クリスマス・イブまであと一週間。テレビやラジオ、そして街にはクリスマス・ソングが溢れ、街路樹にはイルミネーションが輝いている。
 僕はサンタクロースが実在しているなんて信じたことは一度もない。煙突なんかない我が家にサンタクロースが入って来られるわけがなく、子どもをおとなしくさせるためのおとぎ話だと、幼い頃から思っていた。
 実際、親に我が儘を言ったこともなく、物心ついたころから「神童」の誉れ高い僕には「いい子にしていないと、サンタさんがプレゼントをくれないわよ」なんて小言も全く必要ない。僕にとって、サンタクロースが存在する必要性でさえないと言っていい。
 イブの夜は、僕が寝入ったあと父がこっそり部屋に入ってきて、枕元にプレゼントの箱を置いてゆく気配を感じながら、いつも狸寝入りをしていたものだ。
 でも両親の前では、「サンタクロースが来た!」と喜んでみせる。そう欲しくもないおもちゃを、大事そうに抱えてみせる。ただ、母の嬉しそうな顔を見るためだけに。

メリー・クリスマスをきみに

 我が家──菊正宗家は僕が小さい頃から、クリスマス・イブは家族で静かに過ごす決まりとなっている。母の手作りの料理にケーキ、未成年の僕や姉も飲めるように用意されたシャンメリー。父と母はスパーリングワイン。僕の背丈と変わらない大きさのクリスマス・ツリー。色とりどりのクラッカー。壁には母が作ったリースが飾られ、リビングにはソリに乗ったサンタクロースのライトと、母が大事に育てたポインセチアがおいてある。
 毎年の慣例行事。一家団欒を体感するためだけの。
 それは姉も同じ考えのはずだった。これは、一年に一度の親孝行なのだと。




「お母さん、わたし、今年のクリスマスは友達と過ごすことにしたから」
「あら……和子、クリスマスは家族で過ごすって約束じゃない」
 母は父に酒を酌をしながら、悲しそうに顔をゆがめて姉を見やった。姉は茶碗を置いて、すまし顔で言った。
「わたしももう高校生だもの。友達とクリスマスパーティの約束をしちゃったのよ」
 姉は聖プレジデントの高等部二年生である。高校生になれば大人だと、姉は事あるごとに言う。僕の目にはそう違いはないように見えるのだけど、両親は姉の服装や髪型、言葉遣いに中学生と高校生の違いを感じるらしい。
 去年のクリスマスは、これも親孝行の一つだと我慢していたようだ。そろそろ自立してもいい頃だと、今年は決行に踏み切ったのだろう。
 母はその姉の主張に返す言葉もないらしく、父に救いを求める目を向けた。
 父は猪口を置いて、姉に向き直った。まっすぐに姉を見つめる。こういう時、父の身体全体から「父親の威厳」というものが自然にあふれ出てくる。
「その友達というのは、聖プレジデントの友達かね」
「ええ、そうよ。ほら、お母さんも会ったことのある」と、姉は何人かの名前を挙げた。もちろんみな女性、僕も何度か会ったことのある人ばかりだった。
 その名を聞いて、ほっと母が安堵の息をつく。父のいかめしい顔がわずかにゆるむ。
 でも僕は気づいていた。姉の生真面目な顔つきの裏では、こっそりと舌を出しているのだ。
 親というものは、子どもの嘘にどうしてこうも簡単に騙されるのだろう。信じてやりたい──という盲目の愛が、目をくらませるのだろうか。それとも、親子の信頼関係にひびを入れさせないがために、信じているフリするのだろうか。
「そうか……それならいいだろう。だが、遅くなるなよ」
「ええ、もちろん分かってるわよ。心配しないで」
 姉がにっこりと笑う。天使の微笑みとも見まがうほどの極上の笑み。
 でも、僕の目には──ほくそ笑んでるとしか見えなかったのだが。
「じゃあ、今年のクリスマスは清四郎ちゃんと三人ね」
「お前は友達と約束はしてないだろう?」
 母と父は同時に僕を見つめた。二人の期待に溢れる目。それに背くわけにはいかない。
「ええ。お母さんの料理、楽しみにしてます」
 僕はにこやかに笑ってみせる。期待に応える──それが僕の務めだった。

