「月夜」



「鍵持っていくからな〜」
悠理がタオルと鍵を手に部屋から出ると、ちょうど同じような声が隣からもした。
その声の主、清四郎はやはり同じようにタオルを手にしていた。
「おや、悠理。悠理も温泉ですか?」
「あぁ、今ならきっと空いてるだろ」
「こんな時間ですからね」
清四郎は浴衣の袖を捲ると時計を見た。

ふたりは今、東京からふたつ離れた近県の温泉地に来ていた。温泉だけでなく、スキーも楽しめるというこの温泉地。
旅館の雰囲気もよく、食事もよくて、悠理は「来週も来ようぜ〜」等と初日の今日から言い出していた。
これでふたりが恋人同士であったなら、清四郎もニヤリと笑って「いいですね」と返したところだったのだろうが、生憎今の所当人たちにはそのような色っぽい感情はなさそうである。しかも、もちろんふたりきりという訳ではなく、いつものメンバーと一緒だった。

「お前相当飲んでたろ、入って大丈夫なのか?」
ふたりは並んで、静かな廊下を露天風呂まで歩き出した。
悠理は先程部屋を出る前に野梨子に言われたことをそのまま清四郎にも聞いた。
到着後、大浴場でそれぞれ汗を流した六人は、早速とばかりに宴会をしていたのだ。だが、彼等にしては珍しく、まだ十一時過ぎという中途半端な時間でそれもお開きになった。
「悠理ほどじゃありませんよ。それより、意外だったのは魅録ですよ。まさか魅録が潰れるとは」
清四郎は少し心配そうな顔で首を振った。
宴会が御開きになったのも魅録が寝てしまったからだった。もちろん、他のメンバーもグロッキー状態だったのだが。
「だよなぁ。アイツが野梨子よりも先に潰れるなんてな。体調悪かったのかな」
「今朝はそんな風じゃなかったですけどね。やっぱりいくら好きでもあの渋滞じゃ車の運転も疲れるんでしょうね」
途中の道で事故が立て続けに三つもあったらしく、ここにくるまでの八時間、魅録はずっと運転席にいたのだった。清四郎や美童が何度か「代わろう」と言ったのだが、車好きの妙なプライドがそれを許さなかったらしい。
「明日のスキーはアイツ無理かもな」
「起きるまで寝かせておきますよ」
そんな話をしている間にも脱衣所の前まできたふたり。
男女別れた暖簾に手をかけた。
「じゃな」
「空いていても泳ぐんじゃありませんよ」
「するか!」
しようと思っていた悠理は、拳を振り上げると暖簾をくぐった。


「やっぱり誰もいませんね、こんな時間じゃ」
悠理と分かれて十分ほどたった頃、清四郎はまだ浴衣を脱いでいた。
脱衣所の中に清四郎の眼を引く壷が置いてあり、それに魅入っていたのである。
「いや、まさかこんな所でこんないいものが見れるとは」
一人悦に入りながら、タオルを腰に露天風呂へ続く引き戸を開けた。
誰もいないと思っていたそこに小さく水音が聞こえる。
(先客がいましたか)
外気との差でもうもうと立ちこめる湯気でその姿は見えなかったが、随分小柄なのはわかった。
(御年よりかな)

