「聖夜の贈り物」


 

白い息が零れる。
夕闇が迫る中、時折、降り止まない雪に手を翳したり、白く色を変える街並みに足を止め、悠理はゆっくり、ゆっくりと、とても大切な場所へと歩いていた。
その場所である彼の男の腕は、悠理にとって、泣きたくなる程、愛しい温もりだった。
こんな気持ちに気付いた当初、悠理は戸惑った。
それはまるで初雪のように、何の前触れもなく突然目の前に現れた。

「イブですか?いや、特に予定なんて入れてませんよ」
そう、男が何気なく他の誰かと話しているのを聞いた時、何故か妙に嬉しかった。
そしてそれを追いかけるように、不安にも似た焦燥感が襲いかかってきた。
―――今はない。でも、これから予定が入ったら。

「嬉しいわけだ・・・」
街灯に映える雪を眺めながら一人ごちる。
こんなにも、胸を苦しめる存在だったのだから。
だが込上げた嬉しさと同時に沸いたはずの焦燥感に、だからと言って何も出来なかった。
誘う事を躊躇った。
誘え、なかった―――。

もう誰かといるかもしれない。
いつも隣にいる彼女と一緒かもしれない。
ずっとそれだけが心に翳を落としていた。
「何もしないくせに」
いつのまにか立ち止まっていた脚をまた小さく前に出した。
彼女の存在は悠理の中で、いつしか確信になっていた。
でも、それでも良いと思うことにした。
仕方ない、のだ。
なのに気付けば、こうしてその男の元へと向かっている。
腕はもう、空いていないかもしれないというのに。
「諦めろよな・・・」

段々と景色は白一色になってきて、公園の赤いジャングルジムも今はその色を変えている。
寒いはずなのに。
男の隣で微笑む彼女が思い浮かぶのに。
悠理は何故だか暖かかった。
ただ、会いたかった。


見慣れた景色になってくる。
もうすぐ彼の男の家に辿り着く。
会ったらなんと言おうか。
「邪魔して、ごめん」か?
なんだか可笑しくなる。
本当にオカシイのかもしれない。
こんなにも「好きだ」と思うことが。
「好きだ」と言いたい。
彼女といても、「好きだ」と伝えたい。

きっと自分は会わずに帰るだろう。
その家の前に立つだけで、何も出来はしない。
・・・そんなに、強くない。
想いに気付いて悠理は初めて涙を流した。

「悠理」
今ここにいないはずの声。
ずっと聞きたかった声。
「何してるんですか、こんなに寒いのに、こんな処で」
呆れるような、咎めるようないつもの声。
「泣いてるのか・・・?」
「なんで?なんでこんなトコにいんの?」
答えではなかったのに、男は素直に悠理の質問に応えた。
「親父が酒が足りないと言い出しましてね。偶に家にいるとこれですよ」
重そうな袋を掲げ困ったように微笑む男に、悠理は、そうか、と思った。
小さい頃から一緒で、もうすでに家族ぐるみと言うよりは家族なんだ、と。
「は?なんですか、ぐるみって」
「ううん、なんでもない。それより早く帰ってやれよ。待ってるんだろ?」
「あぁ、そうですね」
清四郎は、そう言うとはにかむように笑った。
「じゃな」

会えただけで充分だった。
それ以上何も聞きたくなかった。それなのに。
「もし良かったら、うちに来ませんか」
悠理は気付かれないように息を呑んだ。
この男にしては珍しく控えめなその言い方は、自分に同情しているからなのか。
イブの夜、雪の中で涙を流していた自分に同情して。
そうでなければ、彼女に遠慮して。
・・・両方だ。

「なに言ってんだよ、あたいはいいよ。せっかくのイブに野暮な事させる気か?」
悠理は笑顔を向けた。
「野暮って・・・それどころか喜ぶと思うんですけどねぇ」
尚も言う男に、また涙が溢れてきた。
どうしてこの男はこんなにも鈍いのか・・・。
「野暮なの。喜ぶわけないだろ。いつもならともかく、今日はクリスマスイブだぞ?もうちょっと女心ってのをわかってやれよ」
それ以上の会話はもう無理だった。
なのに、離れたくなかった。別れたくなかった。
「女心・・?」