 

 ところがクリスマスイブの前々日。
 いつもの家族団欒の時間に、母がためらいがちに切り出した。
「あの……清四郎ちゃん。クリスマスなんだけど……今年はちょっとお父さんもお母さんも出かけなくちゃいけなくなったの」
「どうしたんですか、急に」
「お前も知ってるだろう。お父さんが世話になってる代議士の片桐先生。先生の主催でクリスマスパーティが開かれることになったんだ。最初はお断りしていたんだがね、どうしても会わせたい人がいるとのことで、どうにも断り切れなくなってな」
 菊正宗病院の経営で、お世話になってる代議士先生は何人かいる。その中でも、父が一番お世話になっているのが、片桐さんだった。
「僕なら構いませんけど」
「和子もいないから、一人きりのクリスマスになるわよ。もちろん料理の準備はしていくつもりだけれど……淋しかったらお友達でも呼んで──」
「いえ、お母さん。実は、僕もクリスマスは友達とパーティをする約束をしていたんですよ」
 それが、姉さんが先に言い出すものだから、言いづらくなって困っていたんです──と僕は口ごもりながら言った。僕の言葉に、母が愁眉を開く。
「そうか。お前ももう中学生だものな。親より友達と一緒のクリスマスの方が楽しいか」
 父が豪快に笑う。僕の言葉を信じたのかどうかは分からないが、母の僕に対する後ろめたい気持ちを救うことはできたらしい。母がちょっと恨めしそうに僕を睨んだ。
「まあ、清四郎ちゃんまでわたしたちより友達といる方が楽しいっていうのね」
「僕にも友達づきあいというものがありますから」
「親離れの時期ということだな」
「中学生のくせに生意気ねえ」
 姉が苦々しい笑いを浮かべる。両親が顔を見合わせて笑う。その中に、一抹の寂しさが隠されていることに、もちろん僕は気づいていた。




 もちろん、友達と約束があるなど嘘だった。クリスマスイブに外に出なくとも、別に困らない。自分で簡単な料理も作れるし、読みたい本だっていっぱいある。本に飽きればテレビもあるし、好きなCDだってある。

 

 だけれども──
 一人で家にいることなど珍しくないのに、どうしてクリスマスイブの夜はいつにも増して家が広々と──寒々しく感じられるのだろう。リビングの明かりもいつもより白々として見えるし、家の外を忙しく通り過ぎる車のエンジン音までもが、家の中でうつろに響く。
 家の中で響く音はたったひとつ。廊下を行き来するスリッパの音も、自分の物ひとつだけ。呼吸音や胸の鼓動までもが、何故か騒音のように大きく聞こえてくる。
 珍しく食事をしながらテレビをつけてみたが、CMで流れるいくつものクリスマスソングも、くだらないバラエティの笑いも、とらえどころのない煙のように僕の回りに漂い、うつろに消えてゆく。お陰でせっかく作ったチャーハンもそっけない味思えてきて、食欲までもが瞬く間に消え失せてしまった。
 僕は窓の外を見やった。塀ごしに、幼なじみ──野梨子の家が見える。日本画家と茶道家元に相応しい日本家屋からも、クリスマスの暖かい光がこぼれていた。だいだい色の光の中に、ちらりちらりと赤や青、緑の光が混じる。クリスマスツリーに飾られたライトの明かりだろう──まるで、白鹿家の笑い声のように楽しそうに瞬いている。
 首を巡らせてみると、我が家のリビングに飾られたクリスマスツリーにもイルミネーションが輝いていた。ツリーを出した日から、一度も忘れることなく、母が夜になるとライトを点けていたのだった。今日も、出かける前に点けて行ったらしい。
 だけど、その光のなんと寒々しいことか。鮮やかな赤や緑の色が、急速にモノクロの世界に変わる。
 僕はスプーンを置いた。かちゃんと、ステンレスが耳障りな悲鳴をあげる。皿の上には半分以上残ったチャーハン。まるで、開発のために斜面を削り取られながらもそのまま放置されてしまった、無惨な山のように。皆にそのまま忘れ去られ、茶色の山肌をさらけ出している。雨が降り、そのうち崩れて跡形もなくなってしまうだろう。
 それはなんだか──僕一人だけが、世界中の人々から取り残された気にさせた。
 淋しい──という気持ちが突然わきあがってきた。
 今まで一度も味わったことのない感情。生まれたときから両親に大事にされ、皆の期待を一身に背負いながらも裏切ることなく生きてきた、僕には全く縁のないこの思い。いつだって、僕はみなの中心にいた。
 それは心の中に一滴の染みを零したとたん、風船のように大きく膨らみ──唐突に弾け飛んだ。
 僕の鼓膜をつんざく、破裂音。まるで、徒競走のスタートに鳴らすピストル音のような。
 僕は皿もスプーンもコップもそのままにして、衝動的に外に飛び出した。リビングのソファーに置きっぱなしにしていたコートひとつをひっつかんで。




