだった。

 

 

そのときの清四郎は、史上最悪の気分に陥っていた。

端正な顔が、その心中を顕著に表している。彼の代名詞であるクールな表情は消え去り、その代わり、まるで親類縁者友人知人がことごとく死に絶えたような仏頂面になっている。しかも、デスクトップのパソコンを睨む眼は、普段の五割り増しで据わっていた。

自室だから良いものの、この顔で外を歩いていたら、凶悪犯と間違えられても仕方ない。

 

PM11:47。不機嫌に曲がった、薄いくちびるから、本日数十回目の溜息が漏れる。

株価が軒並み下がっている。平均株価も、ここのところ右肩下がりだ。

それにも関わらず、清四郎が所有する株の大半は、ほとんど下落していない。逆に儲けている銘柄もあるほどだ。これも、綿密な情報収集と分析の賜物である。

だが、清四郎の仏頂面は、夜が更けるにつれ酷くなる一方だった。

 

 

今日は、聖バレンタインデー。日本じゅうが薔薇色に染まる日だ。

 

しかし、PM11:48現在、清四郎はいちばん欲しかった相手からのチョコレートを、未だに貰っていなかった。

 

 

 

二ヵ月半ほど前のことである。

みぞれが降る寒い夜に、清四郎は、悠理に好きだと告白した。

返事の代わりに貰ったのは、強烈な鉄拳だったが、それでも清四郎は悠理も自分を好いてくれていると確信していた。

 

悠理は人一倍の照れ屋で、強情なほど意地っ張りだ。しかも、天邪鬼な一面まで兼ね備えている。そんな彼女が、素直に恋情を表に出すはずがない。

清四郎は、彼女の気持ちが熟成するまで、気長に待つことにした。しかし、いくら待っても、悠理からの返事は貰えない。

そのうちに、クリスマスも、年末年始も、ついでに節分も過ぎ、気がつけばバレンタインデーが目前に迫っていた。

 

清四郎は、もともも気長な性質ではない。

時間が問題を解決する、という場合は、清潔感が溢れる微笑と、完璧な理論で、その期間を大幅に省略してきた。

その清四郎が、二ヵ月半も返事を待っているのだ。しかも、恋人たちの最大行事であるクリスマスも、公然と夜遊びできる年末年始も、返事を待つ間に終わってしまった。

いくら相手が幼稚な悠理であっても、もう限界だ。焦らされ続けた心には、すぐそこまで我慢の臨界点が迫っていた。

 

迫り来る臨界点の中、清四郎は、覚悟を決めた。

世間にある「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」という二通りの諺に、バレンタインの運命を賭けたのだ。

 

そして―― 命運を賭けた大勝負は、PM11:51現在、惨敗で終わろうとしていた。

 

 

 

負け惜しみにしか聞こえないだろうが、こうなることは、最初から予想していた。

意地汚さに関しては天下一品の悠理が、食物を他人に施すはずがないのだ。それも、大好物のチョコレートである。他人に渡すくらいなら、絶対に自分で食べているだろう。

 

出会いから十数年。嫌でも悠理の性格は分かる。

なのに、心のどこかでは、しっかり期待していた、愚かな自分がいた。

 

貰えないチョコレートに期待し、己の愚かさを確認する羽目に陥ろうとは、何たることだろうか。

愚かな己の姿に、けっこうなダメージを受けながら、清四郎はふたたび溜息を吐いた。

 

 

 

眉間に沈鬱という名の皺を刻みながら、パソコン画面右隅の時計を確認する。

PM11:54。あと6分でバレンタインデーが終わる。

 

暗澹たる表情で、数十回目の溜息を吐き、マウスから手を離す。

そろそろシャワーを浴びて寝る準備をしないと、明日の朝稽古に支障をきたしてしまう。寝不足は集中力を鈍らせ、集中力の欠如は怪我に繋がる。嫌というほどそれを知っているのに、どうしても椅子から立ち上がれなかった。

