「チョコより甘い・・・」


深夜一時。
さっぱり進まない論文に、清四郎はキーを打つ手を止め大きく伸びをした。
ディスプレイの文章があまりに誤字脱字だらけで思わず苦笑してしまう。
開いた独語の文章を目で追ってみても、一向に頭に入らない。
新しい症例の資料を見てもちっとも心が弾まない。
頭の中を支配するのは、悠理のことだけだった。
「きっと今頃、お腹出して寝てるんでしょうねぇ・・・」
―――僕の気持ちも知らないで。

机の上に置いてある写真盾にはふたりで取った写真が収まっている。
クリスマスに悠理が置いていったその写真盾の中身はこの一月半で三回変わった。
今は、先週のふたりが入っている。
それを手にすると、瞳を和らげ写真の中の笑顔を見つめた。
(「会いたい」なんて言えば、きっと鬼の首でも取った様に嬉しそうな顔をするんだろうな)
「それとも、真っ赤になって照れるか?」
想像の中の恋人は、どちらにしても微笑んでいた。

「さてと、もう一頑張りしますかね」
写真盾を先程よりも近くに置き、気合を入れるように医学書に向った。
だが、まるでそれを見計らっていたかのように、静かな部屋に携帯の着信音が響いた。
「今日は、やっぱり無理みたいだな」
その特別なメロディーにニヤリと笑って論文を書きあげるのを放棄すると、パソコンの電源を落としながら、通話ボタンを押した。
「どうしたんですか。こんな時間に」
嬉しいくせに、ワザと素っ気無く言ってみる。
『べ、別に・・。ただ、どうしてるかなぁと思ってさ・・』
電話の向こうの愛しい声は、いつもの元気なそれとは少し違っていた。
「何もしてませんよ、そろそろ寝ようと思ってたし」
自分でも嫌になるぐらい素直じゃないな、と苦笑を漏らし、また写真盾を手にした。
『そっか・・。じゃ、じゃぁな・・。オヤスミ・・』
元気のない声に更に落胆が混じった。あまりの素っ気無さに、きっと俯いてしまったのだろう。それが目に見える様で、嬉しくなる。
「悠理」
『何!?』
(あ、今顔あげましたね)
清四郎はほくそ笑むと、いつも通りの声で訊いた。
「悠理は何してたんです?」
『あ、あたいも・・そろそろ寝よっかな・・って・・』
「そうですか、それじゃ」
『あっ!あのさ・・・』
「うん?」
『あのな・・』
「はい」
『あ、あ、明日の天気って・・どう思う・・?』
「明日は曇りのち雨、もしかしたら雪になるかも、らしいですよ」
『そ、そか・・・』
「そうです」
『こんなに星見えてんのにな』
「そんなに、星見えます?」
『うん・・』
清四郎は写真盾を手にしたままベッドに腰掛けると、窓に顔を向けた。部屋を映したガラスの向こうにはただ暗闇が広がっていた。
「ちゃんと暖かい格好してますか?どうせパジャマで窓に張りついてるんでしょう。いくら部屋の中が暖かいからって窓辺は冷たいですからね。さっさとベッドに入ってください」
『今部屋じゃないもんね』
冗談めかした言葉に悠理の意外な返事が返ってきた。
清四郎は思わず時計を見た。
「なら、どこにいるって言うんですか?まさか、外じゃないでしょうね」
『そのまさかだったりして』
焦っているのがわかったのだろうか。悠理の声のトーンが少し上がった。
「さっき、もう寝るトコだとか言ってませんでしたか」
清四郎は声を抑え、とがめる様に訊いた。耳を済ましてみるが、悠理の声以外周りに音は聞こえない。いつもと違う声の雰囲気といい、胸の奥に小さな不安が過る。
『うっ・・・・。だって・・・』
「どこにいるんです」
『お前、怒ってるから言わない』
「別に怒ってなんていませんよ」
『嘘つけ。声が怒ってる』
「怒ってません。それより、どこにいるんです?誰かと一緒ですか?」
『ううん。一人』
「一人でこんな時間に外にいるって言うんですか!」
『うん』
「うんじゃないでしょう。どこにいるんです。さっさと家に電話して車を・・。いや、僕が行きます、場所を・・」
『ココってそこからだと、すっごい遠いぞ。それでも来るのか?』
清四郎が焦るのと反比例するかの様に、悠理の声は徐々に楽しげなものに変わっていった。
実際、普段はあまり聞く事のできないそんな声を楽しんでいるのだろう。
「当たり前でしょう。そこは人気がないんでしょ?そんな所に悠理一人をいさせておくわけにいきませんからね。とりあえず人気のあるところまで行くんだ」
清四郎がソファにかけてあったコートを手にしようとしたとき、次の言葉にその手が止まった。
『じゃぁ、ヒントやるよ』
「悠理、いい加減にするんだ」
『ホントはさ、そんな遠くじゃないんだ。お前もよく知ってるトコ。う〜ん・・何があるかな・・街灯が一、二ぃ・・・見えるとこは・・そんなもんか?結構少ないもんだな』
「悠理」
『その他に明かりがひとつ』
「悠理」
『すっごい静かでさ、あたいの声とお前の声しか聞こえない。お前も耳済ましてみろよ。あたいの声しか聞こえないだろ?』
―――まさか・・・。
清四郎は部屋を飛び出した。