もう少し、もう少しだけ。
ごめん、野梨子、もう少しだけ時間をくれ。

「そう、女心。いくら今までずっと一緒だったからって、やっぱりクリスマスって特別じゃん。今だってお前が帰ってくるの待ってるよ。お前だって本当は早く帰りたいんだろ?」
声が震えているのは、この寒さの所為。
男はちゃんとそう思ってくれるだろうか。
「悠理?どうしたんです、さっきから変ですよ?何か、あったのか」
「別に。なにもないって。あたいも今から車呼んで帰るし。雪が降ってきたからちょっと散歩してただけなんだ。そしたらあんま寒いからさ、それで涙が・・・」

「何があった」
この温もりが欲しかった。
強い口調と共に、暖かい腕に包まれた。
悠理は眼を閉じると、大きく息を吸い込んだ。
頭のどこかで、この男を待ちわびている彼女に罪悪感を感じつつ、焦がれていた温もりにされるがまま包まれた。
これはきっと"クリスマスプレゼント"。
悠理は今だけはその言葉で許して貰おうと思った。
「何もないよ」


「ゴメンな、引きとめちゃって」
「そうですよ、早く素直にうちにくればいいモノを、意地張って動こうとしないなんて。全く今更何を遠慮しているんだか」
男は右腕で悠理を抱いたまま、左手でその髪に、肩に降り積もった雪を優しく振り落としていった。
「あたいだって、遠慮ぐらいするわい」
「ほぉ、初耳ですね」
男はまた左手を背中に戻すと、クスリと笑って抱きなおした。
「まだ一緒に来る気にはなりませんか。御馳走も沢山ありますよ」
「しつこいぞ。行かないったら、行かない」
「今日はえらく強情ですねぇ」
おどけたように、いつもの口調で言ってくれるのが有難かった。
あのまま心配だけをされていれば、必要以上に泣いてしまいそうだった。

「ほら、早く帰ってやれよ。あたい、もう充分暖まったから」
名残惜しさを押し殺して、体を離す。
「僕はカイロ代わりですか?」
苦笑する顔に少しだけ微笑んで肩を竦める。
「そうだよ、お前暖かいもん」
振り払おうとしても振り払えない、頭の中の彼女の笑顔に、悠理は振り払うことを諦めた。
そして、今度こそ自分の中のこの気持ちを諦めようとした。
「だから、暖まった。・・・じゃな」
背を向け、元来た道を歩き出す。
なるべく罪悪感を感じないように、悠理は卑怯だと思いながらも別の事を考えようとした。
カイロ、そうカイロだ。だから暖かいんだ。

「なら!離れるわけにいきませんよ」
ザクザク、と降り積もった雪を踏みしめる音の後、再び悠理は温もりに包まれた。
「こんなに寒いんですよ。カイロはやっぱり必要でしょう」
雪の落ちる音だけが聞こえる。
痛いほど静かだった。

その腕を振り払おうとしたのは、きっとほんの一瞬だった。
もしかしたら、フリだけだったのかもしれない。
「うちが嫌なら、これからどこかに行きませんか。美味しい物を食べて、酒も呑んで。今日は何処も一杯でしょうけど、ここで凍えるよりはマシでしょう」
冷たくなった耳にくすぐったさと暖かい息が届く。
悠理は、耳を疑った。
「何・・・なに言ってんだよ、お前は。お前の事待ってるんだろ」
「あぁ、だからこの酒を置いてくる間だけ待ってて下さい。うちに入りたくなければ、外ででも。すぐに戻るから」
「じゃなくて!」
悠理は思わず、男から離れた。
「なに言ってんだよ。そんなことじゃなくて・・・野梨子が・・・」
その名を出した途端胸が苦しくなった。
先ほどまで散々頭に浮かんでいたと言うのに。
悠理は胸の辺りをぎゅっと掴むと、それでも何とか言葉を続けた。
「野梨子、待ってるんだろ?早く、帰ってやれよ・・・」
そこまで一気に言うと、漸く息を吸い込んだ。
空気が冷たい。

