「累」

並んで歩く、帰り道。
男の手が恋人のそれにそっと重なった。
それがまるでスイッチであったかのように真っ赤になる彼女に、クスリと微笑む。
小さなその手はぎゅっと握れば潰れてしまいそうなほどか弱い。
だから男は壊さない様に、壊れないように、大切にしっかりと握り締めた。

(・・・・・・なんて、あたいらには有り得ない話だよな)
今朝、可憐と野梨子が頬を緩め見ていた雑誌のとあるページが甦る。
男女の後姿がひっそりと寄り添い、そのキャッチコピーに短い文章が載っていた。
それを見た二人が悠理に「ねぇ清四郎もこんな風なの?」と冷やかし半分で訊いてきたのだ。
恥ずかしくて「冗談じゃない!」と怒鳴って見せたが、悠理だって、そういう雰囲気にほんの少しだけ憧れにも似た感情があるのは事実だった。
だがそれもこれも清四郎が今のように、平気で自分を放ったらかしにする所為だと、悠理は思っていた。
悠理は先ほどから偶然であった知人と話しこむ清四郎の顔をちらりと見上げ、そっと溜息をついた。

ふたりは一度清四郎の家に寄ってから、彼と共に食事に行く予定になっていた。
悠理の着替えはその為、前日から菊正宗家で待機中である。
学校から菊正宗家は徒歩で通用する距離ではあったが、間にその両方の立地環境からは意外なほどかけ離れた繁華街を通る。
表通りは悠理も大好きな賑やかな商店街であるのだが、少し路地を入ると途端に昼間でも聖プレジデントの生徒が通る事の出来ないような店が立ち並ぶ地域になる。
といっても、見た目や雰囲気が表とは違うだけでその店々の住人達は至って気さくな人間ばかりなのだ。
そして、実はその路地こそ菊正宗家への近道でもあった。
ふたりは今日もその路を急いでいたのだが、そこでその路地の住人でもある清四郎の知り合いにばたりと出会った。

「悠理ちゃんも久しぶりだね、元気だったかい?」
「あぁ。おっちゃんも元気そうだな」
清四郎の行きつけの喫茶店のマスターであるその男には悠理も何度か会った事があった。
付き合う前に一度、付き合い始めてからも二、三度、清四郎に連れられその店を訪れていた。
店に自分達以外に客がいた事を見た事がないというぐらい、悠理が行った日はガラ空きの店。
なのに、居心地は最高に良く、コーヒーもケーキも美味しかった。
彼の幼馴染も、親友も知らないその店は、自分だからこそ知る事が出来たのだと悠理は柄にもなく素直に幸せだと思った。
しかし、裏を返せば、そんなことでしか、自分の立場が特別であると思える事がなかったのである。

清四郎は気持ちを伝え合った日からその後、一度も「好きだ」とも「愛してる」とも「大切だ」とも言わない。
いや、言われれば言われたで、悠理とて、眉を顰め「なに言ってんの?」と可愛くない事を言ってしまうのは自分でも嫌になるほどわかっている。だが、全く何も言われないのも、なんだか腹が立つのだ。
おまけに手を繋ぐどころか、ふたりきりのデートだって付き合い始めてからのこの三ヶ月数えるほどしかなかったのだ。
清四郎が本来の役目である生徒会長としての仕事が忙しかったり、他の趣味の分野が忙しかったのは知っているが、だからと言って夜、電話がかかってくる事もなく、普通に朝学校で会うだけの、付き合い出す前となんら変わりない日々だった。
今日はやっとふたりで出かけられるのだ。

「せーしろ、腹減ったんだけど」
制服をぴっぴとひっぱり小声で言ってみる。
清四郎はうんうんと頷くだけで一向にマスターとの話をやめない。
何の話をしているのかはさっぱりわからないが、随分と二人共楽しそうだった。
マスターに嫉妬する気はサラサラないが、悠理は全然面白くなかった。
ここで時間を食えばそれだけ、デートの時間も減っていくことになる。
それだけでもイライラするのに、清四郎はすっかり悠理の事を忘れてでもいるかのように、話に夢中になっているのだ。
悠理の機嫌は時間と共に見事に悪くなっていった。