頭は踏ん切りをつけるべきだと考えているのに、心は残り6分にしつこく期待し、最後の1秒まで悠理を待とうとしているのだ。そんな自分の愚かさが、酷く恨めしかった。

 

 

悠理はとんでもない常識知らずで、底なしの馬鹿である。

だが、いくらとんでもない常識知らずの馬鹿でも、日付が変わろうかという時刻に、男友達の家に押しかけはしまい。

いい加減に未練を捨てて、きっぱりと諦めるべきだ。否、諦めよう。それが心の平穏に繋がる。

 

諦めようと思いながら、パソコンの画面を見つめる。

画面右隅の時計が変わり、55分を示す。バレンタイン終了まで、あと5分。

清四郎は大きく舌打ちし、また溜息を吐いた。

諦めると言いながら、未練たっぷりだ。これではピエロにもなれない。

 

これ以上、惨めな自分を曝け出したくなくない。

清四郎は、まるで潜水するかのように、肺いっぱいに空気を吸うと、息を止めて、パソコンの電源を落とした。

 

 

携帯電話が鳴ったのは、液晶画面が無愛想な灰色に変わった、直後だった。

 

 

 

期待のあまり、幻覚を見ているのかと思った。

携帯電話のサブウィンドウに、「悠理」の二文字が躍っている。

清四郎は、慌てて着信ボタンを押し、電話機を耳に押しつけた。

 

「もしもし?」

 

意気込むあまり、声が上ずる。

しかし、その声は、電話の向こうから響いてきた怒声に、掻き消された。

 

 

「ちゃんと好きだからな!!」

 

 

ハウリングを起こしそうなほどの大絶叫が、清四郎の頭蓋を右から左へ突き抜けた。

きんきんと耳が鳴って、悠理が何を言ったかなど、もちろん聞き取れたはずがない。

 

待ち望んでいた相手にも関わらず、清四郎は思わず携帯電話を耳から離した。

電話の向こうが静かになったのを確認し、それでも用心しながら電話を耳につける。ふたたび大音量に襲われては、堪ったものではない。

「もしもし、何ですか?」

平静を務めているつもりでも、声が上ずる。

「もしもし?」

反応がないため、もう一度、声をかける。今度はちゃんと声が出た。

しかし、悠理は黙ったままだ。何の反応もない。

電話の向こうから聞こえるのは、僅かに乱れた呼吸音。それだけだ。

 

およそ10秒間の、沈黙が流れる。

 

そして、ふたたび絶叫が、響いた。

 

 

「あたいだって、ちゃんと清四郎が好きだからな!忘れるなよ!!」

 

 

大音量の怒声が響き、電話はそのままぶつりと切れた。

 

 

 

清四郎は、携帯電話を耳に当てたまま、呆気に取られていた。

 

―― あたいだって、ちゃんと清四郎が好き。

 

まるで決闘を申し込むような声だったが、確かに悠理はそう言った。

もしかして、あれは愛の告白だったのだろうか。

悠理のことだから、幼稚な嫌がらせかもしれない。

疑心暗鬼にかられ、頭の中で悠理の言葉を何度も復唱してみる。

 

―― ちゃんと清四郎が好き。 ちゃんと好き。 好き。

 

嫌がらせではないようだ。聞き間違いでもない。

 

―― 清四郎が、好き。

 

繰り返すうちに、ようやく現実感が帯びてきた。

 

 

心の奥から、喜びが湧く。

やがて、歓喜は全身に伝わり、細胞のレベルで身体が弾みはじめた。

 

清四郎は、困ったように微笑みながら、携帯電話の角を額に押し当て、俯いた。

眼を閉じると、照れ隠しに怒る悠理の顔が、瞼の裏に浮かんだ。

脳裏に浮かぶその顔は、子供っぽい彼女が見せる、いつもの表情とは、まったく違っていた。

 

