「地獄と天国」


秋晴れの空の下。聖プレジデント学園の校庭に歓声と特有の軽快なメロディーが木霊していた。
普段は大人しい生徒達も、この「体育祭」という独特の雰囲気の中では皆、気分も高揚し頬を上気させてそれぞれの競技を楽しんでいる。
だがその中に、一人だけまるで鬱蒼とした冬の雲のような重苦しい空気を背中に背負い込んだ男がいた。
しかしまだ曇り程度ならそれもマシだったかもしれない。
この男の場合、重さは冬の雲でもその内容は夏の夕立のそれなのだ。
まるで今にも雷鳴が轟きそうに、彼の周りの空気はピリピリと張り詰めている。
―――菊正宗清四郎、それがこの男の名である。

彼は今、友人である美貌の持ち主黄桜可憐の「体育祭だなんて、日に焼けたらどうしてくれんのよ!」という言葉によって設置された生徒会役員用のテントの下にいた。
一応長机と簡易椅子が置かれている。
清四郎はその机の上に山積みに詰まれた生徒達から差し入れされた弁当の包みの間に頬杖を突いて苦虫を噛み潰していた。
普段余り表情を帰る事のない清四郎は、ポーカーフェイスに徹する余裕もないのか、それともわかっていてあからさまにそうしているのか、不機嫌さを隠そうともしていなかった。
後ろでは先ほどからずっと「1,2・・・1,2・・・」と掛け声が聞こえている。
いつもなら思わず相好を崩してしまうその声も、今の清四郎にとっては癪に触る以外何ものでもなかった。
「馬鹿馬鹿しい・・・」

「んー、調子い〜!魅録!これであたいらの優勝は決定だな」
「おぅ、当たりまえだろ。お前と俺のコンビに敵う奴なんざ元からいないんだからな。本当は練習なんてしなくてもいいぐらいだぜ」
「だよなー」

(なぁにが、お前と俺、なんですか。魅録より相手は僕のほうが無敵に決まっているでしょう)
フンと鼻を鳴らし、頬杖をついたまま元凶をチラリと振り返る。
清四郎の後ろでは、彼の恋人・悠理とふたりの親友である魅録がそれぞれ右足と左足を一本の襷で繋ぎ二人三脚の練習に励んでいた。

クラス対抗の二人三脚競争。
同じクラスの悠理と魅録は公正なくじ引により、ペアを組む事になっていた。
魅録の腕が悠理の細い肩に回り、悠理の腕は魅録の腰に回っている。
それは二人三脚なら当たり前の構図なのだが、清四郎にとってはふたりがその競技に出ると決まったと聞いた時から考えるだけでも腹立たしいものだった。
現に参加が決まった二週間前から今日まで、一度もふたりに練習をさせなかったほどだ。
今だって、悠理はともかく、魅録は清四郎のオーラを感じているはずだった。
だから魅録も必要以上に練習しようとはしない。先ほどの視線を感じたのか、既に襷に手を掛けていた。

「だからさ、この辺でもう練習も切り上げよう」
「え〜。いいじゃん。まだもうちょっとしとこうぜ〜」
清四郎の命によって練習を妨害されていた悠理は、まるで当てつけるように大きな声で言った。
彼女は大体にして清四郎の嫉妬深さに辟易していたのだ。
清四郎がヤキモチを妬いてくれる事は嬉しい。
普段全然優しい恋人ではないだけに、そんなときは少し可愛くも愛しくもある。
だが、モノには限度というものがあった。
この二人三脚だって、自ら出ると決めたわけでも相手を魅録と指名したわけでもない。全くの偶然なのだ。
それなのに、この二週間の不機嫌さといったら堪ったものじゃなかった。
よくこの競技が中止にならなかったと、不思議に思うほど顔つきも態度も厳しくなっていたのだ。
「ゆ、悠理?もう止めておいたほうがよろしいんじゃなくて?」
「そうよお。これ以上あんな顔されたら気が滅入るわ」
「可憐!」
まるでトラック内で行われている競技を熱心に見ているかのような清四郎の後姿にボソボソと仲間達が悠理を嗜める。
「フン!あんな奴放っとけばいいんだよ」
悠理は魅録の手を振り払い、襷をきつく結ぶと彼の腰に腕を回した。
「ほら魅録、やるぞ」
「あ、あぁ」

ちらちらという魅録の視線を感じる。
清四郎とて、彼に何の責任もないのはわかっていた。もちろん悠理にもだ。
だが、頭では理解できても気持ちがそれに追いつかないのだ。
知らず知らずのうちに、自分でも不機嫌になっているのはわかっていたし、彼や悠理についきつい口調になってしまう事にも苛立っていた。
(本当に・・・・情け無くなるな・・・)
皆が恐れをなす見た目の雰囲気とは裏腹に、清四郎は心の中で溜息をついていた。

