最近、学校から帰る時に、必ず寄る所がある。
野梨子と家の前で別れた後、もと来た道を引き返し、僕は今日もその家に行く。
正確に言うなら、家に、というより、そのお宅の庭に。
僕は最近、悠理を想うと、夜も眠れない。 悠理が、かわいくて仕方がない。
あんなにかわいくて、大丈夫だろうか。 他の男に、狙われてやしないだろうか。 本当に不安だ。
僕にチョココーンフレークをくれた悠理。 その袋に付いていた、握り締めた痕である皺さえも愛おしい。 犬のように、僕に懐く悠理。 その笑顔に、今日も釘付けだった。
いつも行くお宅の名は、カラスさんという。 ふざけている訳ではない。 実際に会ったことはないが、きっとくちばしがある訳でも、早朝出ているゴミを漁る訳でも、クルミを空から投げて殻を割り中身を食べるなんてこともしないだろう。
なんという漢字を書くのかは知らない。 何故なら表札が、「KARASU」となっているから。 烏さんかもしれないし、鴉さんかもしれないし、香良洲さんかもしれない。 しかし、そんなことはどうでもいい。
僕は、カラスさんのお宅の、犬に用がある。 きっと、血統書つきではなく雑種の、けれどかわいい白い犬。 白い毛が、いつも陽にきらきらと透けている。
実はその犬が、悠理にそっくりなのだ。 どの位かって、それは悠理と見紛う程。
分かっている。 あれは悠理じゃない。あれは悠理じゃない。 何度も唱える。 あの犬は顔も見たことのない、カラスさんのものなのだ。 聖プレジデント高校の、生徒会長であり、頭脳明晰、成績優秀、武芸にも秀でているこの僕が、他人の家の犬を盗むことなどしない。 だから、今日もソーセージを片手に、悠理に…いや違う。カラスさん宅の犬に、こっそりと会いにゆく。
「悠理」 僕はカラスさん宅の犬に、小声で呼びかけた。 分かっている。 この犬は悠理じゃない。 だけど、犬を前にすると、どうしても悠理が浮かんでしまう。 もう、悠理以外には見えない感じだ。 悠理は…じゃない。 カラスさん宅の犬は、へっへっへ、と舌を出し、上機嫌で僕の方へ向ってきた。
「よしよし」 そう言いながら、僕は持ってきたソーセージを鞄から取り出した。 悠理は…いやカラスさん宅の犬…ええい面倒だ。 悠理は、柵から手…じゃなく前足を出し、僕に飛びつこうとする。 本物の悠理も、僕にこうして、飛びついてくれたらいいのに。 僕は犬版悠理の頭をひと撫でし、ため息をつく。
ソーセージをちぎってやりながら、僕はここのところ毎日繰り返している練習を始めた。 それは悠理に、僕の愛を分かってもらうこと。 僕らは付き合っているし、僕の悠理への愛は揺るがない。 だけど、悠理は僕を本当に愛しているのだろうか? 時々、首を傾げたくなることがある。 だからホワイトデー、彼女に、僕の気持ちを再確認させたい。 そして彼女に、僕を好きだと言わせたい。
「悠理」 呼びかけても、犬の悠理はソーセージに夢中だ。 なんと、僕らの関係そのものではないか。 デートでも、食事に夢中な悠理。 アイスに夢中な悠理。 僕が話している最中、ステーキのことを考えている悠理。 先ほど昼を食べたばかりなのに、もう夕ご飯に想いを馳せている悠理。 僕はなんだか、悲しくなった。 もしかして、恋が切ないって、こういうこと?
「悠理、僕のこと、どう想っているんです?」
犬悠理は、ソーセージを食べ終わり、僕を見上げた。 …もっとなんか、食べるもん、ないの? つぶらな瞳で僕をじっと見る。 もうソーセージ、ないの?と。
「ソーセージなんて、どうでもいいんです。僕はあなたをこんなに愛しているのに、あなたはいつも、食べ物のことばかりじゃないですか」
悠理は、僕の掌をぺろりと舐めた。 くすぐったい。 ニヤリと緩みそうになる頬を引き締める。
「誤魔化さないで下さい。僕はあなたの、本当の気持ちを聞きたい」
「あの…」
犬悠理が、人間のように口をきいた。 僕は本当に驚いたが、努めて冷静に、 「なんです?」 と問うた。 犬悠理の目を、じっと見つめて。
「うちの犬に何か…?」 恐る恐るといった感じで、犬悠理が言った。 …と思ったが、そんな訳はなかった。
犬悠理の後ろに、彼女の飼い主であろうと思われる(きっと名はカラスさんだ)若い女性が立っていた。 心配そうに、僕と犬悠理を見ている。 それは心配だろう。 自分の家の犬に、本気で話しかけている男子高校生がいたら、僕だってちょっと恐い。 しかも悠理とか、勝手に名前まで付けているし。
一瞬眩暈がしたが、取り乱したりはしない。 余裕で、すっくと立ち上がり、微笑んで見せた。
「かわいい犬ですね」
カラスさんは戸惑ったように、はぁ、と言った。
さようなら、悠理に似た犬。 飼い主に見つかってしまった以上、もうお前に会いに来ることは出来ない。 それでも尚会いに行ったら、僕は本物の変態になってしまうよ。 そういえば、恋と変って、なんだか似ている。 僕は小さく、胸のうちで別れを言った。
カラスさんが、犬に話しかけている。 「おいで、タロー」
…タロー…って、
雄か!?