「ふ〜、いい湯ですねぇ」
湯に浸かって腕を伸ばし、思わず息を吐く。
ぽっかり浮かぶ白い月に目を細めた、その時だった。
「な、なんでお前がこっちに入ってきてんだよ!!」
聞き覚えのありすぎる声が盛大に響いた。
「そ、その声は悠理ですか!」
年寄りだと思っていたその先客は女風呂にいるはずの悠理だった。
「せーしろー!!こっちは女風呂だろ!!お前何してんだよ、このスケベ!!」
ばしゃばしゃとお湯を弾かれ頭からずぶ濡れにされる。
清四郎は腕でそれを防ぎながら、慌ててさけんだ。 
「ち、違いますよ!!ちゃんと男風呂の入り口から入ってきましたよ!!」
「嘘つけ!!この変態!!あっち行け!!」
そう叫びながら悠理は湯を掻き分けるように離れていった。
姿が見えない所まで離れたのか、漸く露天風呂は静かになった。
「どういうことなんだ・・」
ふたりは知らなかったのだが、この露天風呂は混浴だったのだ。
元々この温泉旅行の話は美童がもって来たものだった。
「いい温泉見つけたんだぁ〜、彼女と行こうと思ってたんだけど都合が悪いらしくって。スキー場もそばにあるしみんなで行かない?」
嬉々としてそう言う美童に何の疑いも持たなかったのが間違いだった。
夕方ここについた時も、妙にニヤける美童に先導され早速名物だと言うこの露天風呂に入りに来たのだが、その時ここから出てきた他の客に今はご老人ばかりで込み合ってるから時間をずらしたほうがいいよと言われ、別のフロアにある大浴場に向かったのだった。

「どうやら、混浴になっているみたいですね」
清四郎は湯でびしょぬれになった髪を掻き上げながら言った。
「くそ〜美童め、明日になったらただじゃおかねーぞ」
悠理の声が響く様に聞こえる。
暗がりに入り込んでいるのか清四郎からはその姿は見えなかった。
「何処まで離れたんですか?」
清四郎は悠理の声があまりに遠く感じたので、少し呆れた声を出した。
「み、見るな!!」
どうやら悠理の方からは清四郎が見えているらしい。
「見てませんよ。悠理がどこにいるのかもわからないのに」
「嘘だ!!こっち見てるだろ!向こう向け!!」
またばしゃばしゃと湯をかけているようだ。だが、今度は音だけでそのしぶきはかからなかった。
清四郎は溜息をつくと、言われた通り、悠理がいるらしい方向に背を向けた。
「そっちからは僕が見えているんですか?」
「お前も見えてるんだろ!」
「見えてないから聞いてるんでしょ」
「ほ、ホントか?」
「えぇ」
清四郎は疲れたような声を出した。
「とにかくゆっくり浸かりませんか、せっかく空いてるんだし」
「なに言ってんだよ!お前早く出ろよ!」
「どうしてですか。別に姿が見えてるわけじゃなし、このままでイイでしょ」
「良くない!!お前がそこにいたら、あたい出れないだろ!!」
「もう出るんですか?まぁいいですけどね。出るんならさっさと出ないとのぼせますよ」
清四郎の方はもう半分自棄になっているのか、それとも逆に柄にもなく照れているのか素っ気無く言った。
その言葉にまたばしゃっと水音が響く。
それは先程より大きかった。
「出るんですか?」
またばしゃっと音。
「でないんですか?」
「やっぱり見えてるんだろ!!」
「あのねぇ、それだけ音をさせれば、誰だってわかりますよ」
ハァ、と清四郎はまた溜息をつくと立ちあがった。
「な!何してんだよ!!お前」
「なにって、悠理が気になるんなら僕が出ますよ」
「す!座れ!!」
「あぁそうか、そっちからは僕が見えてるんでしたっけね」
「早く!!」
清四郎はとりあえず、大人しく座る事にした。
夜更けとは言え、悠理のあまりの声の大きさに旅館の従業員が様子を窺いに来ないとも限らない。
何も後ろ暗い所はないとは言え、やはりこの状況を人に見られるのは今後のことを考えれば避けたい所だった。
「でも、どうするんですか?」
「何がだよ」
「だって、僕が先に出るのもダメ。悠理は僕がいる限り出ないんでしょ?だったらふたり共このまま入ってるしかないじゃないですか。そんなののぼせますよ」
「だ、だって・・」
「悠理出てくださいよ。ホントに僕にはそっちが見えてませんから」
「ほ、ホントか?」
悠理はまだ疑わしそうだ。
「なんならここに来て確かめてみますか?」
清四郎は、この状況が徐々に楽しくなりだして来ていた。
普段から悠理をからかうのが何よりも楽しいという少し困った性格の持ち主である。照れがないと言えば嘘になるが、あまりの悠理の焦りように楽しさの方が勝ってきていたのだ。
「どうします?」
悠理は考えているのか、水音一つしない。
「悠理?」
清四郎は少し心配になった。
(ちょっといじめすぎましたかねぇ……。まさか、のぼせたんじゃないだろうな)
「悠理、大丈夫ですか?―――悠理?」
やはり、反応がない。
清四郎は、怒鳴られるのを承知で少し近づいてみた。
「く、来るな!!」
「あぁ、大丈夫だったんですね。声が聞こえないから心配になったじゃないですか」
悠理は思いの外近くにいたようだった。
少し近づいただけで、その姿がぼんやりとだが見えた。
(え・・・・)
月明かりと湯気に浮かんだその白い肌に、突然、清四郎は胸の奥が鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
悠理の背中など、夏になれば水着だけに留まらず普段着からして晒しているようなものだというのに。