それは、去年の夏。昼下がりの寺。裏庭に面した、薄暗い座敷。

偶然にも垣間見てしまった、悠理の白い胸。

 

清四郎が思い浮かべていたのは、あのとき彼女が見せた、怒りと羞恥に染まりながらも、妙に艶めいた表情だった。

 

 

悠理を思い浮かべながら、清四郎は、呟いた。

「・・・まったく・・・もっと色気のある告白はないんですかね・・・」

苦々しく呟きながらも、自然と笑みが零れる。

 

怒鳴るだけの、乱暴な告白。なのに、涙が出そうなほど嬉しい。

こんなに悠理が好きだったとは、清四郎も予想していなかった。

待ち望んでいた返事を貰ったことで、ようやく清四郎自身もそのことに気づいたのだ。

 

 

脳裏に、悠理とは別の、年下の娘の顔が浮かぶ。

―― ここは、やはり彼女に感謝すべきでしょうね。

清四郎は、脳裏に浮かんだ女子生徒に、密かながら感謝の言葉を送った。

 

 

 

この数ヶ月、清四郎は後輩の女生徒から猛烈にアタックされていた。

その様子は、まさに、狙った獲物は逃さない、といった風情だった。

 

清四郎と彼女は、文化祭の準備で親しくなった。

以降、彼女は清四郎にあけすけな好意を示し、周囲にもそれを公言し、かならず落としてみせると豪語もしていた。

責任の一端は清四郎にもある。ほんの一時だが、清四郎は悠理を諦めるために彼女とつき合おうと考えていたのだ。そんな中途半端な態度が、彼女をよけいに増長させてしまったのだろう。

 

だが、それもほんの一時のことだった。

清四郎は、すぐに気の迷いから醒めた。

 

胸に秘めた恋情と同等に、激しくて強い、独占欲。

悠理を誰にも渡したくない。渡せない。決して渡さない。

その強烈な想いに気づいたことで、迷いが霧消したのだ。

 

自分の想いに気づいてすぐ、彼女には、好きなひとがいるからつき合えないと、はっきり断った。

だが、彼女は諦めなかった。嫌がられない距離、気軽な関係を、絶妙なバランスで維持しながら、アタックを続けたのだ。一学年上の清四郎は、間もなく卒業するのだから、彼女も必死である。

 

そして、バレンタインデーの三日前。

彼女は、いよいよ勝負に打って出た。

 

13日から14日に日付が変わり、バレンタインになった瞬間に、清四郎にチョコレートを渡したいと、涙目ながら清四郎に頼み込んできたのだ。

はっきりと言葉にはしなかったが、とどのつまり、彼女が言いたいことは、清四郎と一晩をともに過ごしたいということに、他ならなかった。

 

 

その涙ながらの懇願の現場を、偶然にも美童が目撃していた。

お節介にも、美童は、目撃した一部始終を皆に報告した。

お陰で、清四郎は可憐と野梨子から吊るし上げを喰らい、不機嫌になった悠理からは今日までの三日間、完璧に無視され続けた。

―― 外面だけは完璧な清四郎のことだから、どうせ彼女にも良い顔していたんでしょう。

侮蔑的な視線とともに浴びせられた女性陣の言葉に、清四郎は不条理を感じた。

 

濡れ衣もいいところであったが、逆にその一件が悠理に危機感を抱かせたらしい。

意地を張っているうちに、清四郎を盗られてしまうかもしれない。

自分と同じように、悠理もまた、清四郎を誰にも渡したくないと思っていたのだろう。

 

それでもこの三日間、無視を続けていたのは、天下御免の意地っ張りの証拠か。

そして、肥大していく焦りがとうとう爆発し、先ほどの色気皆無の告白に繋がった。

 

清四郎は、くっくと声を漏らして笑い、改めてそんな悠理に愛しさを覚えた。

 

 

もう一度、悠理の口から同じ言葉を聞きたい。そして、同じ言葉を悠理に告げたい。

 

清四郎も、自分を見失うほどに、悠理が好きだと。

 