 外は身震いするほどの寒さだったが、ホワイトクリスマスにはほど遠い。振り仰ぐと頭上には冬の澄み切った夜空が広がり、白く輝く月と、遠くから眺めるイルミネーションのように、星々が至る所でちらちらと瞬いていた。目に痛いほどの、冬の夜空。
 ビルの隙間から吹きつける風が、頬を鋭く切りつける。ぶるりと身体が震え、僕はコートのポケットに手をつっこみボアの襟元に首を埋めた。
 どこにいくあてもない。僕を招じ入れる家などどこにもない。
 ただ、街の中にあふれかえる寄り添ったカップルの間を縫うようにして歩いた。
 俯いて──時折、思い出したように辺りを見回して。だけど、僕の回りには寒々しい風が吹き抜けるだけ。僕の傍らには誰もいない。寄り添う相手も、クリスマスソングを共に聞く友達も。くだらない話に花を咲かし、笑い合う仲間も。
 僕は冷たい空の掌を、コートのポケットの中でただ握りしめるしかできなかった。





 淋しい──という気持ちはこういうものなのか。独りきりの夜とは、こういうものだったのか。凍てつく大地に、僕ひとりが立ちつくしている。

 

 気づくと僕は、大きな屋敷の前に立っていた。
 広大な敷地の中に、まるで中世ヨーロッパの如き建物が建っている。日本の風土にはまったく相応しくないその姿は、クリスマス・イブの今宵はきっと、日本中の女性から憧れの目で見られることだろう。
 いくつも並んだ窓には煌々とした明かりが灯り、がっちりと閉じられた門から建物までかなりの距離があるのに、クリスマスパーティに興じる人々の歓声が、冬の清冽な空気を通じて僕の元にまで届いてきそうだった。広大な庭に植えられた木々には、まばゆいイルミネーション巡らされ、楽しそうにきらめいている。
 僕は、この屋敷が誰のものだか知っている。
 日本の経済界を牽引する剣菱財閥──剣菱万作の家。
 僕のクラスメイト──剣菱悠理の家。
 今頃きっと、彼女も家族に囲まれ楽しいクリスマス・パーティに興じていることだろう。剣菱家自慢のシェフが作ったクリスマス・ディナーにクリスマス・ケーキ、こんがりと焼けた七面鳥。世界中から取り寄せた山ほどのプレゼント。
 何よりも、楽しそうな家族の笑顔。去年までの僕がすべて手に入れていたもの。
 僕は無意識のうちに、がっちりと閉じられた剣菱家の門の鉄柵に手をかけ覗き込んでいた。
「どなたですか」
 突然、頭上から枯れた声が降ってきて、僕は首をすくめた。門の横に監視カメラが据えられていて、そいつが僕を上からじろりと睨んでいた。
「初めまして、夜分遅くすみません。僕は剣菱悠理さんのクラスメイトで、菊正宗といいます」
 別に剣菱さんに用事などなかったのだが、習い性はおそろしいもので、僕は反射的にカメラに向かって礼儀正しく挨拶をしていた。
「悠理じょうちゃまのクラスメイトさんですか!」
 瞬時に歓喜の声とかわり、かちりと音がしたかと思うと鉄柵が重い音を立てて開く。
「どうぞ、お入りください」
 別に剣菱さんの家にお邪魔するつもりなどなかったのだが、ここまで来ると後には引き返せない。
 剣菱さんの家に行ったなんて知ったら、野梨子が激怒するだろうな──なんて考えながら、僕は剣菱邸に足を踏み入れた。