「清四郎・・」
「なんですか」
暫し言葉を失くしていたことにそこで気付いた。
「や、やっぱ、そっちいってもいいか?」
か細い、震えるような声だった。
今まで聞いた事もないようなその声に、清四郎の身体に緊張が走った。
「どう、したんですか」
その問いに返事はなく、静かに水音が近付く。。
先程まで余裕綽々だった清四郎はその音に少し、身を引いた。
白い陰から悠理の姿が次第にはっきり見え始める。
「・・・悠理」
「あ、あっち向いてろ」
胸の前でタオルを手にして身体を隠す様に近づいてきた。
清四郎も言われなくても、顔を逸らしていたので気付かなかったが、悠理もあさっての方向を向いていた。
「向こう向いてろよ」
「え、えぇ」
だが悠理の手が腕に触れ、清四郎は思わず顔を向けてしまった。
「悠理!?」
「バカ!こっち見るな!!」
「あぁ、すいません・・・」
また急いで顔を逸らせる。だが、どういう訳か身体の奥が熱くなってきて仕方なかった。なるべくほかの事を考えてみようとするのだが、腕から感じる悠理の肌の感触にそれも上手くいかなかった。

「ど、どうしたんですか・・・」
「なんか小さくガサガサって音がするんだ・・・あそこ・・・へ、蛇かも・・・」
腕に触れる手に力が入った。
(なるほど―――)
それで声もなかったのか、清四郎はちらりと悠理を見て微笑んだ。
大の蛇嫌いの悠理。暗闇での物音に蛇を思い出し、恐さのあまり声も出なかったのだろう。
腕を掴んでぎゅっと目を瞑る悠理に先ほどの身体中が熱くなるようなのとは違う感覚が清四郎の中に生まれた。強張っていた身体から力が抜けていく。
「大丈夫ですよ。この時期は冬眠してて蛇なんていませんから。風かなにかでしょ」
悠理から顔を逸らし、空を見上げた。
「ち、違うぞ。あたいの傍だけで鳴ったんだ。風ならもっと大きい音がするだろ」
悠理の視線を感じる。
「なら、猫かネズミか・・・それとも狸とか?ここならいてもおかしくはないでしょう」
清四郎は軽く辺りを見回すとそう言った。
「狸?狸なんかいるのか?」
表情を見たわけではないが悠理が不審そうな顔をしているのが声でわかった。
「さぁ?いるんじゃないです?ま、蛇よりは確率はありますよ」
「本当に蛇じゃないんだな」
自信たっぷりに応える清四郎に、悠理はそう確認するように訊くと漸く腕を握っていた手から力を抜いた。
軽くなった腕に少しの寂しさを感じつつ、清四郎は思い出した様に言った。
「で、どうやってここから出る気です?」
清四郎の言葉に一瞬間が空いた後、悠理が大きく離れた。
「わっわっわっわっ!!」
しかしすぐにまた同じように大声を張り上げて戻ってきた。
「わーーっ!!」
「どうしたんですか」
「や、やっぱ、なんかいるよお」
「だから、狸でしょ?」
「ち、違う!もっと小さいの!」
もう顔を向けることぐらいは気にならなくなったのか、逆に清四郎の顔を必死に見つめている。
「仕方ないですな・・・。僕が離れますよ」
清四郎は苦笑すると、湯を掻き分け、動こうとした。だが、また腕を掴まれる。
「だ、ダメだ!!一人にするな!!」
まだ蛇にこだわっているらしい。眼には涙まで浮かべている。
「どうしろっていうんですか」
まるで霊に遭遇した時のように縋りつく悠理を可愛いと思えない事もなかったが、どちらかと言えばいつものように呆れた方が大きかった。
(さっきのは何かの間違いですな)
先程悠理の姿を見た時感じた感情を首を振って打ち消した。
「う〜」
「わかりました」
「何がだよ」
「僕ちゃんと後ろ向いてますから、その間に、さっと上がってください」
「絶対?」
「えぇ、それぐらい信じてくださいよ。大体悠理に何かしようと思ってるんだったらさっさとやってますよ」
「やってますよって!何か!?あたいは襲う価値もないってのかよ!!」
・・・悠理よ、突っ込むトコはそこなのか?
悠理も言ってて恥かしくなったらしい。
「・・・なんでもない・・」
顔の半分を湯に沈めた。

