「では、ごゆっくりお寛ぎください」
旅館の主人は、深々と頭を下げ三つ指をつくと部屋を辞した。
清四郎は、「ありがとうございます」と返し、人の良さそうなその主人を見送った。
「あ、ども。ありがとう」
悠理は、開け放された障子から望むこの部屋専用の庭を見つめていたが、主人の挨拶に振り返りにっこり笑った。


「何をさっきから観ているんです?」
外への扉が閉まった音を確認すると、清四郎は悠理の傍に立った。
互いの家族以外誰も知らないふたりの関係。
親友達にも話してはいなかった。
その為逢瀬はいつもどちらかの部屋か皆がいかないような場所ばかり。
今回のこの旅の宿をここに決めたのも、ここがガイドブックには載っていないいわゆる隠れ旅館だったからだ。
だからと言って如何わしいところではない。山の中にある、ごく普通の昔ながらの宿という趣だった。
先程の旅館の主人に言わせると、わざわざ隠しているわけではないらしい。
なにかのきっかけで知った客達が、この旅館の雰囲気を愛してくださっているからだ、という事だ。
確かに。無駄に豪勢というわけでもなく、さりとて寂れた風でもない。
必要以上に人の声が聞こえることもなく、うるさいBGMが流れてもいない。
聞こえるのは、木々を渡る風の音と、どこか近くを流れているであろう小川のせせらぎぐらいのものだ。
加えて、ふたりが居るこの離れに於いては、本館とは文字通り少し離れたところにあるため、外と完全に切り離されていた。
恐らく、こちらから用を言いつけない限り、誰も近寄ることはないだろう。
全くのふたりきりになれる場所。
「いや。ただ綺麗だなぁと思ってさ」
「やっと、ふたりきりになれた」
振り返り仰ぎ見た悠理を清四郎は後ろから抱きしめた。
清四郎の唇が悠理の首筋を掠める。
「お、おい。まだこんなに明るいんだぞ」
抱きしめられその胸に身を預けていた悠理は、清四郎の唇が緩急をつけ自分の首に這い思わず身を捩った。
「なら暗くなればいい」
清四郎は一度体を離すと、障子を閉め部屋の明かりすらも消してしまった。
障子から透ける外の光のみの部屋は、日本家屋独特のぼんやりとした雰囲気に代わる。
「さぁ悠理」
手を差し伸べると、悠理が恥ずかしげに近寄った。
「ひ、昼間な事には代わりないじゃないかぁ」
抱きしめられながらも、素直じゃない悠理に口付ける。
「一分一秒でも惜しいんですよ」
悠理の下唇を噛むように味わい、体を抱え上げた。
「ど、どこ行くんだよ」
「温泉」

