「 紅 差 指 」
 江戸の夏は暑い。蝉時雨が降り注ぐ昼下がり、朝水を打ったはずの庭からは夏の日照りから立ち上るかげろうが揺れ、生ぬるい風が時折思い出したように座敷に吹きつける。
 そんな中、江戸随一の大店剣菱屋の寮で、清四郎はしきりと悠理の機嫌をとっていた。
「ですから、父が世話になっている方から持ち込まれた話ですから、どうしても断れなかったんですよ」
 何度、同じ言葉を繰り返しただろう。朝早く剣菱屋の大番頭五代から連絡を受けてこの根津の寮にかけつけ、まだ冷えてもない西瓜をやけ食いしていた悠理に、矜持だけは高いこの男が頭を下げている。
「うっさい!」
 悠理は畳を足で踏みならして一喝した。
「そんなの言い訳になるもんか! あたいは、雨あられのように降ってくる見合い話、ぜえぇんぶ断ってやってるんだじょ!」
「それは分かってますよ。ですが……我が家の立場というものもありましてね」
 ぎろりと睨みつけてきた悠理に、清四郎はしぶい顔を見せる。
「なんなんだよ、立場って!」
「いやそれは……お前に話したところでどうなるものでもありませんし」
 今回話を持ってきたのは千代田のお城に詰める奥医師を束ねる法印多紀氏で、清四郎の父は蘭方医、多紀法印は漢方医との違いはあるが、いえ結構と、そう簡単に断れる筋からの話ではなかった。
 しかし、食欲しか頭にない悠理に、清四郎の父が置かれた難しい立場を説明したところで、理解してもらえるとは思えない。
 だから、悠理に見合いのことを知られた以上は、ただひたすら陳謝するしか清四郎に方法はなかった。
「じゃあ、どうして二回も会ったんだよ! その気がないなら、一回目で断ればよかったじゃんか!」
「そ、それは……」
 清四郎はぐっと詰まった。一回目の見合いのとき、相手に嫌われようとおもしろくもない学問の話をしたり、(いつも仲間に見せるような)横柄な態度を取ってみたりしたのだが、相手もさすがは医師の娘、奥医師の家を嗣ごうとする男子ならば当たり前と覚悟ができているようで、逆にそういった媚びへつらわない清四郎を気に入ったらしく、多紀法印に三つ指ついて「よろしくお願いします」と頭を下げたのだそうだ。
 ならば、清四郎の方から「気に入らぬ」と断ればよいのだが、その娘は見目麗しく気だてもよく、清四郎の学問の話に、女の身でありながらついてきたりしたのだから、断る理由が見つからない。
 多紀法印は、「このようなよきおなごは、他にはおりませんぞ。菊正宗どのにいくら感謝されても足りないくらいじゃ」と下心見え見えの笑みを浮かべるものだから、これは進退窮まった。
 見れば、その場に居並ぶ両親も姉も、満足そうにうなずいているではないか。
 とりあえず二回目は会った。逃げることはできなかった。娘はもう結婚の約束をしたと思いこんでいるのか、婚儀を上げたあとの生活について夢を語る。清四郎は、ああとか、そうですねえとか生返事を繰り返して明言を避け、なんとかその場を切りぬけた。
 しかし、このままのらりくらりと逃げ続けるわけにもいかぬ。どうしたものかと知恵を絞っているうちに、どこからこの話が漏れたのか悠理が知り激怒して、夜中にもかかわらず日本橋の剣菱屋を飛び出したという知らせがもたらされたのだから、清四郎にしてみれば踏んだり蹴ったりである。
 ここは潔く悠理に頭を下げ、悠理の父万作から多紀法印に話をつけてもらうしかない。
 お城勤めというものは存外金がかかり、剣菱屋から金を借りていない幕臣はおらぬともっぱらの噂である。代々奥医師を束ねる多紀氏でさえ例外ではなかろう。ましてや、奥医師菊正宗家の嫡男ではあるが、すでに剣菱屋の婿として迎える約束が当人の間で交わされていると、万作が一言多紀法印に告げれば、この話、すぐに立ち消えとなるに違いない。
 しかしそのためには、悠理になんとか機嫌を直してもらうのが必定である。 
「確かに二回会いましたがね、僕はもちろん断るつもりでしたよ。僕の父からでは角がたつでしょうから──剣菱のおじさんから……」
 清四郎の言い訳を、悠理は聞いていなかった。手にした西瓜の皮を投げつけ、だだっ子のように叫んだ。
「清四郎はあたいが嫌いなんだっ!」
 もちろん、清四郎は正座した足を崩すことなくひょいと躱した。べちゃり、と畳に赤い汁が飛び散ったが、悠理も清四郎も一顧だにしなかった。
「悠理、そんな馬鹿なことを言うもんじゃありません」
「だって、野梨子が言ってた! 相手の女、あたいなんか逆立ちしたって叶わない美人だったって!」
