幼い頃、清四郎はクリスマスが大好きだった。

街中に飾りつけられた、色鮮やかなクリスマスオーナメント。
胸を弾ませる、楽しげなクリスマスキャロル。
届かないと分かっていても、光る星がどうしても欲しくて、手を伸ばし続けた、クリスマスツリー。
眠い眼を擦りながら待ち続けた、サンタクロース。
そして、とうとうサンタを待ちきれなくなり、温かなベッドを抜け出して、雪が舞う夜空を見上げたときの冷たさと、不安混じりの高揚感。


そういう純粋な気持ちを忘れたのは、いつの頃からだったろう?

いつの間にか、清四郎は子供の頃に夢見たクリスマスを失っていた。





Silent  
   BY hachi様





仕事を終えて外に出ると、雪が降っていた。

今年は、久しぶりのホワイトクリスマスになるでしょう。テレビをご覧の皆さま、よいクリスマスをお過ごしください。
今朝のニュースで、でっぷり肥えた気象予報士が福々しい笑顔で話していたことを、ふと思い出し、清四郎は、小さく舌打ちした。

ホワイトクリスマスがいったい何だと言うのだろう?
都市圏の雪は水分が多くてすぐ溶けるから汚いし、降雪量が増えるにつれて交通網は乱れるし、靴は濡れて足が冷たくなる。
百害あって一利なし、というのが、正直なところではないか。

だいたい、クリスマスの何が楽しいのだろう、と、清四郎は思う。
ケーキ屋とフライドチキン店の前には人垣ができ、歩行者の通行を妨げる。
女たちはグロスを塗りたくったくちびるで嘘の愛を吐きまくり、性欲に支配された男たちに、ここぞとばかりにブランド品をたかる。
普段は不遜で横柄な子供たちも、その日ばかりは猫なで声を出し、叱ることもできない親に最新のゲームをねだる。
そこに、本来あるべき厳粛な聖誕祭の面影はない。
清四郎にとって、クリスマスとは、人間の浅ましさがもっとも顕著になる、煩悩にまみれた「イベント」に過ぎなかった。


清四郎の職場から自宅までは、地下鉄で五駅の距離があった。
利便性を重視して選んだ、単身者向けのマンション。もちろん部屋にはクリスマスの雰囲気は微塵もない。
腕時計を確認すると、すでに夕食を摂るにも遅い時間に差し掛かっていた。雪も降っているし、タクシーで帰ろうかとも考えたが、一年に一度の散財に、種の保存を賭けた男たちのお陰で、道路は大渋滞だ。仕方なくコートの襟を立て、雪の中、歩いて駅を目指した。

足早に駅へと向かう途中、気持ち悪いほどメイクの濃い女が、男から突然のキャンセルを喰らったのか、携帯電話に向かって怒鳴っているところに遭遇した。
女は、金切り声を出し、電話の相手を罵っている。せっかくのクリスマスなのに、どうしてくれるのよ、と叫ぶ女には眼もくれず、一路、駅を目指す。

そこで、ふと、去年のクリスマスを清四郎と一緒に過ごしたがった女を思い出した。


女とは、身体だけの付き合いだった。
否、清四郎がそう思い込んでいただけなのだろう。
その証拠に、女は肉体関係を結んで一ヶ月が経つ頃から、清四郎に身体以外のものを求め出した。
面倒に巻き込まれるのは億劫だったし、女に対して執着もなかったから、関係を終わらせることについて、何の感慨も覚えなかった。
だから、別れたくないと泣いて縋る女をレストランで置き去りにできたし、彼女の携帯番号を着信拒否にもできた。
それが、去年の十二月の出来事。それ以来、女とは会っていないし、特定の女も作っていない。

今まで、その女のことを思い出しもしなかった。
だが、クリスマスというキーワードと、先ほどの光景がシンクロし、別れ際に女が叫んだ言葉まで思い出してしまった。

―― 女なら、誰だってクリスマスを好きな人と過ごしたいものなのよ。

その気持ちが、清四郎にはまったく理解できなかった。
男の前で股を開くのに、どうしてクリスマスが必要だというのだろう?
清四郎にしてみれば、本来の意味を失ったクリスマスなど興味の対象にもならないし、気合を入れた女たちの下着よりも、聖夜に死んでいく幾十億、幾百兆もの精子の総数が気になるほどだ。