 

今すぐ悠理の元へ飛んでいきたいが、時間が時間である。はやる気持ちを抑え、彼女に電話をかける。しかし、何度コールしても、悠理はいっこうに出ない。

仕方なく電話を切り、1分だけ待って、もう一度トライする。だが、次も悠理が電話に出る気配はない。

仕方なく電話を切り、ふたたび苦笑する。

悠理のことだ。きっと今ごろ携帯電話を枕の下にでも押し込んで、羞恥に悶えているのだろう。

 

 

清四郎は苦笑を浮かべたまま、二つ折りの携帯電話を閉じた。

もう一度、額に携帯電話を押しつけ、眼を閉じる。

何故かは分からないが、こうしていると、悠理を感じる。

離れた場所にいて、声も聞けないのに、心は繋がっている気がした。

 

「悠理・・・明日は覚悟しておけ。」

 

明日、学校で顔を合わせたとき、悠理はいったいどんな表情で清四郎を迎えるのだろうか。

そのときの悠理を想像しながら、清四郎は優しく微笑んだ。

 

 

時刻は、PM11:59

バレンタインデーも、あと1分足らずで終わる。

 

結局、チョコレートは貰えなかったが、それよりもずっとずっと望んでいた言葉を、清四郎はやっと悠理から貰えたのだ。

 

 

 

 

バレンタインが終わり、ふたりの関係は少しずつ、でも、確実に変化していった。

 

次の週末には手を繋いで、動物園に出かけた。

途中で片方だけ手袋を失くしてしまい、すっかり冷たくなった悠理の手を、清四郎のコートのポケットに入れさせ、掌で包んで温めた。

すると、悠理の顔は、寒さのためだけでなく、赤く染まった。

赤く熟れた頬を指でつつくと、悠理は怒ってそっぽを向いた。

その姿が可愛くて、清四郎は、彼女の手がすっかり温もっても、掌で包んで離さなかった。

 

 

はじめてキスをかわしたのは、それから三日後のことだった。

 

夕日が差して橙色に染まった部室で、悠理は窓から空を見つめていた。彼女の横顔も橙色に染まって、妙に幻想的だった。

そんな彼女をそっと抱きしめ、まるで最初から決まっていたことのように、ごく自然にキスをした。

 

最初は身を硬くした悠理も、すぐに緊張が解け、清四郎に身体を預けてきた。

長いキスが一度、そのあと、短いキスが二度。

くちびるを重ねるだけの、軽いキスだったが、悠理には生まれてはじめての経験だったらしい。彼女は酷く照れて、帰り道も絶対に清四郎の顔を見ようとしなかった。

だから苛めたくなった訳でもないが、帰り道で別れるとき、不意打ちで悠理のくちびるを奪い、真っ赤になって怒る彼女の反応を楽しんだ。

街灯の下で、首筋まで真っ赤に染めた悠理は、子供のようで、逆に酷く艶めいて見えた。

 

 

売り言葉に買い言葉で起こる喧嘩は、相変わらず多かった。

 

でも、以前のように、わだかまりを残すことはなく、その日のうちに仲直りし、その印として、小鳥のように繰り返しキスをした。

 

 

ホワイトデーには、マシュマロではなく、指輪をプレゼントした。

気軽に身につけられるよう、大仰なものではなく、ファッションリングを選んだ。

高価なものなら、悠理は既に腐るほど持っている。それよりも、心が篭ったものをプレゼントしたかった。

 

しかし、喜ぶだろうと思っていたのに、悠理は嬉しそうな顔をしなかった。

「バレンタインのとき、清四郎に何もあげていないのに。」

悠理は擦れた声でそう呟くと、申し訳なさそうに俯いた。

 

それを聞いて、清四郎は驚いた。

確かにチョコは貰わなかったが、それよりもっと素晴らしいものを、悠理はくれた。

どんなに高価で、どんなに希少価値の高いチョコでも、悠理がくれた本当の気持ちに比べたら、ちっぽけで下らない。

 