部屋に備え使えられた天然温泉は露天風呂だというのに、湯気とふたりの熱気でかなりの暑さになっていた。
出る時には、悠理は自力で立てないぐらい上気せてしまっていたほどに。
だが、立てなかった原因が上気せただけであるかどうかは―――。
とにかく浴衣を着せようにもへたり込んでしまっているため、とりあえずは前を合わせ帯を軽く閉めただけという状態になっている。
そんな着方しかしていない悠理の浴衣は、抱き上げるとすぐに肌蹴てしまい、紅く染まった大腿部が露になった。
ちらりと視線を下に向けると、胸元も大きく開いている。
意図してそう着せたわけではないつもりだが、清四郎は今しがたまで散々愛し合ったというのに、更にその肌に口付けたくなった。
部屋に戻り、そのまま壁に凭れる様に座りこむ。
清四郎自身も少し、上せ気味だったのだ。
胡坐の間に座らせ自分に身を預けさせると、悠理はやっと落ち着けるところが出来たとばかりに肩口に頬をすり寄せてきた。
眠くなっているのか、幸せそうな顔で目を閉じ清四郎の浴衣を子供のように掴んでいる。
「悠理?大丈夫ですか?」
顔を覗きこむように近付け、囁くように訊く。
「大丈夫くないけど・・・・大丈夫」
その答えにクッと笑う。
悠理がこうして自分に抱かれながら座るのが好きだということを清四郎自身も良く知っているのだ。
絶対に口に出してはそんなこと言わないが、自惚れではないと自負できる。
普段からもこうして抱き寄せると、恥ずかしそうに憎まれ口を嫌というほど叩くが、縋りつくことはあっても自ら離れようとした事は一度だってないのだ。
清四郎は悠理の額にかかる髪をそっと掻き揚げ、唇を落とした。
触れるだけの口付けを瞼や、鼻先、頬、唇、目尻・・・・、あらゆる所へ落としていく。
「んん・・・や・・だよぉ・・・」
逃げようと更に胸に顔を押し付ける悠理の顎を軽く引き寄せ、唇の柔らかさを己のそれで楽しむ。
力の抜け切っていた悠理はその口付けで更に力が入らなくなったのか、徐々に体が倒れていきそうになり、腕を清四郎の首にすがるように回した。
甘噛みしたり、吸い上げたり、清四郎は悠理の唇を余すとこなく堪能していく。
清四郎が悠理の顎、そして、首筋へと唇を滑らせていると、それまで熱い息を漏らしていた悠理の体が一瞬ぴくりと強張った。
「悠理?」
感じやすくなっているのかと思い、確かめるように顔を覗きこむ。
すると悠理の瞼がゆっくりと開いた。
「せぇしろ・・・今、なんか聞こえた」
相変わらず目元は赤く染まり、潤んで艶っぽかったのだが、どこか不安げでもあった。
「なにか、って・・・。勘弁してくださいよ、またですか?」
悠理の特異体質を思い出し、溜息をつき肩を落とした。
普段なら喜ぶその現象も、ふたりきりの今は鬱陶しいものでしかない。
「そんなの気にしないのが一番ですよ」
清四郎はそう言うと、愛撫を再開させようと鎖骨に顔を寄せた。
「ち、ちが・・・あん・・・・う・・・って」
清四郎の動きを止めるつもりなのか、首に回されていた腕がその広い胸板に滑り落ちた。
押し留めようとしているらしいのだが、その手には力が全くといっていいほど入っていない。
清四郎にとっては、その柔らかな感触こそが、更に体を熱くさせる要因にしかなりえなかった。
柔らかな髪を抱き、腰を引き寄せながら、悠理の体を倒していく。
口付けと口付けの合間に悠理が、せめてもの反抗とばかりに顔を逸らした。
「やっ、清四郎。ホント・・・に・・う・・ん。・・・なんか、聞こえ・・・」
逸らしたところで唇ではなく耳を攻められる結果になり、悠理の言葉は絶え絶えになっていった。
「だから、聞こえなくしてあげてるんですよ。今は、僕のことだけ考えてください」
熱い息と共に、愛しい男の愛しい声が耳に触れる。
それだけで暗示にかかったように、全てを忘れた。
そう、今は清四郎のことしか頭になかった。
清四郎の頭を掴み自ら唇を求める。
「せーしろぉ・・・」
「悠理・・・」
唇と唇が曳き合い舌が絡む。
角度を変え、また絡む。
名残惜しげに開いた悠理の唇を残しながら、清四郎は顎へと降りていく。
首筋に顔を埋め、手は浴衣の肌蹴きった肩へと滑った。
滑らかなその肌を吸い上げながら、邪魔なその浴衣を完全に取り払おうと手をかけた瞬間。
『―――――!』
耳の奥に、今は絶対に聴きたくない声が聞こえた。
「せ、せーしろお」
「気のせい・・・ですよ」
「でも・・・」
『――――まぁ、素敵なところですわね』
徐々にその声は近付いている。
「まさか・・・だよな」
「・・・そう思うからそう聞こえるんですよ・・・きっと」
だがそう言いながらも動きは勝手に止まっていた。
「せーしろー!悠理ーいるかー!」
ガラッと言う音と共に絶対間違えることのない声が響き渡った。