地下鉄に乗り、意味もなく中吊り広告を眺めながら、家を目指す。
大物政治家の不正のスクープ記事タイトルを眺めているうちに、女のことは忘れていた。

地下鉄に揺られているうちに、ふと空腹を感じた。
かといって、カップルやファミリーでごった返すレストランには行きたくもない。
確か、キッチンには、アンチョビの缶詰と、乾燥パスタが残っていたはず。冷蔵庫には食べかけのチーズもあるし、この間、押しかけてきた仲間が残していったワインが、封も開けずに置いてある。それだけあれば、今晩は充分に凌げるだろう。
ストックしてある食材を思い出しながら、電車を降りる。
改札へと向かう階段の途中で、地上の冷気が吹き降りてくるのを感じ、無意識のうちに身を竦めた。

案の定、地上は、舞い落ちる雪で白く染まっていた。
車の行き交う車道だけが、やけに黒い。
きっと明日の朝には、車道だけでなく、街ぜんたいが汚らしい灰色に染まっているだろう。
溶けた雪が跳ねてズボンが汚れないよう、気をつけながら、ところどころがシャーベット状の泥濘になった歩道を進む。
吐く息は真っ白で、呼吸をするたびに、肺が冷えていく気がした。


信号待ちの途中、何気なく空を見上げたとき、ふと、仲間たちのことを思い出した。
途端に、硬く結んでいたくちびるが、柔らかく解けていく。
仲間のうちの二人は、きっと、今日という日にすべてを賭けて、全力を尽くしているはずだ。もしかしたら、果敢にもデートの梯子に挑戦しているかもしれない。
派手好きで、恋多き二人には、そんなクリスマスがぴったりだ。
清四郎は、彼と彼女のバイタリティに感心しつつ、横断歩道の手前で苦笑した。

信号が変わり、歩行者にゴーサインが出る。
白と灰色の縞模様を踏みながら、車道を横断する間は、奥手で意地っ張りな幼馴染のことを考えていた。
気位が高い彼女は、好きな男の前でも素直になれず、いつも苦しんでいた。
彼女が想いを寄せる男といえば、これがまた純情な性格で、突っ張っているくせに、本気で好きになった女の前では、中学生並みの態度しか取れずにいた。
そんな二人も、今年のクリスマスは、何とか一緒に過ごせるようで、清四郎は心の底から安堵していた。

横断歩道を渡り、幹線道路から折れる。
途端に街灯が少なくなり、夜が暗さを増した。

暗い道には、雪の夜独特の静けさが満ちていた。
近くのマンションから、家族の楽しげな笑い声が漏れて聞こえ、静寂を際立たせている。

清四郎が住まうマンションの手前から、賑やかなクリスマスキャロルが流れてきた。
隣のマンションの一階にある、カフェのBGMだ。
明るい店内には、クリスマスツリーやリースが飾られ、店頭では、暖色の電飾が輝いていた。

そういえば、お祭り好きの彼女―― 悠理は、何をしているのだろう?

悠理の顔を思い出したら、自然と、カフェの前で足が止まった。
カフェの中は空だ。客どころか、店員もいない。クリスマスオーナメントだけが、無人の店内で、空々しく輝いていた。


清四郎にとって、悠理は、特別だった。

どこまでも無垢で無邪気な、犯しがたい存在。
心のてっぺんで、眩しく光り輝く、唯一無二の相手。
彼女は、けっして手の届かない、クリスマスツリーの星に似ていた。


何を考えているのだろう?
自分で自分が馬鹿らしくなり、苦笑をひとつ残して歩き出す。
我が家はすぐそこだ。無人の部屋は冷え切っているだろうが、スイッチひとつ押せば、春の暖かさが清四郎を包んでくれる。
足早にカフェの前を過ぎ、マンションホールを横切って、エレベーターに乗り込む。
エレベーターの中も、外気と同様、冷え切っていたが、その頃には、感覚も麻痺していて、寒さなどどうでも良くなっていた。

清四郎は、エレベーター扉の硝子を見つめながら、悠理のことを思い出していた。
無垢で、無邪気で、犯しがたい、クリスマスツリーの頂で輝く星のような娘。
清四郎にとって、彼女を性的な対象として捉えること自体が冒涜だった。
たとえ、悠理が年齢相応に色づき、儚いながらも妙香を漂わせているのを認めていても、彼女が犯しがたい存在であることは、変わらなかった。

だから、清四郎は、様々な女と関係を重ねているのだろうか?
まっさらで、どこまでも無邪気な彼女を穢すことができないから、他の女を抱くことで、自分を誤魔化すのか。
幼い日、欲しくて欲しくて堪らなかったツリーの星を、いつの間にか諦めて、クリスマス自体を忘れ去ったように。