 大きな庭に敷かれたアプローチを進んでゆくと、豪華な建物が見えてくる。聞き慣れた、クリスマスソングが邸内に響いている。楽しそうな笑い声。剣菱さんは今頃、リビングでクリスマスパーティかなと想像していると、その横に植えられた木々の隙間から、まるでクリスマスツリーのようなにぎやかな光が唐突に覗いた。
 無意識のうちに、目がそこに行った。
 赤や黄色、緑と、ライトの点滅は、まるで天に駆け上るように渦を巻きながら輝いている。漆黒の夜空に昇ってゆく、星のかけらのように。
 そこには、二階建てのビルくらいの高さはありそうな本物の樅の木が立っていた。
 綿で出来た雪が枝のいたるところに飾られ、ピンク色の包装紙に赤色のリボンがあしらわれたプレゼントボックスがいくつもぶらさがっている。サンタクロースやトナカイ、天使のオブジェがイルミネーションの光に照らされ、そのてっぺんには大きな星が──まるで本物の星のようにきらきらと輝いている。
 それはまさに、クリスマスツリーそのものだった。繁華街の真ん中や、ショッピングモールに飾られたクリスマスツリーとは比べ物にならないくらいの、正統派のクリスマスツリー。
 僕が足を止めてそれを見上げていると、その木の陰から鮮やかな赤のコートを着た剣菱さんが、料理が盛られた皿を片手にひょいと現れた。
 どうやらこの寒い中、庭でクリスマスパーティをしていたらしい。チキンの香ばしい匂いが辺りに漂い、イルミネーションとは違う煌々とした光が、庭一面に溢れている。
「なんか、あたいに用?」
 剣菱さんはチキンを右手に持ったまま、じろりと僕を睨みつける。
 僕は咄嗟に頭を巡らせる。ここまで来た言い訳を考えた。
「実は僕の家に、先生から電話がありましてね、剣菱さんにちゃんと冬休みの宿題をするよう念押ししてきてくださいと言われたんです」
 我ながら、いい理由だと内心ほくそ笑んでいると、途端に剣菱さんは顔中をゆがめて、「げっ」と吐き捨てると同時に、せわしなく地団駄を踏んだ。
「なんだよ、もうっ! 楽しいクリスマスに、そんな話をしにくるなよっ! せっかくの冬休みに勉強のことなんか思い出させるなよ、バカヤロー!」
 赤のブーツを履いた足が地面を乱暴に叩くたび、皿から料理が飛び出てゆく。それにも目をくれないで、剣菱さんはキーッと甲高い声を上げながら叫んだ。
「せっかくあたいが楽しい気分でいたのに、全部ぶちこわしじゃんかっ!」
 たかが冬休みの宿題ではないか。ここまでヒステリックに泣きわめく理由が分からない。僕は半ばあきれ果てた思いで、まじまじと剣菱さんを眺めた。
「じょうちゃま、どうされました」
 その声が届いたのか、禿頭に羽織袴、鶴のように細い老人が慌てて駆け寄ってきた。彼こそが、門の前で僕を誰何した声の持ち主に違いない。
「五代、こいつがあたいの楽しいクリスマスパーティをぶちこわしに来たんだよぉ」
 剣菱さんは僕を指さしながら、五代という老人に言いつけている。おそらく剣菱家の執事だろう老人は、ぎろりと僕を睨んだ。
「悠理じょうちゃまのクラスメイトと、先程お伺いしましたが」
 それは偽りですか──という言葉を言下に含ませて、五代は僕にじりっとにじり寄る。年老いた外見からは窺えないほどの、迫力がその視線から感じられた。
「ええ、それは嘘ではありません」
 動揺することなく答えると、五代は背後に庇った剣菱さんに問いかけの目を向けた。剣菱さんはぐいと涙を拭って、渋々といった様子でうんとうなずく。
 それも当然だ。僕は何も嘘偽りは言ってはいない。先生が僕に電話をしてきたというのは嘘だが──予習復習どころか普段の授業でさえまともに受けてはいない剣菱さんの先行きを、先生たちが心配しているのは本当だった。事実、夏休みの宿題は、剣菱さんはなんだかんだと言い訳をして結局は未提出のままなのだ。クラス委員をやっている僕だけが知っている。
