「虚無」


 

蜩が夏の終わりを告げている。
(まだ、東京にもいたんだな)
そう思い、すぐに自嘲した。
隣の緑の覆い茂る日本家屋ならばそれも不思議ではないだろうと、気付いたのだ。
いつもの自分ならばすぐにそんなこと思い当たるのに。
昼間だと言うのに自室のベッドの上に仰向けに寝転がり、何をするでもなく天井をぼんやりと見つめていた。
(今頃悠理も、聴いているだろうか・・・・)
悠理の大好きな夏は、まだ八月も半ばだと言うのに翳りを見せていた。
今の清四郎の心のように。

悠理が携帯にたった一言を残し、清四郎の前から姿を消したのは二週間ほど前だった。
メールにはただ一言、「bye」と綴られているだけであった。
前日、ふたりは喧嘩をした。
といっても、悠理が一方的に清四郎に怒りをぶつけていただけであったのだが。
それはいつもの事であり、また、すぐに宥めすかし、仲直りできるものだった。
だが、そう思っていたのは清四郎だけであった。
抱きしめようとした手を振り払われた。
―――いつもいつも、そんなことで誤魔化されると思うなよ!
―――あたいにだってプライドってもんがあるんだ!お前の思い通りになんかならない!
ショックだった。
誤魔化しているつもりも、悠理のプライドを無視したつもりも、ましてや自分の思い通りになどしたつもりなどあるはずもなかった。
抱きしめたいと思ったから抱きしめた。
いつも自分を持っている悠理を純粋に愛した。
恋焦がれる恋人は、いつも自分の腕からすり抜けていきそうだった。
想いが強すぎて苦しんでいるのは自分だと思っていた。
それなのに。
悠理には全く届いていなかった。
それどころか、苦しめていた。

悠理の居場所はわかっていた。
母親である百合子の別荘。
悠理は家族や友人達とはちゃんと連絡をとっていたのだ。
事情を知ったお節介な友人達が清四郎にその場所を教えた。
だが、清四郎は二週間たった今でもその場所に行く事が出来なかった。
今更会いに行ってなんと言えば良いのかわからなかった。
この気持ちをどう伝えれば許してもらえるのか。
知らぬ間に傷つけていた悠理の心を、どうすれば癒す事が出来るのか。
何より、はっきりとその口から別離を切り出される事が怖かった。
たった二週間前には、怖いものなど何一つないと思っていた。
そんな思い上がりも、悠理にとっては自分と離れたくなる原因だったのかもしれない。
悠理がいなくなって始めて、恐怖を感じた。
何をするにも、悠理が離れていった原因に思えて仕方なかった。

(参ったな・・・)
―――絶対、お前をぎゃふんと言わせてやる!
いつの言葉だったろう。
最後の喧嘩の時か。それともその前か。
つまらない喧嘩を嫌というほどした。
いつか言われたその言葉が今になって甦る。
(あぁ、確かに僕の負けだ)
悠理がいない。悠理に突き放された。
それがこんなにも自分を崩壊させるとは思わなかった。
ずっと傍にいるものだと思っていた。
いつもあの無邪気な笑顔が自分を愛してくれるものだと思っていた。

全て、消えた―――。

ぞわり。
不意に全身が総毛立った。
起き上がり、口元を抑える。
吐きそうだった。
清四郎の体に、精神に、限界が来ていた。

渡されたメモを必死に探す。
悠理の居場所を。
見つからなかった。だが清四郎は、表に飛び出した。
一度見たきりのそのメモの記憶を辿って。
メモを探し出す僅かな時間も惜しかった。
悠理が許してくれるかどうかもわからない。
それでも会いたかった。この腕に抱きしめたかった。
どんなに拒否されても、離れる事など出来ない。
その思いこそが、また悠理を傷つける事になっても。

小高い丘の上に白亜の城が見えた。
ここまでどうやって来れたのか、清四郎は自分でも良くわからなかった。
汗が額を伝い、顎から地面へと落ちる。
それを拭い、肩でしていた呼吸を整えると、一歩一歩確かめるように足を踏み出した。
だがそのリズムはすぐに早くなり、いつしかまた走り出していた。
鼓動が高鳴り、胸が苦しくなる。
服の上から胸を鷲づかみにし、それでも駆け上がった。
城壁にぶつかり、入り口を求めてまた走る。
やっと見えたアーチの傍の庭に、愛して止まない姿があった。