『―――二人三脚競走に出場する生徒の皆さんは、入場門に集合してください』
放送部によるアナウンスが流れ、清四郎は頬杖から顔を上げた。
背後では、悠理の気合を入れる声が聞こえている。
清四郎は、立ち上がると、その元へ歩み寄った。
「悠理」
「なんだよ」
眼を逸らし、明らかに膨れている。
他の仲間たちも清四郎が何を言い出すのかと、緊張しているのがわかった。
「頑張ってくださいね」
その髪に手を置き、くしゃくしゃっと撫でた。
「え?」
悠理が清四郎の顔を見上げると、少し首を傾げ微笑んでいた。
「じゃ」
「お、オイ!」
清四郎は、悠理の脇をすり抜けると、校庭でもクラスに決められた所定の席のある方向でもなく、校舎に向かっていった。
「見ないつもりだね」
「結構、肝っ玉小さいわよね」
「無理やり止めさせなかっただけマシですわよ」
「俺、殴られるのかと思った」
清四郎の姿が見えなくなり、緊張の解けた四人はほっと息をつくと、魅録以外は勝手な事を言い出している。
だが悠理はそんな声など耳に入っていないかのように、清四郎が向かった先を見つめた。


「―――やっぱり、ここだった」
「もう終わったんですか?」
生徒会室の開け放された窓からは、白いレースのカーテンを揺らす風に乗って歓声が聞こえている。
清四郎は深く預けていたソファから身体を起こすと、ドアの処で立ち止まっている悠理を見た。
「見て無かったのか?」
後ろ手でドアを閉めた悠理は、まだその場に立ち止まったままだった。
「あれ以上、情けないところを見せたくなかったのでね」
自嘲気味に口元を歪める清四郎に、悠理も口元を上げた。
「今までだって十分、情けない男だったぞ。お前、ヤキモチ妬き過ぎ」
その言葉にふと笑い肩の力を抜く。
悠理に視線を向けると、白く細い膝に赤い擦り傷を見つけた。
「怪我、したんですか」
「ちょ、ちょっと、こけちゃってさ」
悠理は慌てたように、その傷を手で隠すと更にしゃがみ込んだ。
「こけたって・・・魅録は一体何をしていたんですか。悠理に怪我をさせるなんて」
立ち上がり近付く清四郎は眉間に皺を寄せ、また不機嫌になっている。
「魅録が悪いわけじゃないんだ」
「庇うんですか?」
さらに不機嫌そうな声になりながらも、自らもしゃがみ傷口にかぶせている悠理の手を外す。
今までの悠理からすれば、全然大した怪我ではないが、二人三脚の所為でと思うと妙に腹立たしかった。
「違うって。・・・・だから、その・・・・ちょっとあたいが余所見とかしてたからさ・・・」
「余所見?フン、えらく余裕ですね」
清四郎は悠理の腰に手を添え、立ち上がらせた。だが冷たい声色とは反対にその動作は優しかった。
「そこのソファに座っててください。消毒しますから」
悠理に背を向け、救急箱の置いてある棚に向かった。
「いいよ、こんなの。唾つけときゃ治るから」
「駄目ですよ」
背後から聞こえた声を軽くあしらい、救急箱を取り出す。
消毒液を手にして、振り返ると悠理がすぐ傍まで来ていた。
「お前がどっかにいると思ったんだ」
「何の話ですか」
「なんだかんだ言ってもお前は見ててくれてると思ったの。だから、気になって探してたら・・・・すっ転んだ」
思わず清四郎は手にしていた消毒液の入った小瓶を落としてしまった。
「うわっ!な、何してんだよお」
幸い割れはしなかったが、褐色の中身が床に派手に広がり悠理は慌てて飛びのいた。
だが清四郎はそんなこと気付いてもいないかのように目を見開いている。
「僕を探してて・・・?怒ってたんじゃないのか」
「怒ってたのはお前だろ」
悠理は眉間に皺を寄せた。しかしその頬はほんのり紅く染まっている。
「そ、そんなことより早くこれ何とかしないと、野梨子と可憐に怒られるぞ」
悠理は恥ずかしさを隠すように、ティッシュを取りに行こうとその場を離れようとした。
が、清四郎に腕を掴まれ、強く抱きしめられる。
「悪かった」
「・・・・うん」
耳元で囁かれた声に、悠理が小さく頷くと、清四郎の腕が少し緩んだ。

唇を重ねていると、悠理が小さく「んっ」と呻きその身体が僅かに沈んだ。
顔を離し、表情を見ると、「えヘヘヘへ、何でもない」と笑っている。
しかし、清四郎にもわかっていた。
熱が篭り更に悠理の身体を強く抱きしめた瞬間、滑らかな肌のそれとは別に、ざらりとした湿った感触を脚に感じたのだ。
悠理の傷口が強く抱きしめられた事によって清四郎の脚に触れてしまったらしい。
大した事無いとは言っても、一応は擦過傷と打ち身の怪我だ。
痛くないわけじゃない。
「・・・消毒するのを忘れてましたよ」
「だって、お前が落としたからもう消毒液ないぞ」
ふたりの足元に、茶色の水溜りが広がっている。
「唾で十分なんでしょ」
いつもの、何か企んでいるような楽しげな表情になった清四郎はすっと悠理の視界から消えた。
「え、あ、オイ!」
悠理が慌てて身を引こうとしても遅かった。
膝を折った清四郎はしっかりと、悠理の怪我をしている脚を抱え込み、その傷口に唇を寄せていた。


―――その後、参加する予定であった競技は全て、ふたりとも無断欠場する事となった。


 

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