清四郎は1週間休みを取り、入院中の悠理についていた。 入院して3日め、肺炎も軽く済み、体調も戻り無事退院となった。
「今日くらいは家で大人しくしていて下さいね。」 悠理の部屋で書類を手繰りながら清四郎が言う。 さすがに1週間まるまる休む訳にはいかなかったらしく、空いた時間に仕事をしている。
「うーん、もう元気なんだけどなあ・・・。」 庭に出て体を動かそうと思っていた悠理は、清四郎に釘をさされちょっとがっかりしたようだ。 「今日、大人しくしていられたら、明日温泉にでも行きましょうか?あまり遠くは疲れますから箱根あたりでも。」 「ホント?行く行く。」 そう言ってから、悠理はある事に気が付いた。 「あ、・・・二人で?」
付き合いだして1年を超えているが、二人だけで旅行に行ったことは無い。旅行はいつも倶楽部のみんなと一緒だった。 二人は、友達以上恋人未満の清いお付き合いだった。 いい年をした若者が・・・、と思うだろうが、今まではお互いが共に一歩踏み出すのをためらっていた。 だが、ここ数日で二人の間が微妙に進展した。 二人で旅行に行くというのは、別の意味もあるように悠理が危惧するのも無理は無い。 「当たり前でしょ。みんな仕事がありますからね。」 清四郎はそんな悠理の懸念に気付きもしないように答える。
次の日、清四郎の運転する車で箱根に向かった。 到着したのはわりと老舗の旅館で、山の傾斜を利用したはなれがいくつもある。長い回廊を渡り、その一つに案内された。 和室が二間、縁側からは天気が良かったせいもあり、 その向こうには芦ノ湖とまだ雪をかぶった富士山が良く見えた。
「どうぞ、ごゆっくりおくつろぎ下さいませ。」 そう言って仲居さんが出て行くと、なんとも二人だけの空間が悠理は居心地が悪い。 「あ、明日は芦ノ湖に行ってボートに乗ろうぜ。」 「いいですよ。でも、もう身を乗り出すようなことはしないで下さいね。」 「するかっ。」 座椅子に座り、ゆっくりと旅館の案内や観光案内を見ている清四郎に対し、悠理は落ち着きなく部屋をうろうろしている。荷物を開けてみたり、縁側から下駄をつっかけて小さな専用庭に出てみたり、風呂をのぞいたりしていた。
内風呂は縁側と同じ方向に大きな窓ガラスがはめられており、まるで露天風呂のような雰囲気をかもし出していた。 湯船も総檜作りで大きさもゆったりと作られている。 掛け流しのようで、すでに湯が張られている浴槽からは少しずつ湯がこぼれていた。 「ふわー、すごいなあ。なんか贅沢・・・。」
「いいお風呂でしょう。これがあるからこの旅館にしたんですよ。」 背後からいきなり話しかけられ、悠理は心臓が飛び跳ねた。 「わっ、いきなり後ろに立つなよ、びっくりするじゃないか。」 悠理が振り返る前に、清四郎の腕が悠理を抱え込んだ。 「一緒に入りましょうか?」 後ろから抱き締められ耳元で囁かれ、もう悠理は沸騰寸前だ。 「えっ、えっ、な・・・。」 真っ赤になってどもる悠理に、清四郎はくすくす笑い出す。 「冗談ですよ。」
「・・・おまっ、ふざけるな!」 清四郎の腕をすり抜けて繰り出したパンチは、待っていたかのような手のひらに受けとめられた。
「夕飯の前に温泉に入ったらどうですか? ただし、お前は大浴場はだめですよ。ちょっと離れてるし、大浴場で倒れでもしたら困りますからね。ここに入ってください。」 悠理はしばし沈黙。 ここで清四郎に逆らえるはずも無く、大浴場は諦めたものの、さっきの清四郎の一言で、このお風呂にどうやって入るのかを考え、思考が停止してしまった。 (「まさか、本当に一緒になんてことはないよな・・・。」)
「僕は大浴場に行って来ます。鍵は持って行きますからね。」 「ずりーぞ、自分ばっか・・・。」 「なら一緒に入りますか?」 答が解っている問いをあえてする清四郎。 「いえ、どうぞ行って来て下さいませ。あたいはここで十分です。」 「じゃあ、行ってきます。」 と、鍵を持って清四郎は出て行ってしまった。
悠理は仕方なく内風呂に身を沈めた。 それでも正面には夕焼けに彩られた富士が見え、檜の香りも心地よく、温泉も適温。 ゆっくりと湯につかり、出る頃にはご機嫌になっていた。 脱衣所で浴衣を来ていると、清四郎が部屋にいる気配を感じ、あわてて帯をしめる。
ぱたぱたと手で顔を仰ぎながら部屋に戻ると、清四郎が縁側にある一人掛けのソファに座り、何かを飲んでいた。 「あーあたいもなんか飲もーっと。」 悠理が冷蔵庫を開けて缶ビールを掴もうとしたその時、 「ビールはダメですよ、まだ薬飲んでるんですからね。」 と、清四郎から声が飛んできた。 そういえば、病院で薬を飲んでいる間はアルコールを控えるように言われていたことを、悠理は思い出した。 「ちぇー、風呂上りはビールだろう!」 悠理が怒って振り向くと、清四郎はスポーツドリンクの缶を掲げて見せた。 「え、清四郎、ビール飲んでないの?」 「悠理が飲めないのに、横で飲むのも気が引けますからね。 アイス買ってきましたから、それで我慢して下さい。」 「うん・・・。」 悠理はそんな清四郎の小さな優しさが嬉しくてたまらなかった。
豪華な夕飯に、さらに特別注文した追加料理も堪能して、悠理はすっかり満足していた。 食後は二人並んで縁側で月見をした。
仲間との旅行では飲んで騒いで、何時の間にか寝ているのがいつものことだったので、こんなに静かにのんびりと過ごすことはなかった。なんだか時間がゆっくりと過ぎるようだ。 疲れが出たのか悠理が一つあくびをした。 目も段々と閉じてきている。 「やはり少し疲れましたか?もうそろそろ寝ましょうか。」 「ん・・・、んん!?」 悠理は『寝る』という言葉に過剰に反応してしまう。
清四郎は悠理の頬に手を添え話しかける。 「悠理」 対する悠理は逃げ腰だ。 「な、なに、清四郎。」
「何もしません。」 「へっ」 「何もしないから、そんなに緊張するな。」 悠理は自分の考えていることを見透かされて、頬が染まる。
「何かしたいとは思ってますけど、今日はやめておきます。 病み上がりですしね。 楽しみは次の機会にとっておきますよ。」 そう言うと、悠理にひとつキスをした。 そのまま抱き締め、耳元で囁く。 「いつか、またここに来ましょう。 その時は一緒にお風呂に入りましょうね。」 真っ赤になって繰り出された悠理のパンチは、当然のことながら清四郎に受けとめられた。
おわり。 『次の機会』はまたいつか。
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