 五代は依然僕を睨みながら言う。
「では、御用はもうお済みでしょうか」
 僕は一瞬答えにつまった。済んだと言えば済んだのかもしれない。
 だが、用があるということさえ嘘だが。
「そうですね……連絡はしましたから」
「では、お帰り下さい。この五代が、門までお送りいたします」
「分かりました。……じゃ、剣菱さん、確かに伝えましたからね」
 肩を怒らせた五代が先導に立つ。僕は剣菱さんに背を向けた。その瞬間、剣菱さんが困った顔を僕に向けているのが、肩越しに見えた。
「……菊正宗」
 一歩を踏み出したところで、剣菱さんがとまどいを隠せない声をかけてきた。
 僕は足を止め、ゆっくりと振り返る。剣菱さんは一度唇を湿してから、ためらいがちに尋ねてきた。
「あのさあ、おまえ、これから家に帰るの?」
「さあ……どうするかまだ決めてません」
「家で、パーティするんじゃないのかよ」
「今夜は家族みんな、よそ様のご招待を受けてましてね。帰っても僕一人です」
 外に出てみようと思った僕が馬鹿だった。一人きりのクリスマス・イブを、改めて実感するだけ。これなら、家に籠もって好きな本でも読んでいたほうがましだった。
「そうなの? なんだ、おまえも一人なんだ」
 途端に、剣菱さんの顔がほころんだ。喜びというよりも、これは安堵の笑みだろうか。「剣菱さんは僕とは違うでしょう。こうやって、楽しそうにクリスマスパーティしてるじゃないですか」
 楽しそうな笑い声。庭には大きなテーブルが並べられ、豪勢な料理がおいしい匂いを放っている。剣菱邸の使用人たちだろうか、若い女性だけでなく男性も大勢楽しそうに料理を口に運び、グラスを傾け、クリスマスツリーの明かりに細めた目を向けている。
 五代は剣菱さんに一つ頭を下げ、彼らの輪の中に入っていった。
「そうだけど……でもさ、家族はみんな留守だもんなー」
「留守?」
 僕は周囲に目を向けた。確かに、庭にいるのはみな、剣菱さんの親戚とは思えない人たちばかりだ。一代で剣菱財閥を築き上げながらも、農作業のほうが似合うと噂に聞いていた剣菱さんの父親も、派手好みという母親も、地味で目立たないという兄も──どこにも姿が見えない。
「どこかへご旅行ですか」
 剣菱さんは、うんとうなずいた。
「この時期は、父ちゃん母ちゃんはいつも留守なんだ。毎年だれかのクリスマス・パーティに呼ばれてるからさ〜。今年はたしか、パリとか言ってたっけな」
 確かに、剣菱財閥の会長ともなれば日本だけでなく世界中のVIPとのつきあいがあるだろう。そういったパーティは夫婦同伴が決まりだから、当然と言えば当然かもしれない。
「お兄さんがいるんじゃなかったですか」
「兄ちゃんも、今年は父ちゃん母ちゃんについていったんだ。社交界デビューとかいって。兄ちゃんは嫌そうだったけど、母ちゃん一人がはりきっちゃってさ」      
 社交界デビューという言葉が自然に出てくるのも、世界に名高い剣菱財閥の令嬢ならではだろう。似合う似合わないは別にして。
「じゃあ、今年は淋しいですね」
 何気なくいった僕の一言に、剣菱さんはふっと瞳を曇らせた。薄い色の睫毛に縁取られた瞳の奥で、クリスマスツリーのライトがぼんやりと滲んでいる。哀しげに揺れる、赤や緑の光。そして、剣菱さんと負けず劣らず、哀しげな顔をした僕の顔も揺れている。
 剣菱さんはぎゅっと目を瞑ってから、振り仰ぐようにして傍らに立つ樅の木を見上げた。
