僕の両手に残るもの

       BY こたん様

 

7

 

 

いつもなら僕が仕事でどうしても買い物が出来ない時のため、悠理が保存の利く食料を送ってくれた。だから比較的僕の冷蔵庫はいつも満たされていた。ところが、朝目覚めて無意識にそこを開けると、光り輝く電器展示場の如く輝かしかった。ハムもチーズも卵も牛乳も、そしてビールすらない。僕は辺りを見回した。冷蔵庫の隅に残り少ないマーガリンと、いつ半分失ったか分らない程乾燥しきったニンジンだけがあった。僕は諦め、キッチンのテーブルの上にある、入っているはずのクッキーの缶を開けてみた。思った通り、そこには何も入ってはいなかった。彼女はよく僕を待ちながら、ここに入っているクッキーを食べる癖があった。でも食べた分、補充だってしてくれた。この間僕を待ちながらそれらを食べ、補充する必要などもうないと、それっきりになってしまったのだ。今の異常なほど空腹な僕にはひどすぎる話だった。僕は仕方なくシャワーを浴び、歯を磨き、髭を剃ると外に出た。近くのスーパーで三日分の買い物をするとマンションに戻り、遅い朝食なのか早い昼食なのか、良く分らない時間の食事を簡単に作って食べた。そう、せっかくの休みの日くらい規則正しく過ごそうと思ったのに。

さて、と僕は思った。今から何をしよう。食事も済んだ、買い物だってもう終わってしまった。しばらくキッチンのテーブルの前でじっとしていた。僕は何をしたら良いのか分らなかった。テーブルの上に置いてあった何かのメモ用紙が、細く開かれた窓の隙間から入った風によって床にふわりと落ちた。僕はテーブルの下に潜ってそれを拾った。そのメモ用紙には、僕の恋人の、躍るような文字が不恰好に並べられていた。彼女が僕の為に買おうとした物のリストだった。僕はメモ用紙を二つに折りたたみ、床に目を落とした。そこにはいくつかの生活の、かつては大切に扱われていたものが転がっていた。ゆで卵の殻の欠片やグレープフルーツの干からびた種や、トーストされて硬くなったパンくずや、そんなものたちだ。僕はもう一度二つに折ったメモ用紙を開いて見つめ、一文字一文字ゆっくりと読み返してみた。けれど、それが何を意味するのか分らなかった。今、彼女が僕の片方の手のひらに存在したとして、もう一方には何が存在するだろうと考えてみた。答えはない。何故なら、僕の両手には何も存在していないからだ。僕の両手には、両手で大切にしようとすくったそれは、実体を失っていた。

 

 

8

 

 

たった数ヶ月間のセンター長だった男の妻が、彼のマンションを引き払った後に事務所を訪ねた。その女性は小柄で美しかったが、それは印象に残らない部類の美しさだった。僕は彼の入る施設の場所と治療方法を説明した。そして来月にはセンターが落成する事、新しいセンター長と営業マン三人が転勤してくる事を伝えた。

「本当に申し訳ございませんでした」

彼女は頭をテーブルに付くほど下げた。

もし僕の友人が生きていたらどうなっていただろう、と思った。彼が生きていたら、もしかしたらセンター長だってこんな風にならなかったかも知れない。どんな方法で?それは分らない。

それに悠理とだって・・・

でも、でも本当に申し訳ないのは僕なのだ。

 

前センター長の妻を駅まで送った。彼女を乗せた新幹線が見えなくなっても、僕はしばらくプラットホームに佇んでいた。事務所に戻らなくてはいけないのは分っていたけれど、なんだか体が思うように動いてくれそうに無かった。手持ち無沙汰に缶珈琲を買ってみた。別に飲みたいわけではない。僕は煙草を止めていたし、ただ、どうしようもない切なさだけが僕を包んでいた。疲れていたのかも知れない。あるいは、それがいかに自然な行為だとしても、かなりのエネルギーを必要とするのかも知れない。一人の人間を深い海の底から救い出すことに。でもそれには何の意味も無かった。片手を伸ばして一方をすくい取ったとしても、もう片方の僕を支えていた手は力尽き、役に立たなかった。意味が無いのだ。僕の手元には、いつも一つのものしか存在しなかったし、それすら長くは存在出来なかった。僕が不器用なのかも知れない。あるいは世界がそういう風にしか存在しないのかも知れない。

 

けたたましく携帯電話がなった。事務所の女の子がもう一人の来客を僕に告げた。

 

 

9

 

 

事務所に戻ると、色白の痩せた、髪の長い女性が来客用のソファに腰掛けていた。彼女はシックなベージュのスーツを着ていた。僕は軽く頭を下げた。事務の女の子は退社時間だったので、来客の名前だけ告げると部屋を出て行った。