「―――――はぁ?野梨子って・・・野梨子、うちに来てるんですか?」
あまりに今の状況にそぐわない間の抜けた声に、悠理は眼を見開いた。
「だって、今日・・クリスマス・・・だから、野梨子と・・・」
全く文章にはならない。
「クリスマス・・・で、どうして野梨子なんですか?」
「どうしてって・・・」
男は悠理の表情に、眉間に皺を寄せ、黙り込んだ。
そしてすぐに何か思いついたようにゆっくり眉を上げた。
「もしかして、お前がさっきから言ってた待ってるだの、女心だのって、野梨子のこと、ですか」
下唇を噛んで眼を逸らした悠理に、男は額を手で覆うようにしてしゃがみ込んだ。
広がった男の黒いコートに、雪が重なる。
はぁ、と大きく息をつき、男が顔を上げた。
「全く。何を勘違いしてるんだか・・・思い込みもいいとこですよ」
「勘違い?」
「あぁ、勘違い。大きな勘違いですよ、全く。本当にこのバカは、人の気も知らないで」
すくと立ち上がった男の目は、怒っているように見えた。

先程とは違い、強引とも言える力強さで抱き寄せられる。
「ヤキモチだと思っていいですよね。違うなんて言わせませんよ」
「な、なに言って・・・」
「僕が今日、イブに、野梨子と二人でいると思った。で、それが嫌だった。違いますか」
自分の想いを全て見透かされたようで、悠理はその腕の中から逃げようとした。
「違う。なんで、あたいがそんな・・・」
だが更に強い力で抱きしめられる。
「悠理が言わないなら僕が言いますよ。――――同じなんですよ。僕もお前が他の誰かと今日を過ごしているんだと思ってた。それを考えたくなくて、親父に付き合う振りをして、自棄酒を決め込むつもりだった。そんな時、ここでお前に会った」
会いたかった、一緒にいたかった。
その言葉が悠理の中での想いとシンクロする。
夢でしかない言葉のはずだった。
実際悠理は、男の言葉をちゃんと理解している自信がなかった。
「何か言ってくださいよ」
初めて聞くようなその声に、少しだけ顔を上げると、恥ずかしそうに視線を逸らす男の顔があった。
「・・・今、なんて言ったの?」
宙を彷徨っていた男の視線が、やがて悠理に向き、驚きに満ちた表情になる。
「まさか・・・聞いてなかったのか?」
だが悠理は、「わからない」と呟くと顔を男の胸に預けた。

「あたい、今日おかしいんだ。・・・なぁ、これって夢か?」
夢なら夢でいいと思っていた。
暫く覚めたくない・・・。
悠理は本気でそう思っていた。
夢ならば、このままこうしてずっとこの温もりを感じていられる。
眼を閉じると聞こえてくる心音に、全てを委ねた。
「コラ悠理。寝るな。まだ話は終わってませんよ」
グイッと引き離され、「あっ」と声を上げた。
「夢だなんて、とんでもないですよ。夢なんかにして堪るか。これは現実です」
両手で顔を挟まれ上を向かされると、まるで睨み付けるように言い含められる。
「嘘・・・」
「嘘でもありません。僕はずっと、その・・・・お前のことが好きだったんだ。本当にこうしている事が夢なんじゃないかと思うほどに。でもこれは現実です」
男の真摯な瞳の中に、呆けた自分が映っていた。
「夢、だろ・・・?」

不意に。唇に冷たいものが触れた。
それは瞬きの間に離れ、そしてまた触れた。
今度は少し、長く。

「・・・・これでもまだ夢だと?」
掠れた声で、男が親指で悠理の唇をそっとなぞりながら言う。
少しだけ、照れたようなはにかんだ顔を見せて。
「あ・・あた・・・ぃ」
悠理の頬に涙が零れた。
「泣かないで下さいよ・・。嫌、でしたか?」
顔を隠すように俯いて首を振る悠理に、男は満足げにその頭を自分の胸に押し付けた。
「良かった・・・。なら、一緒に帰ろう。とりあえず、この冷え切った体を温めないと」
言いながら、更に抱きしめ悠理の髪に顔を埋めた。

暫くして、手を繋ぐふたりの後姿が、雪の聖夜に溶けていった。


 

 

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