清四郎は、ふと胸に湧いた疑問を、苦笑混じりの溜息で打ち消した。


エレベーターが、清四郎の部屋がある階で止まった。
通路に降り立ち、狭いエレベーターホールを右に曲がる。

しかし、顔を上げて、真っ直ぐ伸びた廊下を見た途端、足が止まった。



清四郎の部屋の前に、誰かが蹲っていた。

その人物は、大きな袋を膝に抱え、傍らに、ツリーの写真がプリントされた巨大な箱を置いていた。

清四郎の気配を察知したのか、袋を抱えた人物が、清四郎を見た。
そして、清四郎を認めると、ほっとした様子で、こちらに向かって微笑みかけた。

「せいしろ、おかえり。」

凍えて震える声を聞いて、それまで呆然としていた清四郎は、我に返った。

「悠理!?」

そう叫ぶと、清四郎は慌てて悠理に駆け寄り、間近から彼女の顔を覗きこんだ。
鼻の頭は真っ赤で、くちびるの色は失せている。手を握ってみると、寒空の下、歩いて帰ってきた清四郎より冷たくなっているではないか。
「いったい、どれだけの間、ここで待っていたんですか!?」
つい強い口調で詰問すると、悠理は、へへ、とぎこちなく笑った。
「二時間くらい、かな・・・」
答えを聞いて、呆然とする清四郎に、悠理は慌てて言葉を重ねた。
「いや!二時間っていっても、待っている間は、清四郎が帰ってきたときのことを想像して楽しかったし、いっぱい厚着しているから、寒いのも気にならなかったし、全然平気だよ!」
「だからといって、この寒空に二時間も待つ必要はないでしょう!?メールを一本すれば、それで済む話ではないですか!」
清四郎が怒鳴った途端、悠理の顔が、哀しげに歪んだ。
意外な変化に、清四郎ははっとした。
悠理は、泣くのを堪えるように、くちびるを曲げて、清四郎を睨んでいる。
「・・・メールしたら、お前を驚かそうとしていた計画が、お仕舞いになるじゃん。」
清四郎は、反射的に悠理から眼を逸らした。
血色を失った首筋が、やけに細く見えたからだ。

悠理は決して犯してはならない存在で、邪な想いなど抱くのも許されないというのに。

さり気ない動作でドアの鍵を開け、悠理の肩をちらりと見る。
細い肩は、寒さのためか、小さく震えていた。
「とにかく中へ入ってください。すぐに温かいコーヒーを淹れますから。」
清四郎は、そう言うと、悠理が持て余していたツリーの大きな箱を抱えて、部屋に入った。



悠理が抱えていた袋の中には、ブッシュドノエルとターキーの箱が入っていた。
「お前のことだから、クリスマスなんて祝いもしないと思ったから、わざわざ持ってきてやったんだぞ。」
悠理は嬉しげに喋りながら、かじかんで赤くなった手で、箱を開けている。
そんな彼女の姿を眺めながら、清四郎は、落ち着かない気持ちでコーヒーを淹れていた。

クリスマスの高揚感を忘れたとはいえ、世間が馬鹿騒ぎしているのは、充分に知っている。悠理の家でも、盛大なクリスマスパーティが行われているはずだった。

なのに、どうして悠理は清四郎の部屋を訪れたのだろうか?
それも、寒空の下、二時間も外で待っているなんて、どう考えても理解できなかった。

湯気とともに芳香を漂わせるコーヒーを、ふたつのカップに注ぎ分けて、悠理の元へと運ぶ。
悠理は、今度はツリーの箱を開けて、そこらじゅうにオーナメントをぶちまけていた。
「ここに来る途中で見つけてさ。何となく欲しくなって、つい買っちゃったんだ。」
「でも、こんなに大きなツリーを運ぶのは大変だったでしょう?」
所狭しと散らばるオーナメントの間に何とかカップを置き、まだ箱に収まったままのツリーを見る。組み立て式とはいえ、高さは2メートルを超えるだろう。
悠理は、かじかんだ手でカップを包み、コーヒーをひと口すすってから、ようやく質問に答えた。
「ここまでは、タクシーを使ったから。」
「そうですか・・・」
―― だから、どうしてここに?
本当に聞きたいことは聞けないまま、清四郎も、カップに口をつけた。
聞けば、今までの関係が壊れてしまいそうな気がした。