「こんな所まで申し訳ございません」

僕は立ったまま、今度は深く頭を下げた。友人の妻となるはずだった女性がそこにいた。彼女も立ち上がり頭を下げた。彼女は、僕の女友達の持つ美しさと違った輝きを放っていた。僕は珈琲を入れなおし、トレーで運んでから彼女の前に座った。

あれから七ヶ月経っている。しかし、彼女の肌の色は、あの時のまま透き通るように白かった。

 

「最初は悲嘆にも暮れましたし怒りもしました。相手側に対して・・・あなたに対して」

僕は心臓を突き刺されたような気がした。

「もしあの日、あなたに会っていなかったら。

もし資料を別の方法で届けていたら。

もし車を使わず電車を利用していたら・・・あの人は死なずにすんだかも知れない」

僕の心臓は突き刺されえぐられた。

「自殺だって何度しようと思いましたわ」

彼女は両手をこすり、硬い拳を作った。それから震える両手を広げ見つめると、そっと合わせた。

「でもそれじゃあんまりでしょう?私達が生きて来た意味がありませんもの。それにそんなことしてもあの人も赤ちゃんも誰も喜びません。私は彼をとても愛しておりましたし、愛されてもいました。でも今は存在しません。それは真実であり、絶対です」

「運命であると言えばそれまでですけど、それは事実ですし逃れられなかった事だったのでしょう。ただ彼を失った事で終わってしまうのではなく、そこには何か与えられたのです。ただ失ったのではなく、何かを悟るために神様は私に試練を与えたもかも知れません。乗り越えられない苦難は与えられません。克服できるからこそ与えられるのです。そう思うと心が軽くなるのを感じました。彼等の死は無駄では無いのです」

「今私にできる事は、彼と産まれる筈だった私達の子供の分を精一杯生きる事。きっと彼等は喜んでくれますわ。彼等は確実に私の中で生きています」

彼女は僕の目を、澄んだ黒い瞳で見つめていた。彼女の微笑は、今までのどんな女性よりも美しかった。

「彼は菊正宗さんをとても慕っておりました。あなたが友人であることを誇りに思っておりました。社会人になってから殆ど会えなかったようですけど、時々お噂をしていたんですよ」

「菊正宗さん、どうぞ彼と私達の産まれてくる筈だった赤ちゃんの事を忘れずにいらして下さい。そうする事で彼等は生き続けられるんです。永遠の命を得るんです」

彼女はお願いします、と深々と頭を下げた。

 

僕は彼女を駅まで送ると、間もなく自分も去るこの地をゆっくりと歩き出した。顔を上げると広大な夜空に無数の星が散っていた。思わず僕は両の手を差し出していた。星空に悠理の顔を見たような気がしたからだ。その手を胸元に下げ、眺める。

この両手から失う事を待つのではない。それが永遠になるまで育んで行けばいい。僕には悠理が必要なのだし、それは偽りではないのだ。もしどちらかが不在になったら、その時に互いがいかに大切な存在だったかを悟ることができるなら、僕は、あるいは悠理が生きていた証となり永遠となるのだ。

愛を二人で育む・・・そこから始めればいい。

僕はスーツの内ポケットの携帯に触れた。何度目かの発信音の後、無言の通話が始まる。彼女は着信の主を知っているから黙っているのだ。

「悠理?清四郎です」

応えない。でも彼女はずっと僕からの電話を待っていたはずだ。

「遅くなりましたが、もうすぐそちらに向かいます。僕が着いたら、悠理・・・二人で愛の行為をしましょうね」

「な・・・ばっ・・・」

それでも彼女は電話を切らない。僕は彼女の言葉をじっと待つ。

「ば、馬鹿野郎・・・は、はや、早く帰って来い」

「ええ、すぐに」

僕は携帯電話を握ったまま、駅の駐車場に向かった。

 

 

 

 


 またもや暗い話を読んで頂きありがとうございました。

どうして私が書くとこんなになってしまうのでしょう・・・

 

実はこの作の考案者は四歳になったばかりの我が息子。

ある日二人でドライブを楽しんでいたら、昨年他界した義父のことを語り出した。

「おじいちゃんは何処行ったの?天国に行ったの?神様のところに行ったの?

いつかお母さんもそこに行くの?僕も行くの?

お母さんまだ行かないで、僕もまだ行かないから」

くっー息子よ!そんなこと聞かんでくれ!!

まぁ、そんな所から想像して書きました。死への恐怖は、こんな小さい頃から生まれるんですね・・・

 

今回もお忙しいフロ様に無理を言って、この作品を引き取って頂きました。

駄作なうえに、暗い話・・・いつも本当にすみません・・・

これからも宜しくお願い致します(根が暗いのでこんなのばかり・・・になるのか?)。

 

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