「もう慣れっこだから、あたいはいいんだ。父ちゃんや母ちゃんから、クリスマスはあたいの好きなようにしていいって言われてるし。だからさ、毎年うちのみんなでこうやってパーティしてんだ。せっかくのクリスマス・イブだもんな。楽しくしないともったいないじゃん」
 ことさらに楽しそうな声。空元気に見えなくもない。
「みんな、楽しそうですね」
 僕は剣菱さんの笑顔から目を逸らし、まるでガーデンパーティのような剣菱邸の人々に向ける。男性も女性もそれぞれが思い思いの恰好をして、テーブルに並べられた料理に遠慮なく手を伸ばし、楽しそうに語り合っている。
「楽しいよ、もちろん。あ、そうだ、おまえも家に帰ってもひとりならさ、うちのパーティに参加しろよ」
「僕も?」
 いい考えだとばかりに、剣菱さんはにっこりと笑った。
「なあ、そうしろよ。パーティは人が多いほど楽しいもんな。食べ物ならいっぱいあるし、父ちゃんがパリから送ってくれたプレゼントも、みんなに配っても余るほどあるんだじょ」
 剣菱さんが指さす方向には、確かに山積みになったプレゼントがあった。
「そうですね……」
 躊躇う理由があるとすれば、ただ一つ。剣菱さんと犬猿の仲である、幼なじみの野梨子のことだった。僕が剣菱さんの家に行ったと知ったら、きっと激怒──どころか冷ややかな目で、「そうですの。清四郎は私よりも剣菱さんが大事なんですのね」とでも言いかねない。
 剣菱さんもそれには気づいたようだった。鼻に皺を寄せるようにして、いししと笑った。
「あいつのことなら黙っときゃいいじゃん。おまえとあたい以外、あいつに話すやつなんていないって」
「僕と剣菱さん、二人だけの秘密というわけですか」
「そうそう。あたいとおまえだけの秘密。あいつ、知ったらきっと驚くじょ」
 怒っている野梨子を想像したのか、剣菱さんはまたいししと笑う。こいつは危ないな、きっと黙っていられなくて自分から話してしまうだろうと僕は不安に思い、とにかく釘を刺しておくことにした。
「剣菱さん、分かっているでしょうけれど、秘密というものはバラしてしまった途端に価値がなくなるんですよ。野梨子を見返してやりたいのなら、僕がいいというまで黙っておくんですね」
「……分かってるよぉ」
 おもちゃを取り上げられた子どものように、剣菱さんはしゅんと萎れながら呟く。だけどすぐに立ち直り、僕に向けて嬉しそうに笑った。
「ってことは、おまえ、パーティに参加するんだな?」
 泣いたり怒ったり笑ったりしぼんだり……まったく忙しい人だ。
 僕は笑いを堪えるのに苦労しながら、「分かりました。おつきあいしましょう」とうなずく。
「じゃあさ、こっちこいよ、ほら」
 剣菱さんはなんのためらいもなく、僕に向けて手を伸ばしてきた。ポケットにつっこんだままの僕の手をひっぱりだし、冷え切った手を握ってくる。
 手袋もしてないのに、温かい手。つるりとした柔らかい掌。
 繋がれた彼女の手から、ほんのりと人の温かさが伝わってくる。じんわりと、だが確実に、僕の冷え切った心を溶かしてくれる。
 人の温かさって、こんなに優しいものだったのか。
 僕は照れくさい気持ちを押し隠しながら、笑いさんざめく人々の輪に加わった。この日だけは主従の垣根を取り払うのか、使用人たちも気軽に僕や剣菱さんに話しかけてくる。
 剣菱邸のみんなで、家族がいない淋しさを忘れさせようとしているかのように。
 至る所でカメラのフラッシュが光った。そのレンズは僕と剣菱さんにも向けられ、剣菱さんはなんのこだわりもなく、僕のすぐ側でピースサインをして写った。
「写真、できたらおまえにもやるからな」
「楽しみにしてます」