清四郎は、悠理の髪をくしゃくしゃに掻き回しながら、気にすることはないと言って、笑った。

悠理は、泣きそうな顔で微笑むと、清四郎の背中に腕を回して、ありがとう、と呟いた。

 

抱きついたまま離れない悠理を、清四郎は、心の底から愛しいと感じた。

 

 

 

そして、北風を押し返すように、春風が吹きはじめた。

 

空が深みを増し、空気が柔らかくなる頃、清四郎たちはいよいよ卒業の日を迎えた。

 

 

 

「清四郎も、やっと答辞が読めたな。」

左胸につけた造花が型崩れするのも構わず、魅録が卒業証書を乱暴な動作で小脇に抱え直す。

「送辞のときは、本当に口惜しそうな顔をしていましたものね。」

古傷を抉るようなことを言いながら、あくまで上品に野梨子が微笑む。

「これでこの制服ともお別れかと思うと、ちょっと寂しいわよね。」

来月から隣接する大学に通う可憐の未練は、三年間を過ごした学び舎ではなく、上流階級の香り漂う制服にあるようだ。

「可憐には、お仕着せの学生服より、もっと素敵でお洒落な服が似合うよ。」

すかさず甘い言葉を吐く美童は、大学に入学しても、相変わらずだろう。

「何はともあれ、全員揃って無事に卒業できましたね。」

清四郎が皮肉に微笑みながら呟くと、隣の悠理が頬を膨らませた。

己の惨憺たる成績のお陰で、卒業が危ぶまれていたのを、もっともよく知っているのは、他の誰でもない本人であったようだ。

 

 

沈黙の隙間に、ビルの向こうの、ぼやけた空を眺める。

空気は冷たいが、青空から降り注ぐ陽光は暖かい。

いつものように悠理の頭を撫でると、太陽の温もりを吸い込んだ髪が、掌を擽った。

 

 

校舎の正面玄関から真っ直ぐ伸びる石畳。

清四郎は、石畳の途中に立ち、振り返って校舎を見上げた。

 

色んなことがあったけれど、本当に刺激的で、楽しい高校生活だった。

この学園がなければ、最高の友人たちと出会えなかったし、ともに足りない部分を補いあい、いかなる困難にも立ち向かう強さは得られなかっただろう。

 

何よりも、この学園があったからこそ、清四郎は悠理と出会い、強くなれた。

悠理と出会わなければ、今の清四郎はいなかったと断言できる。

そして、誰かを本気で好きになることも、なかったかもしれない。

 

認めるのは癪だが、清四郎の原点は、悠理にある。

きっと、帰着する場所も、悠理にあるのだろう。

だからこそ、これからも悠理とともに歩いていきたい。

清四郎は、心の底からそう思った。

 

 

柄にもなく感傷に浸っていると、校舎のほうから例の後輩女子が駆けてきて、清四郎の前で立ち止まった。その顔は、真っ赤である。

彼女は、第二ボタンでなくても良いから、清四郎の制服のボタンが欲しい、と、擦れた声で訴えた。

よほど緊張しているのか、スカートを握った指が、小さく震えていた。

 

仲間たちの間に、緊張した空気が走る。

仲間たち以外で、清四郎と悠理の仲を知る者は、ほとんどいない。彼女も知らないはずだ。だからこそ、悠理がいる前で、ボタンが欲しいと申し出たのだろう。

 

清四郎は、目の前で肩を震わせる彼女を見た。

涙を堪えた必死の顔に、彼女も真剣な恋をしていたのだと知る。

そういうところは、清四郎と同じである。

だが、清四郎が、彼女の想いに応えることはできない。清四郎には、既に悠理がいるのだから。

 

恋に苦しんだ同士として、彼女に次の恋へと進むステップに向かって、背中を押して応援してやりたい。

そのためにも、ちゃんと断って、けじめをつけてやるべきだろう。

 

