清四郎が乗る飛行機の搭乗手続きがまもなく始まる。手荷物とチケットを手に、搭乗ゲートに向かう人々の波。清四郎と同じビジネスマンらしき人に混じり、ちらほらと学生の集団も見かける。まもなく日本も夏休みに入る。来週あたりは観光客が増えて、日本の航空会社に比べてチケット代が安いこの便は、きっと連日満席になるのだろう。 ビジネスクラスをとっている清四郎は、搭乗ゲートに急ぐ必要はなかった。長く続く列の最後尾は、搭乗ゲート近くのシートに座っている清四郎からはまだ見えない。 そして、シートに腰掛けている清四郎の手には、未練のように携帯電話がある。 成田に着いてから、魅録と美童からは別れのメールが届いた。簡単なメールだったが、それだけでも清四郎には心強い。 しかし、女性軍からは未だ届いていない。やはり、昨夜の悠理への態度で反感を買ってしまったか。自業自得とはいえ、一抹の寂しさは隠せない。 今一番メールが欲しい相手──悠理からもまた、連絡はなかった。 今朝渡してきた朝顔の鉢。その重さが両腕にまだ残っている。 最初は悠理に会わずにロンドンに発つつもりだった。だが、早くに目が醒めてしまい、またしばらく戻ることの叶わない日本の風景を胸に刻むため外に出て、白鹿家の塀から覗く朝顔の花を見て、下谷の朝顔市を思い出した。朝顔市は朝5時から開催されている。 浅草のほおずき市と並ぶ、夏の風物詩の一つだ。 入谷鬼子母神へ続く通りにずらりと並べられた、色とりどりの朝顔の鉢植えを何気なく眺めていて、ふと、夏の光を浴びて大きく咲き誇る朝顔と、昨夜の悠理の笑顔が重なった。 それまで、悠理といえばひまわりの花だと思っていた。夏の強烈な陽差しの元、すくすくと天へ天へと伸びてゆく、太陽の花ひまわり。なにがあろうと、いつも太陽の如き明るい色を辺りに振りまく大輪の花。 だが、昨夜の悠理は違った。昔と同じ笑顔の下に隠された、女の匂いのする愁い顔。清四郎が今まで知らなかった姿。共にいて、一度も見せたことのない表情。 野梨子が清四郎と非難したとたん、それは姿を消していつもの朗らかな悠理に戻ったが、それでもきっと昔と同じ悠理の笑顔は、清四郎の姿がなくなればすぐに失われてしまったのに違いない。 朝顔が花開く朝のひととき。それと同じくらい短い間のことだったのだろう。 ふっと胸にわき上がってきたのは、「源氏物語」の中の朝顔の和歌だった。 5年間離れていても、変わることのなかった悠理への思い。 それは、悠理、お前も同じだろうか。今でも僕のことを思っていてくれると──? 清四郎は躊躇ったあと、家に一旦戻って文を書き、市で買い求めた朝顔の蔓にそれを結んだ。きっと悠理なら野梨子に助けを求めるだろう。そして、野梨子なら、この和歌と朝顔に籠められた意味に気づいてくれるに違いない。 しかし、悠理からの電話はなかった。見送りのメールでさえも。携帯は押し黙ったまま、「悠理」という名を記してさえくれない。 答えがないということは、賭に破れた──それだけだ。 清四郎は相変わらず時を告げるだけの液晶画面に目をやった。そろそろ電源を切らなければならない。分かっているのだが、携帯を開く勇気がなかなかでない。 思わずため息が出た。自分自身驚くほどの大きいため息。どうやら、思いが伝わらぬことに衝撃を受けている自分がいるらしい。 「まあ、仕方ありませんな」 清四郎はひとりごちた。未練という名の、苦い思いを振り切るために。 悠理のことだから、素直に朝顔に水をやっているんでしょう。そして水で濡れた文にようやく気づき、ゴミだとでも思って捨てている──まあ、そんなところですな。 携帯から目を外し、面を上げる。目の前に連なっていた人の列は、ようやく途切れようとしている。 それでも携帯を手にしたまま、シートを立った。なかなか心が定まらないまま、列の最後に並ぶ。予定通りに行けば、離陸まであと15分。それは、日本との繋がりが切れるまでの時間だった。 切れてしまった糸が再び繋がるのはロンドンに着いてから。 チケットを受け取るキャビンアテンダントの姿が目の前に近づく。 タイムリミット。 清四郎は携帯を開いた。電源ボタンに指を置いた、そのとき。 メールの受信音がなった。