 僕たちは、ケーキの皿を手に大きな木にもたれかかる。葉がすべて落ちた落葉樹の上には、枝が絡まりボールのようになった塊があった。まばゆいライトに照らされ、そこには薄い緑色の実がいくつもなり、冬の寒空にも青々とした葉があった。
 心の奥底がざわめいた。剣菱さんはこれに気づいているのだろうか?
 いや、気づいていたら僕をここには連れてこないだろうな。それとも、イギリスに伝わるあの話を知らないのだろうか。
「きれいだなー」
 僕の傍らで、剣菱さんがため息混じりに呟く。振り向くと、彼女は細い顎をのけぞらせて、濃い闇色の空を見上げていた。
「ホワイトクリスマスもいいけどさ、きれいな星空のクリスマスもいいよな」
 夜空に白く漂う呼気の向こうに、点滅するライトに包まれたクリスマスツリーがある。ぼんやりと滲むイルミネーション。まるで剣菱さんを取り巻く星のように。
 僕もそれに倣い空を見上げる。
 ぽつりぽつりと赤や青の光が輝く星空。剣菱邸の向こうに沈みつつある上弦の月。澄み切った大気。聖夜──ではなくても、楽しいクリスマス・イブの夜。
 家族と過ごすイブとは違う、楽しくて心が温かくて──でもちょっと居心地の悪い夜。
「剣菱さん、この木についてるあの丸いの──知ってますか」
 僕は剣菱さんの横顔から目を逸らしながら尋ねる。 
「なに?」
 木の上を指さすと、剣菱さんはそれを見るなり首を傾げ、「知らない」と答えた。
「あれは、宿り木っていうんですよ」
「ふうん。……そんで?」
 素っ気ない返事。やはり、宿り木の伝説を知らないようだ。
「ヨーロッパ……特にイギリスでは、クリスマスにあの宿り木の枝を束ねて、玄関ドアや戸口に飾るんですよ」
「へえ、そうなの? 日本じゃあんまり見かけないよな」
「そうですね。ヨーロッパではヤドリギは幸せを呼ぶ木と言われているんですよ。それはヤドリギが薬草に使われたり、北欧神話や古代ケルト人の神様に捧げる木だったからだそうですが、その他にもイギリスにはある言い伝えがあるんです」
「言い伝えって、どんなの?」
 興味をひかれたのか、剣菱さんは素直な瞳を僕に向けてくる。まっすぐに、僕を疑うことなく。
「この宿り木の下に立つ女性にですね……」
 僕は答えを躊躇った。もしも正直に伝えたら、今こうやって剣菱さんと二人でクリスマスの夜空を眺めているひとときが、なにもかも壊れてしまいそうな気がした。それどころか、きっと剣菱さんなら、髪の毛を逆立てるぐらいに激怒して、僕にこぶしをつきだしてくるだろう──もちろん、それくらいかわせる自信はあったけど、そんなことよりもすべてを失ってしまうことが怖かった。
 もう、元に戻せなくなる──僕の掌に、彼女の手の感触が再び戻ってくることはないだろう。ようやく手に入れた彼女の信頼も友情も、永遠に失ってしまう。
 僕は宿り木から目を背ける。そして、勝ち気そうな瞳の持ち主をじっと見つめる。僕の目の前にいる剣菱さんは、幼い頃僕を「弱虫」と馬鹿にしたときの面影をそのままに残している。
 でも、剣菱さんは僕がもう弱虫であることを知らない。それを知ったときの驚く顔が、今から頭に浮かぶ。
 そういえば、まだ僕は誰にもこの言葉を言ってなかった。今宵、世界中の人々が大切な人に、愛する人に言う言葉。
「この言葉を言うと、その女性は幸せになれるんだそうですよ」
「どんな言葉?」
 ケチらずに言えよ、菊正宗──と剣菱さんは僕に向かって口を尖らせた。

 

 いつかきっと、真実を伝える日が来るだろう。
 そう遠くない未来に。きっと。
 そのときは、僕を拒まないでくれるだろうか。
 だから今は、この言葉を君にあげよう。

「メリー・クリスマス」 

 

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