 清四郎は顔を盛大にしかめた。どうやら、幼なじみの野梨子まで怒らせてしまったらしい。まさか、悠理が言った通りの報告をしたとは思えないが、「きれいだった」の一言に悠理がいらぬ想像を膨らませたに違いない。
「お前だって十分美人ですよ」
 甘い言葉を口に乗せてみるが、激高した悠理の耳にはどうやら届かなかったらしい。また悠理は縁側に投げてあった西瓜の皮を拾い、清四郎になげつける。これは狙いを外れ、座敷に置かれた行灯に当たって赤い色を散らした。
 悠理はきりきりと眉をつり上げる。
「化粧もきれいにしてて、いい着物着てきれいな簪が似合って……いいところのお嬢様って感じだったって可憐が」
 さすがは可憐である。目にするところが違う──清四郎は思わず感心してしまった。
「お前だっていい着物も簪も、余るほど持っているでしょうに。お前が女らしい姿になれば、野梨子も可憐も──きっとお前に敵いませんよ」
 悠理の目がきょとんと丸くなる。その隙を逃さず、清四郎はにじり寄った。
「う、嘘だ……」
 呟く悠理の声には力がない。
「僕が嘘をつく男に見えますか?」
 悠理の傍らに身体を寄せる。熱い陽差しがその背に降り注ぐ。その熱線よりも熱い、悠理の体温。
「で、でも……」
「魅録や美童はなんていいました?」
 俯いた悠理の耳朶に唇を寄せる。息がかかって、悠理がくすぐったそうに身をよじった。
「清四郎が、あたい以外の女を選ぶわけがないって……」
「そうでしょう? お前にも分かっていると……僕は信じていたんですがねえ」
「それでも……見合いをしたのに違いないじゃんか。それも、あたいに黙って」
「それは当然でしょう。そう簡単に断れない見合いの話をお前にしたって、苦しめるだけですからね。それに……見合いのお陰で分かったことがありますよ」
 悠理の肩を抱く。抗うことのない悠理の身体が、無意識のうちにか清四郎に寄りかかった。
「……何?」
 清四郎の顔を覗き込む悠理の瞳は、疑いの色をわずかに残しながらも、愛しい男を見つめる熱いまなざしに変わっている。
「お前が、この世の誰よりも美しいということですよ」
「え……」
 さすがの悠理も、返す言葉を失ったかのように口を噤んだ。
 そのくちびるは赤く濡れている。西瓜の汁と分かってはいたが、それでも十分に欲情をそそる。清四郎に抱かれるとき激しく清四郎を求め、歓喜のあえぎを漏らすくちびる。
 清四郎は悠理の手を取った。その手も西瓜の汁で汚れていたが、清四郎はかすかに眉を寄せただけで何も言わなかった。ぽんぽんと宥めるように叩いて膝の上に載せ、懐に入れていた箱を取り出す。
 桐の箱にはいっているのは、紅猪口だった。蓋つきの白い猪口に、夏の夕焼けよりも赤々と燃える紅がはいっている。
「これ、あたいにくれんの?」
「ええ。可憐の店で買い求めました。紅を差してお前が一番美しいのだと──僕に見せてくれませんか」
 ぼう、と悠理の顔が赤く染まる。困惑したように紅猪口と清四郎の顔を見比べ──いつものように若侍のような出で立ちをした自分を恥じるように、西瓜の汁で汚れてしまった袴を触りながら呟く。
「でも、あたい……紅なんか差したことないし」
「そうですね」うなずいて、清四郎はふわりと笑った。「大丈夫です。僕が教えてあげますよ」
 清四郎は蓋を取ると、薬指を口に含んだ。悠理は依然頬を染めたまま、清四郎の仕草を見つめている。
 指を唇から離す。唾液に濡れたその指を、なめらかな紅の上に滑らした。
 すっと、その面に刻まれたひとすじ。優しく撫でるように。持ち上げた薬指には紅がすくい取られている。
「悠理」
 紅猪口を脇に置き、清四郎は悠理の顔に手を添えた。悠理が目を閉じる。そして赤いくちびるに、そっとその紅を載せた。
 柔らかい感触──何度も自らの唇で触れたものであったはずなのに、こんなにも柔らかく張りがあったのかと、今更ながらの驚きがわき上がる。
「……似合いますよ」
 こくりとうなずく悠理の身体を抱き寄せ、唇を重ねる。何度も何度も。
 お互いの熱い思いをはき出すように。悠理のくちびるは清四郎一人のものだった。
 そして清四郎の唇も、悠理一人のものだった。







 二人の唇から漏れる熱い吐息に、蝉時雨もその声を失った。





 

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素材:十五夜