「悠理!!」
玄関を出ると門扉の向こうに、ぽっかりと浮いたような柔らかい光りに照らされた、白い息が見えた。
急いで門を開け、マフラーに埋もれた笑顔を抱きしめる。
「お前、気付くの遅すぎ。携帯の声近かったろぉ?」
「いつからいた?」
「電話かけるちょっと前から」
「どうしてすぐ言わない。こんなに冷え切って」
「だって、こんな時間だし・・」
「何かあったのか?」
「なんにもないぞ」
「ならどうして・・・」
「なんでだろうな」
「そんなに僕に会いたかったんですか」
「自惚れんな」
「自惚れてなんかいませんよ。事実でしょ」
「あたいが会いたかったんじゃないぞ。お前があたいに会いたいだろうなぁと思ったから来てやったんだ」
「ほぉ〜。それはそれは。よく僕が悠理に会いたがってる事わかりましたね」
「そりゃな。お前の考えてることぐらいお見通しに決まってるだろ」
「じゃぁ今僕が何をしたいかもわかってるんですね」
「いちいちそんなこと訊くなよな。なんかスケベなオヤジみたいだぞ」
「失礼な。でも、拒むつもりもないんでしょ」
「仕方ないからな」
清四郎は寒さで紅くなった頬を両手で挟むと、悠理に体温を移すかのように深く口付けた。

「なぁ、お前こんな格好じゃ風邪ひくぞ」
唇が離れると、悠理の眉間に皺が寄った。
「1秒でも惜しかったんですよ」
「・・・バカ」
悠理は清四郎の身体が冷えない様にしっかりしがみつくと背中を摩った。
だが手を動かすたびにガサゴソと妙な音がしている。
「何の音ですか?」
「あ、そだ。お前がいきなり変な事するから忘れてたじゃないか」
悠理はそう言って清四郎の背中を叩くと、腕の中から離れようとした。
「ちょっ、離せよ」
「嫌です」
だが清四郎は、更に抱く腕に力を入れ離れようとはしなかった。
「嫌ですじゃないだろ、ちょっと離せよ」
悠理は身体と身体の間に腕を入れると、清四郎の胸を押し返そうとした。
それでも清四郎の身体はびくともせず、もがく悠理を楽しむように抱きしめ続ける。
「なぁ、いいもんやるからさぁ」
「何もいりませんよ。悠理さえいてくれればそれだけで」
「お、お前何ハズイ事言ってんだよ」
いつもとは違う清四郎の甘い言葉に、悠理の押し返そうとする腕の力も弱まってしまった。清四郎はここぞとばかりに抱きなおすと悠理の頭を自分の胸に押しつけ、更に続けた。
「僕には悠理以外欲しいものなんかありませんから」
「お前なぁ・・・。どこでそんなハズいセリフ覚えてきたんだよ」
悠理も諦めたのか、その腕はまた背中に回っていった。
「別に覚えてきたわけじゃないですよ。僕の正直な気持ちです」
「ばーか。でもさぁ、離さないと後悔するぞ、きっと」
悠理は笑いを含んだ口調でそう言うと、清四郎のセーターをぎゅっと掴んだ。
「後悔?何を後悔するって言うんですか?」
「お前、今日が何の日か知ってるか?」
「今日ですか・・・」
「でも、お前いらないんだよな。じゃぁこれどうしよっかな・・魅録と美童にでもやるかな」
「まさか・・・」
クスクス笑う悠理の肩を掴み、ガバッと引き離した。
「いらないんだろ?」
悪戯っぽく笑う悠理の手には小さな紙袋が揺れている。
清四郎は信じられないとばかりに、その袋と悠理の笑顔を交互に見比べた。
「これ・・・」
「せっかく頑張って作ってやったのになぁ・・・。そっか、いらないのか」
「悠理・・・」
「一番に渡したかったんだ。お前が、まだ誰からも貰わないうちに」
悠理ははにかむ様に笑うと自分のマフラーを外し、少し背伸びして呆然としている清四郎の首に巻きつけた。
清四郎は堪らず悠理を抱きしめると、その髪に顔を埋めた。
「悠理以外の誰から貰うって言うんですか・・・」
「毎年いっぱい貰うじゃん」
「今年はもう誰からも貰いませんよ」
「ホントか?」
「えぇ」
「野梨子や可憐からも?」
「二人からは去年までだって貰った事ありませんけどね」
清四郎は可笑しそうにそう言った。
「ホントにあたいだけか?」
「悠理がそれをくれるならね」
「じゃぁしゃーねーな」

―――交わしたキスはその後のチョコより甘かった。


 

 

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