彼女の小さな部屋

 BY こたん様

後編 

 

 

男は一度も振り返らず、長い廊下の奥にある階段へと進んで行く。

入所している患者や看護士、医師達がいるはずなのに、施設中しんとしていて雨の匂いを残していた。ひんやりとした暗闇は、廊下の隅にじっと留まっていた。

階段の上から僅かに差す光を伝に、あたしは清四郎を追う。

 

「二階へ」

 

廊下に対して左に直角で真っ直ぐな階段を上りきると、横に大きな長い窓があり、ヴェランダには白い木製のテーブルとイスがニ脚あった。雨の雫が太陽によって輝いて、すっかり濡れてしまったそれらも惨めさを感じさせない。

二階には六部屋あり、二部屋ずつ三方の壁に面していた。

壁も廊下も上ってきた階段も、長い時間を経過していたけれど、やはりさっぱりとしていて清潔だった。白い壁が誇らしげに光を浴びている。

四角い小さな曇り硝子の付いた、白い六つのドアの一つを彼は開けた。

中は真っ暗でひんやりとしていた。ここにも雨の匂いと闇が留まっていた。

男はカーテンをさらさら引いた。太陽の光線が部屋を照らし、一瞬に闇が消えた。

 

「もっと中へお入りください」

 

清四郎が進み、あたしが続いた。

部屋は信じられない程狭かった。

正面の窓の下にスチール製の勉強机があり、壁側には病院用のベッド。反対の壁にはやはりスチール製の本棚とロッカーが並んでいた。全て統一された色、灰色だ。

ただ本棚の上にある熊のぬいぐるみや化粧品、机の上にある僅かなアクセサリーが十代の女の子の部屋を思わせた。

清四郎はゆっくり部屋中を見ていた。あたしもキョロキョロ見回した。

あたしの部屋と大違いだ。広さもそうだけど、机も本棚もきちんと整理整頓されてある。

ただ窓から差し込む太陽の光によって、それらには少し埃が被っているのが分った。

あたしは机の前に立ち、人差し指で埃をすくった。そして机の上を観察した。そこには数冊の教科書や参考書、辞書が並べられていた。

 

高校生なんだ。

 

本棚の上にも人差し指で触れた。日本文学や外国文学のハードカバーとペーパーバックが数冊ずつ並べられている。

本棚の上のぬいぐるみの横に、化粧品が幾つか並んであった。それは女の子のおしゃれの度合いを感じさせた。可憐とは全く別だった。

こんな施設で、熱心に化粧をする必要など無いのだ。

あたしには良く分らない。でも、この部屋は女の子の性格を印象付ける。

 

そこであたしはゾクリと背中に、僅かに何かを感じる。

ふと男と目が合った。彼は悲哀に満ちた微笑をあたしに向けた。

 

「何を、感じますか?」

 

男は穏やかに、でもはっきりそう訊いてきた。

清四郎ははっとしてあたしを見た。

 

「何って・・・あたし・・・何も・・・」

「私にも感じるんです。この部屋に来るといつも・・・」

 

あたしは両腕で自分を抱え込んだ。寒さは、今度ははっきりと感じられた。

それはいつもの恐怖と全く違ったものだった。

 

「悠理!」

 

清四郎はあたしに近付くと、すぐに肩を後ろから抱いてくれた。あたしは目を瞑り、清四郎に身体を預けた。

 

     ・・あたしはこの為に呼ばれたんだ・・・

 

女の子の気配が、何時の間にか自分の近くに感じられた。でもそれは感じだけで、前なのか後ろなのか、右なのか左なのか分らない。感じ、なのだ。

あたしの意識は、はっきりとした形としてそこにあった。いつもと違う。

背中に感じる清四郎の温かさがあたしを勇気付けた。それを感じてか、ぎゅっと両肩の手が、その力を込めた。

あたしはそのままの姿勢で神経を集中した。

 

女の子は、白いぼんやりとした物体となってあたし達の傍の空間に佇んでいた。それはでも、人の形ではない。空間に佇む白い雲のような物体として存在しているのだ。

 

そしてさっきより一層、女の子の存在を感じる。

あたしも清四郎も、この男も・・・

時の流れが止まり、この狭い部屋に閉じ込められてしまった。

 

 

両親に愛され、何不自由なく育った彼女。

彼女は成績も良いし、運動だってこなせた。

友人も少ないにしろ、そう呼べる人は何人かいた。

性格だって悪くない。印象だってけっして悪くなかった。

周りは彼女をそう思っていた。

 

でも彼女の中で、いつからか疎外感を持つようになってしまった。

何処かに所属していながら、心は何処にも所属していなかった。所属できなかった。

 

彼女は自分の存在について考えた。

両親に愛され、少ないにしろ良い友人に恵まれ・・・

でも彼女は自分の存在を不在とした時、不在となった自分の存在を肯定できなくなってしまった。

記憶は残る。

でも実体を失った時、果たして自分は何だったろうと考える。

彼女は両親や友人達が、求めている事が何なのか分らなかった。

求められている事すら無い、と考えた。

 

愛されている事さえ忘れた。

 

彼女は苦しんだ。夜通し泣いた時もあった。

そんな苦しみの変化に、誰も気付かなかった。

 

それが問題だったのだ。

 

彼女は自分の存在なんて無きに等しいと考えた。自分は何処にも馴染めないし、馴染めるだけの力が無いと考えた。

誰も必要としないし、むしろ、邪魔なのではないかとまで考えるに至ってしまった。

 

彼女が求めているのは誰かの腕では無く、

彼女が求めているのは誰かの温もりでも無かった。

 

「お前が必要なのだ」

 