清四郎は、静かに微笑み、彼女を見つめた。

「―― 済みませんが、ボタンはあげ・・・えっ!?」

言葉の途中で、悠理の手がにゅっと伸びてきた。

驚いている間に、清四郎の制服の第二ボタンを引き千切る。

 

唖然とする皆の前で、悠理は千切ったボタンを彼女に差し出した。

「はい。」

突然のことに、彼女も唖然としている。差し出されたボタンは、悠理の手に留まったままだ。

 

眼を見開いて固まっている彼女を見て、悠理は小首を傾げた。

「これだけじゃ足りない?じゃ、ぜんぶあげる。」

そう言うと、悠理は清四郎の制服を掴み、次から次へとボタンを千切り取った。

清四郎が気づいたときには、すべてのボタンを奪われていた。

 

すべてのボタンを強奪した悠理が、後輩女子を振り返る。

「これで足りるだろ?」

悠理は彼女の手にボタンを握らせて、にかっ、と笑った。

そこで、彼女は、誰よりも早く我に返った。

まだ呆然としている清四郎と、地蔵のように微笑む悠理に向かって、慌てて頭を下げる。

彼女は、頭を下げ終わると、振り切るように清四郎から顔を逸らし、校舎に向かって走り去っていった。

 

 

制服のボタンをすべて奪われた清四郎は、だらしなく前を広げた上着を見下ろし、大袈裟に眉を顰めた。

「断りもなく何をするんです!?今から職員室に最後の挨拶をしに行くつもりだったのに、これでは恥ずかしくて中に入れないじゃないですか!?」

しかし、抗議の声は、悠理に届かない。

「別にボタンがなくっても、職員室くらい入れるだろ?」

悪びれなく答える悠理に、今度は可憐が眉を吊り上げた。

「清四郎は仮にも悠理の彼氏でしょ!?なのに、彼氏の制服のボタンを横恋慕している女に渡すなんて、何を考えているのよ!?」

可憐に怒られても、悠理は平気な顔だ。

それどころか、清四郎の右腕を掴んで、ふふん、と小生意気に笑う。

 

「ボタンなんか、いらないよ。だって、あたいには清四郎の本体があるもん!」

 

悠理の返事に何を想像したのか、可憐が頬を染める。

他の皆は、悠理らしい発想に、やれやれと苦笑している。

 

清四郎は、誇らしげに胸を張る悠理の顔と、苦笑いする皆の顔を見比べているうちに、何だか怒るのも馬鹿らしくなり、破顔した。

 

笑いあう皆を包んで、ふわりと吹く春風は、とても優しい。

 

 

 

大半の生徒たちが帰宅したあと、清四郎と悠理は、ふたりで生徒会室に向かった。

 

新生徒会を構成する後輩たちは、清四郎たちに遠慮して、まだこの部屋に足を踏み入れようとはしない。だが、それも今日までのことだ。明日からは、新しい生徒会が、この部屋の主となる。

 

少々の感傷を胸に、清四郎は生徒会室の中に入った。

ドアを閉めて、ふたりきりになったところで、悠理を後ろから抱きしめる。

つき合いはじめた頃は緊張に身を硬くしていた悠理も、このひと月あまりで抱きしめられることに慣れたらしく、すぐに身体を預けてきた。

 

「悠理には、僕の本体があるから、ボタンはいらない、ですか。」

清四郎は、ふわふわの髪に顔を埋め、笑いながら悠理に話しかけた。

「まったく、お前はどんな思考回路をしているんだか。」

「もしかして、あたいのこと馬鹿にしているだろ?」

身を捻ってこちらを向いた悠理の頬は、河豚のように膨らんでいる。

「まさか。褒めているんですよ。」

そう答えて頬にひとつキスを落とすと、河豚はぺしゃんこになった。

 

 

こうして悠理を抱きしめる日がくるなど、少し前まで夢にも思っていなかった。

 

