剣菱家の令嬢、剣菱 悠理。
今彼女がいる場所は聖プレジデント学園中等部。
小学部から校舎が変わっても、教師が変わっても悠理にとって何も変わりのない日常がそこにあった。
退屈な授業。
気の合う仲間など居ない教室。
中等部2年になっても、彼女は学校での時間を 確実に 持て余していた。
友達が全く居ないというわけではない。
だが、仲間といえるほどの友人はあいにくここには居なかった。
なにもかもが色褪せて見える景色の中、それでもなんとか唯一気に入った場所を見つけた。
屋上である。
誰も居なく、景色のいいそこは この学園のどこよりも居心地が良かった。
特に午後の暖かな日差しの降る時間は格別だ。
悠理をすこししあわせなきもちにさせてくれるほどに。
今日も午後の授業は抜け出してここへとやってきた。
こんないい天気の日に教室で授業なんか聞いてられない。
それも昼食の後ならなおさらだ。
特に授業が美術や音楽なら、とても我慢などできるはずもない。
理由は簡単、寝にくいからだ。
春の空気の中、ほのかに温かさを持つ手すりへ頬杖をつく。
目の前にはグランドが見える。
この時間 グランドではあの男のクラスが体育の授業をしているはずだ。
学園きっての秀才 菊正宗清四郎。
勿論友人というわけではない。
しかし、彼のことはなんだかよく目に付いていた。
優等生なんか嫌いなはずなのに。
この学園で悠理以外にまともにスポーツが出来るやつなど彼くらいしかいないというのが、その理由の一つかもしれない。
悠理の言うところの 『まとも』 というのはかなりのレベルではあったのだが。
グランドでは 生徒が次々にバーを飛び越えマットへと沈んでいく。
今日の授業は 高飛びのようだ。
記録を計っているのか、バーの高さが少しづつ上がっていっている。
その度に、飛び越えられていく人の数は減っていく。
当然のように最後まで残ったのは 清四郎だった。
ところがしばらく見ていると、上げられていくバーを飛び越えていた彼の身体がそれに触れたようだ。
揺れたバーは、カタリと音を立てて落ちていった。
「うわぁっ!おっしーな!!」
悠理は屋上で一人声を上げた。
本当にそう思ったのだ。
彼女の視力を持ってしても ここから見る限りでは、どこがバーに触れたのかも分からないくらいなのだから、本当に少し触れただけなんだろう。
教師が清四郎に近づき、なにやら話し掛けている。
そうして頷いた彼は、元いた場所へと歩き出した。
どうやら、もう一度飛ぶようだ。
彼の背中を見る悠理にもなんだか力が入る。
目の前の手すりをグッと掴む。
その視線の先、清四郎が再び走り出した。
徐々にバーへと近ずいていく彼に、思わず声が出る。
「今だ、行け!!」
その声と共に彼のつま先が地面を強くけった。
ふわりと身体が浮き上がる。
しなるからだが弧を描く。
さっきより数段高い位置でバーを飛び越えた清四郎がマットへと沈んだ。
「よしっ!!やったー!」
一人で喜ぶ悠理。
手すりから離れた手はガッツポーズまで作っていた。
マットの上、起き上がるより先に清四郎がある方向へと視線を向けたように思えた。
そう、校舎の屋上へと。
視線があったような気がして、悠理の胸がドキリとなった。
それは、一瞬の出来事
教師に声を掛けられた彼は、すぐに顔をそちらにむけた。
「ビックリしたー。」
そう呟いた彼女の心臓の音は、いつもより大きく鳴っているように思えた。
ガッツポーズを作っていた悠理の手が、胸元を押さえる。
なぜだか、頬も熱い。
彼女の動きが止まった・・・
さぁーっと春の風が吹く。
スカートの裾がふわりと揺れた。
悠理が時計へと目を向けた。
それを待っていたかのように、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
悠理の視線がグランドへと戻った。
生徒たちが、次の授業のために急いで着替え教室に帰っていく。
真っ先に更衣室から飛び出してきたのは、清四郎だった。
急いでいるのか、駆け出しそうな勢いで。
それを見た悠理も、ゆっくりと手すりのそばを離れた。
勿論、6時間目の授業に出るためなどではない。
お気に入りの場所での大好きな昼寝の為にだ。
コンクリートの床の上に寝転び、大きく伸びをする。
暖かな日差しと、さわやかな風が悠理をすぐに眠りの世界へと誘う。
夢の中へと落ちる寸前、誰かの声を聞いたような気がした。
「 ・・・ 風邪引くよ。」
笑い声を含む優しい感じの声。
走ってでもいたのか、弾むような色を見せながら。
しかし、瞼が重く誰なのか確かめることも出来ない。
学園では滅多に見ることの出来ない無防備な表情のまま、悠理は眠ってしまった。
嬉しそうに微笑む黒髪の少年の影の下で。
授業の終わりを告げるチャイムで何とか目を覚ました。
ゆっくりと開いた瞼に、太陽の光が飛び込んでくる。
眩しすぎるそれに目を細める。
(なんともいい天気だ。)
そう思いながら大きく伸びをした。
「う〜ん、気持ちいい!」
その言葉で漸く身体を持ち上げた。
寝起きの頭を少し振ってみる。
見渡した屋上にはやはり彼女一人。
その瞳がグランドへと向いた。
さすがに、授業も終わった今は誰も居ない。
「さぁ、帰るとするか!」
立ち上がって、パンパンと簡単に制服を払う。
悠理の横顔を日差しが照らした。
その髪を春風が揺らす。
心地よさの中、少しぼんやりした後、彼女はクルリと向きを変えた。
そろそろ教室の人影もまばらになってきたころだろう。
荷物をとって、帰るとするか。
「今日のおやつは何んだろ。」
そう独り言を呟いた顔が嬉しそうなそれに変わった。
そのまま悠理はスキップでもしそうな雰囲気で歩き出した。
ドアの方へと。
重い扉を開けると、さっきまでとは違う暗さのある景色が視界に飛び込んできた。
一瞬立ち止まって目を細める。
バタンとドアの閉まる音がした。
悠理は手すりに手をかけると、階段を降り始めた。
リズムよく数段降りた所で、勢いよく階段を駆け上がってくる生徒が目に入った。
悠理の足が止まる。
それは ・・・ 菊正宗清四郎だった。
詰襟を手にもち、シャツのままの。
おやつを思って緩んでいた悠理の口元が引き結ばれた。
彼の方も、降りてきている悠理に気付いたようで、なぜだかこちらを見上げたまま止まっている。
立ち止まり固まる2人。
目が合った
今度は確かに
しかし、言葉を交わすことなくそのまま彼女は降り始めた。
誰も居ない階段で
肩が触れそうな距離を
ただすれ違う 2人
教室へと向かう彼女の頭から、彼のことが離れなかった。
(あそこは屋上にしかいけないのに・・・)
(上着まで脱いで、なにするつもりだ、アイツ・・・)
おやつよりも気になりそうなことを忘れさせるかのように大きく頭を振った。
「あたいには関係ないや。」
「それより、オヤツ、オヤツ!」
そういってカバンを手にすると悠理は迎えの車へと向かった。
校舎を出る彼女を屋上から、彼が溜息をつきながら見ていることも気付かないまま。