思い出の風



 痛む頭を押さえ、僕は屋上へと向った。
昨日親父に付き合わされ、少し呑み過ぎたようだ。
いくら後1ヵ月も経てば中等部に上がるとは言え、小学生の息子にブランデーをそのまま勧める親が何処にいるんだか。
・・・全く、あれでよく医者なんかやってますよね。
こめかみをキツク押すと、誰もいないはずのその場所を目指した。

普段から屋上へは、一人になりたい時によく来ていた。
本来ならば立ち入り禁止であるこの場所の鍵は、いつの頃からか壊れている。
しかも、その事に誰も気付いていないらしい。
警備員すらも立ち寄らない、聖プレジデント学園にしては唯一の無防備な空間だった。
だが、静か過ぎる程のその場所は風も気持ちよくて二日酔いの日にはもってこいだ。
特に授業中の今、聞こえる音は敢えて言えば風の音だけだろう。
簡単に「保険室行き」を許可してくれた教師に感謝しつつ、屋上への階段を昇った。

・・・誰だ?
どうやら先客がいたらしい。
この時間この場所で誰かに出くわすなど、考えてもみなかった。
女の子が、抱えた膝に顔を埋めている。
眠っているのだろうか・・。
不意にその子が顔を上げた。僕の足音に気付いたらしい。
不機嫌そうな顔で僕を見ている。
「・・・お前もさぼりか」
彼女の機嫌は僕が来た事で悪くなったと言うよりは、どうやら元々の体調の所為らしい。
いつもの元気な様子は影を潜め、なんだか顔色も良くない。
「少し、体調が悪くてね」
「勉強のし過ぎなんじゃないのか」
はにかんだ僕に口端を上げると、また頭を抱えた。
「君こそ、体調が悪いんじゃないの?風邪でも?」
「そんなんじゃないよ」

「隣、イイかな」
だだっ広い屋上。離れて座るのは変な気がした。
彼女――剣菱さんには嫌われていると思っていたので、拒絶されるかと思ったのだが・・・。
「勝手に座れよ。ここはあたいだけの場所じゃない」
「じゃぁ、お言葉に甘えて・・・」
僕は隣に腰掛けると、空を仰いだ。
・・・あと数日でこの校舎ともお別れだな
彼女の隣に座ってはみたものの、何を話して良いのかわからなかった。
彼女も話すどころじゃなさそうだし。
珍しく感傷的になってしまったのはそんな理由からだったかもしれない。
「う〜・・気持ち悪りィ〜」
・・・僕が感傷的になった事が、だろうか。
少しむっとした、がどうやら違うらしい。
口元を押さえ、吐き気をもよおしているようだ。
「吐きそうなのか?」
背中をさする。
「や、止めろ!ホントに出ちゃうだろ」
身を捩り、僕の腕を払う。
「吐いてしまった方が楽だと思うけど」
僕は気付いていた。
彼女も僕同様二日酔いだという事に。
・・・他にもいたんだな。
ヘンなトコに感心してしまった。
「もう吐くモン残ってないよ。朝、全部吐いた。だから今吐いても出てくんのは胃液だけ」
それは尤もだと思う。
だが、ほとんど口を聞いた事もないような人間にそういう事を平気で言うのはいかがなもんか。
僕はただただ呆れてしまった。
「・・・お前もなんだろ」
とりあえず吐き気は治まったのか、それでもやっぱり青い顔で口を開いた。
「何が」
「二日酔い」
「君ほどじゃないけどね」

「意外だな」
「何が?」
暫く経つと彼女は風に当たって少し楽になったのか、僕と同じように眩しそうに空を仰いだ。
「あんたでも授業サボるんだ。しかも二日酔いって」
「そりゃね。偶には息抜ぐらいするよ、僕だって」
「酒飲むのが息抜かよ。オヤジみたいなヤツだな」
「青い顔してる君に言われたくないな」
彼女は黙り込んでしまった。
怒ったのか?
「あたいは、とーちゃんに付き合わされたんだよ」
ボソッと呟く。
「なんだ、じゃぁ同じだよ。僕も親父に付き合わされた。他にもいるんだな、やっぱり」
「何が」
「そんな親」
彼女の顔を見て微笑む。
「みたいだな」
意外にも彼女も微笑み返してくれた。
「―――気分は?」
「さっきよりだいぶまし。お前は?」
「僕も大丈夫だよ。元々少し頭痛がしてただけだから」
「そか」
「あぁ」