思えば、清四郎が悠理を意識しはじめたのは、あの事件がきっかけだった。

真夏の昼下がり、薄暗い座敷で見た、悠理の白い胸。

自覚はなかったが、清四郎はあのとき既に、悠理に恋していた。今ならそれが分かる。

 

意識下で眠っていた恋が、表面に噴き出してきたのは、秋の夜。

湿気た熱気の中、一糸纏わぬ悠理を抱きしめ、我を失いそうになったことは、今でもはっきり覚えている。

いっそ、我を失っていたら、こんなに遠回りすることもなかったかもしれない。

今さら何を考えても、しょせんは後の祭りだが。

 

それから数ヵ月後、みぞれ降る凍てつく冬に、やっとで想いを打ち明けた。

だが、頑なな悠理の心は溶けず、逆に鉄拳を喰らった。

そのあと悠理から裸に剥かれたことも、今では良い思い出である。

 

 

走馬灯のように巡る記憶を、ひとつずつ確かめる。

色んなことを思い出しながら、清四郎は、決して悠理を離すまいと、細い身体を抱く手に力を籠めた。

 

 

 

「ねえ悠理。ひとつ提案なんですけど。」

腕の中に向かって声をかけると、それまで顔を埋めるようにして胸に凭れていた悠理が、真ん丸の眼で清四郎を仰ぎ見た。

「なあに?」

真ん丸の目は、純粋無垢な精神を具現化したように透き通っていて、少しばかり後ろめたい。

だが、清四郎は、この日、思ったことを、素直に口に出した。

「無事に卒業もできましたし、僕本体が悠理のものだと公表もしたことですし、そろそろ、どうですか?」

「何が?」

何のことか分からないらしく、悠理はきょとんとしている。

こういうところが、愛しくもあり、腹立たしくもある。

 

清四郎は、悠理の耳元にくちびるを寄せて、吐息混じりに甘く囁きかけた。

 

「僕の心だけでなく、身体も悠理のものにしてみませんか?」

 

囁きながら、腰を撫でる。

瞬間、悠理の顔が、噴火よろしく真っ赤に染まった。

 

「変態!!」

 

予想どおりの反応が嬉しくて、清四郎は声を上げて笑った。

そこで、ようやく悠理もからかわれたと分かったらしい。凶暴な上目遣いで清四郎を睨みつけ、くちびるを蛸のように尖らせた。

しかし、そんな顔も、束の間だった。

 

 

悠理が真っ赤な顔を床に向け、もぞもぞと落ち着かない様子で身体を動かし出した。

 

 

「・・・いいよ・・・」

 

 

「は?」

 

 

「だから、いいって言っているだろ!!」

 

 

悠理がじれったさそうに叫ぶ。

清四郎は、まじまじと悠理を見た。

俯いているので表情は見えないが、耳朶や襟足は、見事なほど真っ赤に染まっている。

 

「・・・本当に、いいんですか?」

信じられずに確かめると、悠理が俯いたまま、清四郎の胸を軽く小突いてきた。

「・・・何度も言わせるなよ・・・この、馬鹿!」

見れば、清四郎を小突く手まで真っ赤に染まっている。微かに拳が震えているのは、緊張のためか。

 

 

本当だと分かった瞬間、清四郎は悠理を抱き上げて、思い切りキスをした。

 

 

 

あの夏、はじまった恋は、ようやくハッピーエンドを迎える。

だが、これは、きっとはじまり。

これから、もっと素敵で、もっと楽しい日々がはじまる。

 

清四郎は、悠理の髪に顔を埋めたまま、ふたりで歩く未来に思いを馳せ、幸福に酔い痴れた。

 

 

 

「だからって、ここでしようとするな!変態っ!!」

 

 

 

 

清四郎と悠理が、身も心も結ばれるまで、あと少しに迫った、穏やかな春のある日。

 

ふたりは、新しい未来に向かって、出発した。

 

 

 

END

TOP

素材:My new history様