「絶対見るなよ」
悠理はそう言って清四郎を見た。
「見ませんよ」
清四郎はいい加減のぼせ気味だった。
「絶対だぞ!!」
その言葉に後ろを向いた。
「早くしてください」
「よ、良し!行くぞ」
「ハイハイ」
「行くからな!本当に行くからな!!」
「ハイハイ、わかりました、行ってください」
―――バシャッ!
ばしゃばしゃという音と共に波紋が肌に響いた。
ガラッという音がして、ドアが開き、もう一度ガラッという音がすると、漸く静かになった。
清四郎はほぅと溜息をつきまた前を向いた。
「疲れた・・・」
呟いて、頭を軽く振ると悠理の出ていったドアを見つめ、口端を上げた。
(まさか、悠理が一緒になるとはな)

悠理は悠理で、脱衣所で手を付いてへたり込んだ。
「ハァ〜、疲れた・・・なんなんだよぉ、なんでこんなに疲れてるんだよ〜」
ばしゃりという音にびくりとする。
「せ、せいしろ・・?」
だがこちらに向ってくる様子はない。
悠理は深々と溜息をつくと、もそもそと下着に手をかけた。


全く物音のしなくなった露天風呂を気にしつつ、身支度を終えたた頃、露天風呂の方ではなく脱衣所の外から声がかかった。
「悠理?」
「な、なに」
「まだそこにいたんですね。のぼせたんですか?大丈夫ですか」
清四郎が心配そうに声をかけてきたのだ。
「だ、大丈夫・・」
悠理は覚悟を決めて暖簾をくぐった。
「よ、よお」
だがやはり恥かしくて顔を見れない。
それは清四郎も同様だったようで、悠理の顔を見ようとしなかった。
「・・・戻りますか」
「う、うん」

「じゃな」
部屋の扉の前までお互いに言葉を交わす事はなかった。
「えぇ、おやすみなさい。湯冷めしないように」
「おやすみ・・・」
ふたりは同時に部屋に入った。
だが、何故かふたり共そこから進むことができなかった。
悠理はそろりとまたドアを開けた。
「清四郎・・」
「どうしたんですか」
「お前こそ」
「僕は・・・」
はにかむように少し肩をすくめる清四郎に、悠理も少しだけ微笑んだ。
「もう少し飲まないか?」
「そうですね」
ふたりは並んで、歩き出した。
                                       

 


 

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