「あのさ」
「なんだよ」
「さっきから気になってたんだけど」
「何」
「僕にはちゃんと、”菊正宗清四郎”っていう名前があるんだ。その、”あんた”とか”お前”って言うの止めてもらえないか」
ホントは「さっき」じゃない。小さい頃から、ずっと気になっていた。
どうして彼女は僕の名前を呼ばないんだろう。
確かに今までに口を利いたのは数えるほどしかない。だからなのか?「友達」じゃないからなのか。
それとも、初めて会ったあの日の事を根に持っているのだろうか。違うな、根に持つなら僕のほうだ。
ならやっぱり「友達じゃないから」と言う事か。
そこまで考えてなんだか可笑しくなった。
・・・どうしてそんなに「名前」を呼んで欲しいんだ、彼女に。
「なんだよ、いきなり・・・」
確かに、唐突だな。いきなり名前を呼んでくれ、だなんて。
君が驚くのも無理ないよ。僕だって自分が良くわからないんだ。
「・・・そっちこそ」
「何が」
「あたいにだってちゃんと”剣菱悠理”って名前があるんだ。その”君”とか言うの止めろよな」
彼女も気にしていたのだろうか。僕と同じように。
・・・まさかな。僕が言った事への応酬だろう。意地っ張りだもんな。
「じゃぁ、剣菱さん」
「剣菱さん・・。ま、いっか、”君”よりマシだな。で、なんだよ菊正宗」
「僕はさん付けなのに、そっちは呼び捨てなのかい?」
「あたいの事も呼び捨てにすればイイだろ」
そう言われたが、いまいち”剣菱”と呼び捨てするのはピンと来なかった。
「別に無理にとは言わないけどさ」
黙ってしまった僕にぶっきらぼうに付け足す。
「・・・悠理」
「え?」
突然僕が名前を呼んだんで驚いたようだった。
「苗字より名前の方が呼びやすいね。ほら、剣菱って言うより悠理って言う方が」
「そ、そうかな」
悠理は下を向いてブツブツ言っていた。
「そっちもそうかもな。菊正宗って言うよりせーしろーって方が呼びやすい」
「エラく間延びした言い方だな。ま、”お前”よりは何倍も良いですけどね」

「なぁ、せーしろー」
悠理は少し笑って僕を見た。
今まで嫌われていたと思っていた事がバカらしくなるぐらいのその表情。
そんな自然な笑顔にどきりとする。あんまり見たことがない所為だろうか。
「何?」
「ちょっとむこう向いて座ってくれよ」
「どうして」
「イイから、ほら、むこう向けって」
僕は言われた通り、悠理に背を向けた。
「ん?」
不意に背中に重みを感じた。
「動くなよ」
頭だけ振りかえると、悠理が僕の背中に凭れていた。
「ちょ、ちょっと!」
僕が背中を離そうとすると、腕を掴まれ止められた。
「あたい、眠いんだ。暫く凭れさせてくれよ」
そう言うと、すぐに寝息を立て始めた。
本当に寝入ってしまったのだろうか。
僕は動けなくなってしまった。
だけど、不思議な事にあんまり嫌な気分じゃなかった。
もう少し、話をしていたかったと残念には思ったけど。



・・・結局、次に話をしたときには「君」「お前」に戻ってたんですよね。
腕の中でスヤスヤ眠る悠理を見て小さく笑う。
あれから何度目かの春が過ぎて、今悠理が眠る場所は、学校の屋上でもなく背中でもなく、僕の腕の中に変わっていた。
・・・だけど、限度を知らずに飲むところや、突然思いもよらない事をするトコなんかは相変わらずですな。
抱く腕に力を入れて更にその身体を引き寄せた。
「・・んん・・せ・・・しろ・・」
頬を胸に摺り寄せてくる悠理を抱きしめる。その髪に顔を埋め、僕も瞼を落とした。

朝になったらアルバムを開いて、あの頃の話をしよう。
きっとこの時にはもうお前を好きだったんだって。
真っ赤になるお前の顔が見たいんだ、悠理。



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