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ええい、と胸の内で呟いて、悠理は送信ボタンを押した。 ──送信完了。 ほっと、大きく肩で息をつく。 今まで自分は勇敢だと思ってた。学生時代、仲間と事件に首を突っ込んだり命のやりとりをしたり──そこら辺の男どもには決して負けないと自負していた。 でも、今日のあたいはなんか変。 今まで何度も送った清四郎に、たった一通のメールを送るのに、体中から勇気のかけらを必死にかき集めてもまだ足りなかった。何度も深呼吸をして清四郎の笑顔を思い浮かべて、刻々と進んでいく時計の針にせかされて──そしてやっとメールを送った。 きっと間に合う。清四郎はまだ飛行機に乗ってない。まだ携帯は切ってない。 野梨子に教えてもらった和歌。清四郎からもらった文への返事。 できれば、清四郎みたいにきれいな紙にちゃんと筆で書いて渡したかったけれど、それよりも一刻も早く自分の気持ちを伝えたかった。 朝顔を自分の気持ちだと言ってくれて、どんなに嬉しかったか。 伝えるだけでいい。清四郎に日本に戻ってきてなんて言わない。あたいを、ロンドンに連れてってなんて言わない。 ただ、あたいも清四郎のことが5年前と同じくらいに──ううんそれ以上に好きで好きで仕方がないって、伝えたかっただけ。 悠理は携帯を畳の上に置いて、膝の上に広げた紙をもう一度見つめた。 野梨子から教えてもらった和歌が書いてある。あたいの気持ちを伝えるのに、一番相応しい和歌を教えてと野梨子に頼んだら、野梨子は少し考えたあとこの和歌を書いてくれた。「きっと、清四郎にも悠理の気持ちが通じますわよ」と言ってくれて。 野梨子がペンで書いてくれた文字は、綺麗な女らしい文字だった。漢字の横には、丁寧にひらがなをふってくれている。 悠理は指でその文字を辿りながら、口の中で呟いた。
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どうやら賭に勝ったらしい。 清四郎はメールを開いてすぐに確信した。 悠理から届いたのは恋歌だった。清四郎が予測していた「源氏物語」の中の和歌ではなく、百人一首にある、有名な恋歌。 その和歌にこめられた意味に、清四郎はすぐに気づいた。彼が送った和歌よりも、何倍も愛しい人を恋い慕う妖艶な愛の歌。 そして、和歌の後、数行空いて悠理らしい一言が付け加えられていた。 「清四郎はヒカルゲンジとかじゃないし、あたいはお姫様じゃないやい!」と。 清四郎は文面を見て思わず笑いを零した。光源氏がどういう男で朝顔の姫君がどんな女性か、野梨子から教えてもらったのだろう。 こんな愛の歌を女から贈られたとなると、男としては黙っているわけにもいかないではないか。 「あの、お客様……航空チケットを」 声をかけられて面をあげると、搭乗ゲートは自分の番が来ていた。キャビンアテンダントが困ったように、手を差し出している。 「申し訳ありません。大事な電話がありまして……もうちょっと待っていただけますか」 断りを言って、清四郎は列から離れた。 きっと、悠理は携帯を握りしめるようにして、清四郎からの返事を待っていることだろう。 返信ボタンを押す。少し考えてメールを打ち出してまもなく、再びメール受信音がなった。悠理からだった。
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「清四郎、さっき送った歌の意味、教えてくれないかな? 野梨子が意地悪でさ、清四郎に教えてもらえって。時間あるときでいいから、メールして」 | |
意味が分からずに送ったのか。 苦笑いが浮かぶ。野梨子もまた意地が悪い。悠理を使って、清四郎を間接的にいじめているに違いない。すまし顔で忍び笑いを漏らしている、野梨子の姿が脳裏に浮かんだ。 まあ、今回は野梨子にしてやられたというところですね。 清四郎はメールの残りを打って、送信ボタンを押した。そして、携帯の電源を切って、再び搭乗ゲートに向かった。 飛行機は日本を離れてゆく。成田を離陸して空に舞い上がり、日本から遠く離れた英国に向けて。 東京の街が小さくなり、青く広がる海が眼下に見える。上へ上へ──上空に浮かぶ雲を突っ切って昇り、ふっと身体が軽くなると窓からはもう日本は消え去り、どこまでも白い波が続く雲海が目の前に広がっていた。 しばしの別れだ──清四郎は胸の中で呟いた。 また、夏の終わりに戻ってくる。メールの中で悠理に約束した言葉。 お前をこの胸に抱きに、戻ってくる、と。 それが、悠理から送られた和歌への答えだった。
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嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
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あなたが来ないことを嘆きながら、一人で寝ている夜は、 明け方までの時間がどんなに長いことが、あなたは知っていますか。 きっと知らないでしょうね。 |