と言う言葉だった。

彼女の存在を肯定する言葉だった。

甘えではなく、安らぎだった。

彼女がもし手を伸ばしたのなら、答えはすぐに見つかったのかも知れない。

 

「お前はそこにいるだけで、良いのだ」

 

 

沈黙が彼女の部屋中を覆った。

 

「そう、ですね・・・」

 

女の子の父親が言った。

あたしの身体は、完全な寒さに支配されていた。清四郎はあたしをすっぽり包み、耳朶に唇を寄せた。

 

「必要の無い人間なんて、いやしません」

 

父親は両膝を床に着いて項垂れた。

 

「すまないね・・・お父さんは・・・何の声もかけてあげなかった。そんなに悩んでいるなんて・・・何も知らなかった・・・お前の事は何も・・・何も分ってあげていなかったね・・・本当にすまなかった・・・

でもお前の事は、お父さんもお母さんもとても愛しているんだよ。誰よりも、何よりも・・・いつまでも・・・」

 

 

突然、現実的な光と時の流れが戻ってきた。

 

「消えちゃった」

 

女の子の存在が、消えた。

 

もう、彼女は絶望的な死を受けていない。

そんなこと、絶対にありっこない。絶対に!

 

父親はその場に泣き崩れた。

今では彼の嗚咽だけが部屋中を覆った。

 

 

あたし達がバス停に向かう時には、山はすっかり闇に呑まれ、空は不気味なほど赤く染まっていた。

あたしはあの父親を思った。

泣き崩れ、嗚咽し、身体を震わせる父親。

そしてあの部屋の娘の存在。

清四郎はあたしの手を握り締め、何も語らなかった。

 

帰りのバスはあたし達だけだった。でもまた、後部座席に座った。

今度のバスは心地よく暖房が入っていて、バスを待つ間に冷え切った身体は温かさを少し取り戻していた。でも、まだ手足の指先がじんじんとしていた。

 

生きているのだ。

あたしも清四郎も。確実に。

 

「あの施設に、あの人の娘さんが入所していたんだな」

「ええ。そしてあそこで亡くなられたのでしょう。だから彼も、あそこの入所を選んだんですよ」

「自殺、だったのかな・・・」

「良く分りませんが、多分・・・だから地方営業所にいた時、彼はアルコールに溺れたんですよ。看取ってやれなかった事が悔やまれたのかも知れません。孤独なまま、心の内を誰にも汲み取ってもらえないまま亡くなった娘さんが、せめて死後寂しくないように、傍にいたかったのかも知れません」

 

「あの子、ちゃんとバスに乗れたかな?」

「乗れましたよ。悠理、あなたが乗せたのです」

 

清四郎はあたしを優しく見つめ、そう言った。目に涙が込み上げてくるのを感じる。

あたしは清四郎の胸にしがみ付いてわんわん泣いた。

時々泣くのに疲れて大きく息を吸い、それから又涙が込み上げ、泣くと言うこの事態にどうする事も出来ずに又泣いた。

清四郎はそんなどうしようもないあたしの背中をずっと摩っていた。

もう大丈夫、心配ないですよ、そう何度も言い聞かせながら。

 

この涙は彼女のもの。

あの施設の小さな彼女の部屋で、もう誰も自分の心の内を分ってもらえないと絶望し、死を選んだ彼女の涙。

あたしには分るよ。

この涙がどんなに温かく、喜びに溢れているか。

 

 

旅館に戻り、混浴の露天風呂に清四郎と一緒に入った。秘湯へ行く気にもなれない。

とてもじゃないが、独りで温泉に入る勇気は無い。色気も何も無い。

あたし達の身体は余りにも疲れ、冷え切っていた。

二人で寄り添うように風呂に入る、それが精一杯だった。

ゴツゴツした黒い岩間から満天の星空を眺め、滝の音を聞き、乳白色の湯に入っても、何も感動しなかった。

 

「悠理・・・部屋に早く戻って、生きている事を確かめ合いましょ」

 

その言葉通り、あたし達は湯冷めをする前に、食事を取る前に、布団に潜り込んだ。

 

一戦交えた後、あたしは清四郎の胸に顔を寄せたまま、じっと今日あった出来事を思っていた。清四郎も息を整えながらあたしの髪を撫でていた。

 

「ねぇ、悠理」

「ん・・・何・・・」

 

あたしは行為の後の気だるさと虚しさと、彼女への悲しさを混ぜ合わせて応える。

 

「僕たちは同じバスに乗りましょう。年を取って此の世を去る時は、一緒に旅立ちましょう。向こうに行っても一緒にいられるように」

「ぶっ!そんなの無理だよ!」

「努力すればなんとでもなるんです」

 

それも悪くないかも。

あたしは清四郎にしがみ付く。

 

「ねぇ、それだったらあいつ等も一緒がいいな。魅録に美童、野梨子と可憐。同じバスに乗って、向こうでもあの頃のように一緒に馬鹿やって、さ」

「いいですね。どうせ腐れ縁ですから」

 

あたし達は顔を見合わせて微笑した。

そしてもう一度、身体がもっと熱くなるように肌を重ね合わせた。

 

 

 

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

一応これは、「僕の両手に残るもの」の続編でございます。

そしてちょっとオカルト?ホラー?のつもりです。

魂の救済とは???・・・なんて大袈裟なものではありませんが、「傷ついた心の救い」をテーマ(?)に今回は書いてみました。

そして珍しく、悠理と清四郎は最初から最後までラブラブ(???)でした!

 

フロ様

いつも駄作を送りつけて申し訳ございません。

でもこたんの救いは、フロ様に私の駄作を引き取って頂く事でございます。

これからも宜しくお願い致します。

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