「何しに来たんですか」
「そんな怖い顔すんなよ」
戸口に出た清四郎の前に、言わずもがなのいつもの四人がにこやかな表情で立っていた。
「あれ?一人?」
―――わかってるくせに白々しい
清四郎はむすっとした表情のまま片眉を上げ、ニヤニヤ訊いて来た美童に一瞥をくれた。
「んな訳ないよな。おーい悠理。いるんなら出て来いよー!」
魅録までもが中を覗きこむように叫ぶ。
「あら、きっと恥ずかしがってんのよ。あたし達の方から行かなきゃあいつは出てこないわよ〜」
可憐が可笑しそうに手をパタパタと振って引き戸に手をかけようとした。
だが。
清四郎が、立ちはだかっているため入る事は出来ない。
「申し訳ない。悠理はちょっと体調が良くなくてね。みんなどこに泊まってるんです?僕達の方から後でそこに行きますよ」
「ふ〜ん。体調がねぇ・・・」
可憐が意味ありげに微笑むと、美童が続けた。
「僕達今日泊まるとこないんだよね〜。だから、ここに泊めてよお」
「なっ!何を――――」
清四郎が一喝しよとしたのを遮って、奥から悠理の慌てた声が聞こえた。
「い、嫌だぞ!!」
「悠理!」
慌てて振り返ると、悠理が真っ赤な顔で立っていた。
とりあえずはちゃんと服に着替えていた事に安堵しつつ、後ろに控える悪魔どもの対処に清四郎は肩を落とした。


「なんでこうなるんだよお」
「それは僕のセリフですよ」
四人はやはり日が暮れても帰る事はなかった。
「お前らを祝福しに来たんだ」と酒まで持参していたのだから、元より「祝福」だけで帰るつもりなどサラサラなかったのだろう。
むしろその「祝福」というのだって嘘くさい。
清四郎は酒を呷ってご機嫌な四人に、ここが離れで良かったと心底思った。
「どうして、パンフレットを捨てておかなかったんですか」
「だって・・・」
(楽しみに毎日、見てたんだもん)
この場所がバレた理由。それは、先日悠理の部屋に遊びに行った可憐が、清四郎がこんなところですよと見せたこの旅館のパンフレットを机の上に置きっぱなしにしているのを見つけたからである。
悠理が行くにしてはかなり地味な旅館のパンフレット。
しかも旅行に行くなどとは一言も聞いていない。
その上、最近妙に機嫌がいい。
プラス。
ひた隠しにしていたつもりのふたりの関係は実は当にバレていたらしかった。
結果。いつまでも話てくれない水臭い友人に痺れを切らし、自分達からバラさせてあげようという、大変心優しい気遣―――なのだそうだ。が。
「なーんであんた達、今まで黙ってたのよお。水臭いわね〜」
(バレたらこうなるのが目に見えてたからだよっ)
悠理は自棄になって酒を呷った。
「なんだよ、清四郎。お前、全然呑んでないじゃねーか」
「ハイハイ。呑んでますよ」
横で不貞腐れる悠理を気にしながら、注がれた酒に口を付ける。
「そういえば。さっきから気になってたんですけど、どうして清四郎あんな時間から浴衣を着ていましたの?」
野梨子が呂律の回らなくなってきた口で、なんとか言葉を吐き出した。
「野梨子、それはね。清四郎がお風呂に入ったからだよ」
美童が得意げに解説すると、野梨子が驚いたように口元に手を当てた。
「まぁ、あんな時間にわざわざ?」
「少しの時間も惜しかったんだろ?」
「そんなにいいお湯ですの?でしたら、悠理も入ればよろしかったのに」
「いや〜ね〜悠理も一緒に入ったに決まってるじゃなぁ〜い。大体こいつ等、イイお湯かどうかなんてわかってないわよお。そんなこと気にする余裕なんてなかったでしょうし?」
まるで見ていたかのように話す可憐に野梨子と悠理は真っ赤になった。
「な、なに言ってんだよ可憐!」
「だってあんたの髪、少し湿ってたもの。それに脱衣所も妙に散らかってたしね〜。あたし達が来たんで急いで着たんでしょ」
(バレてる)
ふたりは、あながち外れでもない友人の鋭さに顔を引き攣らせた。
「でも布団敷いてなくて良かったわよー」
「そうだよね〜。もしそんな状況だったらいくら僕達でも・・・・。あ、でもわかんないよー。なくてもそのまま・・・」
清四郎は途中で悠理の体が小刻みに震えだしているのに気付いていた。
だが、止めようなどとは全く思わなかった。

「お、お前らいい加減に出て行けーーー!!!!」


そのあまりの迫力に。
四人が慌てて出て行ったのは語るまでもない。
しかし、翌日。
性懲りもなくやってきた四人に、熱い夜だったことを物語る印が悠理のいたるところで発見され、更にからかわれる事となるのはお約束。

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