「せーしろ。行くぞ。おっちゃんごめん、この後、用事あるんだ」
気のいいマスターには悪いとは思ったが悠理は清四郎の腕を掴み引っ張った。
マスターに別れを告げ、そのまま足を踏み出したのだが、清四郎の腕はついてこない。
見ると、腕を悠理に預けたまま、まだ話しこんでいた。
よほど特殊な話なのか、マスターも悠理の行動にも気付いていないようだった。
もしかしたら気付いてはいても、ただじゃれているだけだと思ったのかもしれない。
悠理のあれやこれやの努力も虚しく、二人は時折笑い合いながら更に(悠理からすれば)マニアックな話へと突き進んでいった。
「清四郎!時間」
悠理はついに痺れを切らすと、清四郎の耳を引っ張り口を近付け大きな声で叫んでやった。
「うわっ」
いきなりの事に驚き耳を押さえる清四郎にフンッと鼻を鳴らすと、くるりと向きを変え悠理は歩きだした。

「――――全く。いつまで話しこんでんだよ」
肩をいからせ、歩きながら横を見上げると、そこにあるはずの清四郎の姿はなかった。
慌てて後ろを振り返ると、片耳を押さえた清四郎がマスターに顔を顰めて見せている。
悠理の中でプチンという音がした。
「もー知らないからな!!」
追ってくる様子もない清四郎に舌を出すと、勢いだけで手近な横道に入った。
そこは以前、清四郎に「ここだけは通るな」と言われていた路地である事を思い出したのだ。
「フンっ。あいつの言う事なんて聞いてやるか!」
汚れきったポリバケツや生ごみで異臭が漂っている。
悠理は、そんなこと気にもならないように先に見える、光を目指し歩いた。
きっとそこが大通りに繋がっているのだろう。
ちらりと後ろを見るがやはり清四郎は来ていない。
怒りを通り越し、なんだか哀しくさえあった。
「あんのバカヤロー!」
悠理が咆哮をあげた瞬間、道が開けた。

思っていた通り、少し広い道。
ただしそこはただの大通りではなくラブホテル街の大通りであった。
「誰がバカヤローなんだ?」
しかも見るからにに柄の悪そうな男の一睨みつきで。
時代遅れの白いスーツに赤いシャツ。
サングラスはちっとも似合ってなくて、きっとその下の目はすごい弱そうなんだろうと、悠理は凄みをきかせているらしいその男を見て思った。

悠理を知る者、一度でも喧嘩した事のある相手なら、その名前だけで喧嘩を売ってくる人間はもう既にいない。
加えて最近では菊翁文左衛門という関東を仕切る大親分の鶴の一声で、悠理やその友人達に手出しする事は固く禁じられている。
それだと言うのに、目の前の"チンピラ"は堂々と悠理を睨み付けている。どうやらこの街の新入りらしい。
(面白いじゃん・・・)
悠理はニヤリと口端を上げた。

「アンタだよ、趣味の悪いおっさん」
ただでさえ機嫌が悪いところに、睨み付けられたのだ。悠理が自ら喧嘩を売るには十分な理由だった。
「なんだと。お嬢ちゃん、言ってくれるじゃないか」
「あぁ何度でも言ってやるよ。そのだっさいスーツ、いつの時代のなんだよ。今時そんな恰好してて周りはなんとも言わないのか?あ〜そうか、みんな言わないで陰で笑ってんだ。アンタも可哀想になぁ。友達いないんだろ」
声を上げて笑ってやると、男が小刻みに震えるのがわかった。
悠理は内心ほくそえむと、その脇をするりと抜け、駄目押しの一言をくれてやった。
「せっかくこんなトコにいるんだからさ、ホテルに入るカップルの男の方の服装でも勉強したら?その恰好じゃ、軟派もできないだろ」

言い終わるのと、男の平手が飛んでくるのは同時だった。
当然のようにその平手は空を切るだけであったが。
それどころか、隙だらけの男の腹に軽く一蹴入れてやる。
しかしそれに体を屈めた男も、悠理の手加減が効いたのか、すぐに体制を整え口端を上げた。
「お嬢ちゃん結構やるじゃないか。だがさっきの言葉は取り消したほうがいいんじゃないか?今ならまだ許してあげるよ。ベッドの上でね」
「はぁ?気色悪い事言うなよな。何がベッドの上でだよ」
悠理は男のあまりの昔ながらのヤクザ映画のようなクサイ台詞に、ケッと舌を出した。
「生意気な女が好みなんでねぇ」
顎に伸ばそうとしてきた男の手をパシンと音を立てて払い落とすと、一睨みした。
「触んな!」
「いいねぇその顔。ベッドの上ではその顔がどう変わるんだろうなぁ」
悠理の体中に鳥肌が立った。
もちろん恐怖などというモノではない。本当に心底、その顔と言い方が気持ち悪かったのだ。