僕は振り返った。 犬版悠理が僕に背を向け、飼い主に飛びついている。 股間を凝視すると、そこにはりっぱなきん○まが付いていた。 僕は打ちのめされた。 背後に、雷が落ちたような衝撃。 驚くべき事実を前に、思わず白目を剥いてしまった。 犬版悠理が、雄だったなんて、今の今まで知らなかった。 もう世の中、何も信じられない。
次の日の朝。 僕はある決意を胸に、生徒会室の扉を開けた。 今日こそ、僕の想いを、分かってもらう。 昨日一晩中考えて、分かった。 悠理を想った僕の気持ちに、偽りはなかった。 そうだ。 犬版悠理が、実は雄で、タローという名前だったことなんて、どうでもいいことなのだ。衝撃的では、あったが。
この想いまるごと、悠理に受け止めてもらいますよ。 僕は拳を握り締めた。
見ると、悠理は、可憐特製マーマレードジャムをクッキーに載せ、味わっている。
「悠理」 僕は悠理を呼んだ。 「ん?」 悠理は口にクッキーを頬張ったまま、返事をした。 振り向いた顔は、とてもかわいい。 しばらくそれに見惚れる。
「病気ですわね」 野梨子の声と、それに頷く可憐が見えたが、誰が何の病気なのだろう? しかしとりあえずは、悠理だ。
さあ、言うんだ。 ここ一週間、犬悠理で練習した、僕の想いを。 もう、我慢ができない。 この取り残されたような気持ちには、うんざりなのだ。
「ここ一週間ほど、ずっと悠理のことを考えていました」
そう言うと悠理は、急にもじもじと落ち着かなくなった。 「あたいも、清四郎のこと、ずっと考えてたんだ」
まさか!! 「本当ですか?」 嬉しくて、語尾が震えた。 「ン…」 悠理の頬が、赤く染まる。 なんてことだろう。 しかし嬉しすぎて、昨日徹夜で考えた言葉が、僕の頭からすっぽりと抜けた。 誰がどこを突こうと、完璧だった筈なのに。 犬版悠理を見ていて、僕が想ったこと。 人間悠理に、伝えたいこと。 なんだっけ?
犬に似ている悠理が好き? 悠理に似ている犬が好き? しかもその犬、雄だった? 悠理が犬なら好き? 犬が悠理なら… いや、違う違う。 落ち着け。 遠まわしに言おうとするな、僕。 犬からいいかげん離れるんだ。
少々パニックに陥っている僕に、悠理が言った。 「もうすぐ、ホワイトデーだろ?あたい、お前からのお菓子、楽しみにしてるんだ」 ちろ、と、上目遣いで悠理が僕を見た。 ああ! 僕の気持ち、分かってくれていたんですね。 僕は嬉しい。 「ええ、もちろん。デメルのザッハトルテ?ヴィタメールのショコラ?それとも、キルフェボンのタルトをホールで食べますか?」
「ねえ…悠理がバレンタインで清四郎にあげたのって、あの食べかけのチョココーンフレークだけよね?」 と、可憐が小声で言っている。 聞こえてますよ。 ええ、そうですよ。あの、チョココーンフレークだけですよ。それが何か?
「すっかり悠理のペースだな」 魅録の声。ずずっと、紅茶をすすっている。
魅録、僕は生まれてこのかた、誰かのペースに嵌ったことなどありません。
ぶふぅっ、と、紅茶を吹く音がした。 誰ですか?汚いですね。
「ちょ、ちょっと美童、大丈夫ですの?」 と、慌てた様子で野梨子が言う。
「悠理はお菓子を、楽しみにしてるって言ってんのに〜〜」 と、美童。 うるさいですよ。何言ってんですかね?紅茶吹き男め。
ち、と舌打ちしたくなるのを堪えて悠理を見ると、目をきらきら輝かせて僕を見ている。 「うーんと…全部食いたい!!」 ええ、買いますとも。全部ですね。 ああ、なんてかわいいんだろう。 僕のスウィートエンジェル。
「清四郎、好きッ!」 悠理が僕に、抱きついた。 これが、聞きたかった。 僕もです。悠理、大好きです。 悠理のふわふわの髪を撫でながら、ゆるゆると幸福感に浸る。
悠理を覗き込むと、彼女は小さく独り言を言っている。
キルフェボンのタルトをホールでかぁ…くふふ。何のタルトにしよっかなぁ…。
なんだか、嫌な予感がした。 これでは、まるでいつもの通りではないだろうか…。
そもそも、犬悠理で練習したことの意味って、なんだったのだろう。 カラスさんに、ヘンな目で見られてしまった僕の奇行。
でも、腕に抱いた悠理は柔らかで、今日の空が青いから。 綿菓子をちぎったような雲が、ふんわりと僕を誤魔化すから。
まあ、いいとしますか…。
おわり
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