今度こそ、清四郎は心臓が止まるかと思った。
突然ぷつりと途絶えてしまいそうなぐらい激しい動悸に、壁に手をつかずにいられない。
やっと見つけたその姿が目の前にあるのに、そこから足がでなかった。
「悠理・・・」
その呟きが聞こえたというのだろうか。
悠理が振り返った。
友人達には黙っていなかったこの場所に、いつか自分が来るのだろうと覚悟はしていたらしい。
一瞬驚いたように目を見開いたが、逃げる事はしなかった。
それどころか、悠理のほうから近寄ってきた。
清四郎は呼吸を整え、自らもなんとか足を踏み出した。

触れようと手を伸ばすと、悠理は意外にも大人しくしていた。
頬に触れ、感触を確かめる。
じっと力強く見つめてくるその眼は、何を思っているのだろうか。
「悠理・・」
「何しに来たんだ」
清四郎はありのままの気持ちを伝えた。
「お前を抱きしめに来た。愛しているから、この腕にお前を抱きたい」
「・・・・・・嫌だって言ったら?」
悠理はまだ眼を逸らさなかった。
「それでも抱く。お前を傷つけても、抱きしめたい。―――悠理がいないと僕は駄目なんだ」
清四郎は力の限り、悠理を抱きしめた。
「あぁっ・・・・・ん・」
そのあまりのきつさに、悠理の口から甘い息が漏れる。
だが清四郎は力を緩めようとはしなかった。
今緩めれば、また悠理が何処かへ行ってしまう気がした。
「―――もう離さない」
それに応えるように、悠理の腕が清四郎の背中に回った。

「せーしろ・・・」
愛しい声に名を呼ばれ、清四郎が眼を覚ますと、どこか心配気に覗きこむ悠理の顔があった。
堪らず、その細い首に腕を回し、引き寄せた。
「せ、せーしろっ」
「おはよ・・・・」
唇が触れ合う寸前、ものすごい衝撃をその頬に受けた。
「な!なに寝ぼけてんだ、この変態!」
頬がじんじんする。
真っ赤になって走り去る悠理を、清四郎は慌てて追いかけようと体を起こした。
「悠理!・・・・・・え?」
そこには、呆れた顔をした友人達がいた。しかも今、自分がいるのはどう見てもいつもの生徒会室。
頭がくらりと揺れる。
「清四郎・・・。お前、今のはちょっとヤバいだろ」
魅録が呆然としている清四郎の肩に手を置き、溜息をついた。
「いくら僕でも、いきなりはお勧め出来ないなぁ。まずちゃんと気持ちを伝えてから・・・」
美童も肩を竦め、両の掌を見せている。
「あんた、頭打ってちょっとおかしくなったんじゃない?」
訝しげに可憐が清四郎の顔を覗きこむと、野梨子が目の前で指を立てた。
「清四郎、これ何本だかわかります?」

痛む頭で、記憶を辿った。
―――その日、清四郎はいつものように悠理をからかっていた。
想いの通じ合っている恋人同士であったならきっと、それは甘い戯れになったのだろう。
が、清四郎の想いは今の処、全くの一方通行であった。
想いを素直に伝えるなんて芸当、とてもじゃないが自他共に認める捻くれ者の清四郎にはできなかった。
クルクル替わる悠理の表情をもっと見たくて、いつも以上にちょっかいを掛けたのがまずかったらしい。
流石に悠理も我慢の限界が来ていたようだった。
それでもまだ清四郎は余裕だった。
「あ〜ハイハイ。わかった。僕が悪かった。お詫びに食事にでも行きましょう」
全てはこのセリフのためだった。
怒らせて、宥めて、食事に誘う。
こんな方法でしかデートに誘う事が出来なかった。
いつもならここで、悠理が不貞腐れながらでもその提案に乗ってくるはずだった。
だが、返って来たのはこの言葉だった。
「いつもいつも、そんなことで誤魔化されると思うなよ!―――あたいにだってプライドってもんがあるんだ!お前の思い通りになんかならない!」
捕まえようとした腕は振り払われ、思いの外強かったその力に清四郎は不覚にもバランスを崩し、よろけた体は机の角にしこたま頭をぶつける結果になった。

頬の痛みとは別に後頭部がズキズキする。
「大体ねぇ、自業自得なのよ。最近のあんた、ちょっと悠理に酷すぎるわよ」
「いい加減子供じゃないんだからさぁ、悠理にちゃんと言ってあげろよ〜」
「悠理だって訳もわからずいじめられてるんじゃ、そりゃ怒りますわよ」
「清四郎。年貢の納め時だ。素直になれ」
だが清四郎は、周りのそんな声は全く聞こえていなかった。
(夢・・・・。やっとこの腕の中に捕まえたと思ったのに―――)

自分の手を見つめ、がっくりと肩を落とす清四郎の姿はそれから暫くの間、しばしば目撃される事となる。

 

 

 


 

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