男は顔を歪めた悠理が、怯えたのだと思ったのか振り払われた手を性懲りもなくまた伸ばした。
「うわっ」
そのニヤけた顔に悠理が後ろに飛びのく。
それは更に男を悦ばせた。胸ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し、舐めてみせる。
(うわぁ!絶対こいつ映画の見すぎだよぉ)
「さっきの勢いはどうしたんだ?ほら、こっちに来い」
男は優勢に立ったとばかりに、ナイフをちらつかせると、反対の手で悠理の腕を掴もうとした。
だが、手は悠理にまで届かなかった。
「何っ!?」
男の体が、後ろに力強く引っ張られていた。
「清四郎・・・・」
男の後ろには清四郎が立っていた。

男は振り返った瞬間、戦慄を覚えた。
属している組の幹部に会った時だってここまでの恐怖を感じた事はない。
睨み付けられているわけでもないのに、その視線だけで殺されてしまいそうなほど冷淡な眼をしている、しかし自分よりかなり若い男がいた。
どう足掻いても振り払えないほど腕を背中で捻り上げ、片方の手は襟元を掴んでいるのに、その若い男は眉一つ動かさない。
「僕の彼女にナイフを向けるなんて、随分といい度胸ですね」
静かな冷たい声と共に、更に腕を捻られる。男は、あまりの痛みに声を上げた。
「うぎゃぁ」
ナイフがその手からかしゃんと音を立てて道路に落ちた。

「なんだよ清四郎。邪魔すんな」
「よくそんなことが言えますねぇ。勝手に一人で消えてしまっておいて、何処行ったかと思えばナイフなんか突きつけられてるし。間に合って良かったですよ」
清四郎は悠理に向かってこともなげに言うと、男の腕を離し体を正面に向けさせた。
「さぁ。覚悟は出来てますよね。一つお手合わせ願いましょうか」
男はブンブンと横に顔を振っている。
先ほどの勢いは影を潜め、眼には涙まで浮かべていた。清四郎の眼光がよほど怖かったらしい。
「もう二度と彼女に手を出さないと約束できますか?」
男は大きく頷くとその場にへたり込んでしまった。

「さぁ悠理。行きますよ。ここを探す間に遅すっかり遅くなってしまいましたからね。大体この道には来るなと言いませんでしたか」
清四郎は男から視線を悠理に移すと、その手を取った。
「勝手な事ばっか言うな。いつもいつも忙しいって、人の事放ったらかしにするクセに。あたいが何しようと、どうでもいいんだろ!」
キッと睨み付ける悠理に、清四郎はほうっと小さく息を吐いた。
「誰もそんなこと言ってないでしょうが。確かにここのトコ忙しかったのは認めますけどね」
「ほらみろ。今だってあたいの事なんか放っとけば良かったんだよ。あたいといるよりマスターと話してる方が楽しそうだもんな。・・・・大体こんなチンピラの一人や二人」
悠理は清四郎の手を離すと、背を向けた。
だが途端にへたり込んでいた男が頭を抱えるほどの怒声が響く。
「放っておける訳がないだろ!何処の世界に自分の恋人がナイフをちらつかされて見過ごせる男がいるんですか。いい機会だから言っておきますけどね、もう今までみたいに喧嘩なんてさせないし、こんな柄の悪い男のいるところも歩かせませんからね!」
「喧嘩はあたいの趣味だ!」
「させませんよ。―――僕を人殺しにするつもりですか」
悠理と男の肩がビクリと震えた。
「悠理に少しでも傷を付けた奴を僕は絶対に許す事なんて出来ませんからね。手加減してやる余裕も必要もないでしょう」
清四郎は顔を歪めると、後ろからその小さな背中を抱きしめた。
「―――お前の事をどうでもいいと思った事なんて一度もない。ただ、少し甘えていたのは認めますよ。お前は何があってもずっと僕の傍にいてくれるんだと。・・・・悪かった」
「せーしろ・・・」
悠理は悔しかった。
勝手な事ばっかり言う男なのに、こうして抱きしめられ、こんな事を言われて、先ほどまでの怒りなんて忘れて許してしまう自分が。そんな清四郎に惚れている自分が。

「・・・・でも、嬉しいですよ」
「なんでだよお。怒ってるんだぞ」
「だってやっぱりそれだけ僕の事を好きだって事でしょ?」
清四郎は抱きしめていた腕を緩め、悠理の体を反転させた。
「傷はないか?」
真っ赤になっている悠理がこくんと頷く。足元ではそれを見た男が密かにほっと胸を撫で下ろしていた。
「改めて言いますよ。悠理、僕はお前が好きだ。これからもずっと一緒にいたいと思っている」
「・・・・次は、もうないんだからな」
上目遣いに睨む悠理に、微笑んだ清四郎の顔がそっと重なった。

・・・・・・・ちなみに"その"瞬間、ちゃんとチンピラは自主的に下を向いていた。

 

 

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