開け放したカーテンの向こうでは、白い雪が降り続いている。
ふたりは、二言、三言と交わしながら、静かにコーヒーを飲んだ。

清四郎は、散らばったオーナメントの中に、金色に輝く大きな星を見つけた。
それを手に取り、天井の照明にかざす。

幼い頃、ツリーのてっぺんで輝く星が欲しくて、必死に手を伸ばしていた。
いくら手を伸ばしても、決して手に入れられなかった星が、今、手の中にある。

冷たくて小さな手が、清四郎の手に重なり、星を取った。
悠理が、懐かしげな瞳で、手中の星を見つめる。
「小さな頃、これが欲しくて、よく泣いたっけなあ・・・」
その言葉を聞いて、清四郎は、くすり、と笑った。
「僕も、小さな頃は、この星が欲しくて堪りませんでした。」
「清四郎も、そうだったんだ。」
悠理が、すぐ隣で、くすくすと笑う。
清四郎は、妙にくすぐったい気持ちで、悠理の笑い声を聞いていた。
「小さな頃は、決して手が届かなかったツリーの星が、今は手の中にある・・・改めて考えると、何だか、不思議な気分になりますね。」
話しながら、悠理が握った星を、指で撫でる。
「本当だね。大きくなって、ツリーのてっぺんに手が届くようになっても、やっぱりこの星は特別だもん。」
悠理の小さな囁きが、耳に優しく響き、心に沁みた。


成長して、ツリーのてっぺんにも手が届くようになったのに、この星は決して手に入らないと思い込み、勝手に諦めていた。
幼い頃、なかなか来ないサンタを待ち侘びていたときに味わった高揚感も、それに伴う少しの不安も、もう、二度とは戻らないと信じ込んでいた。

クリスマスは、幼い頃と変わらず、そこにあったというのに。


清四郎は、箱からツリーの部品を出すと、要領よく組み立てた。
枝の体裁を整え、床に散らばったオーナメントをひとつ拾い上げる。
「悠理、まず飾りつけを済ませましょうか。ケーキとターキーは、そのあとでゆっくり頂きましょう。」
清四郎の提案に、悠理が満面の笑顔で頷く。
「てっぺんの星は、最後につけような!」
そう言って、悠理は大事そうに星をテーブルに置いた。
その横顔は、今まで見てきた悠理の中で、もっとも綺麗だった。


本当は、とっくの昔に手が届くようになっていたのに、どうせ手に入らないと思い込んで、諦めていた。
ツリーのてっぺんで輝く星は、決して穢してはならないと、勝手に信じ込んでいた。
諦めて、欲しがっていた気持ちを押し込めて、クリスマスそのものを忘れ去ろうとした。

だけど―― 悠理は、幼い頃に憧れた、クリスマスツリーの星などではない。


「悠理。」
「ん?」

清四郎は、振り向いた悠理の頬に、そっと手を添えた。
悠理は、びっくりして眼を見開いている。
その瞳を覗き込みながら、清四郎は、かすれた声で彼女に告げた。

「・・・僕は・・・ずっと、ずっと前から、お前が好きでした・・・」

悠理は眼を見開いたまま、まったく動かない。
ただ、じっと清四郎を見つめているだけだ。

「いくら好きでも、悠理は決して手に入らないと、諦めていたけれど・・・いくら努力しても、諦め切れません。」

まだ凍えていた頬が、清四郎の掌の下で、熱くなっていく。

「悠理・・・僕は、諦めなくても良いんですよね・・・?」

見る見るうちに涙でいっぱいになる瞳が、安堵したかのように、微笑んだ。

「・・・うん。」


静かな聖夜に、音もなく雪は降り積もる。

涙が零れ落ちる前に、清四郎は、悠理にくちづけた。



それは、清四郎が長い間、憧れて止まなかった星を、手に入れた瞬間だった。





清四郎は、悠理を胸に抱いたまま、窓の外に広がる、夜空を見つめた。

音もなく降り積もる雪が、聖なる夜を、清浄なる白に染めていく。

その光景を見つめていると、脳裏に、ふと、幼い頃に聞いたクリスマスキャロルのメロディが甦ってきた。

来るはずのないサンタクロースを待って、あたたかなベッドから抜け出し、凍てついた夜空を見上げていたときに口ずさんだ、あの歌を。



清四郎は、もう、クリスマスを夢見る子供ではない。

だけど、今晩だけは―― ずっと失っていたクリスマスを取り戻したことを、感謝したかった。


大きなツリーのてっぺんで輝く星に向かって、一生懸命、小さな手を伸ばしていた、あの日と同じように。


――― Merry Christmas!


 

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素材:Abundant shine