しばらく、ぼーっとしたままその写真を眺めていた。 涙はまだコロコロと写真の上に乗っかっていたので、あたいは拭くものを探した。 だってさ、せっかく花の水には助かったのに、あたいの涙で濡らしちまったら悪いだろ? 「……ティッシュ、全部使っちゃったんだっけ……」 あたいは涙を水を吸ったテッシュの上に落とし、写真をTシャツでゴシゴシと擦った。 そして、写真を元どおり聖書に挟んで、そっと引き出しに戻した。 空になったグラスとチューリップを持ってキッチンへ降りると、和子ねえちゃんがいた。 医者になる手前って、研修医って言うんだっけ? 和子ねえちゃんはご飯を食べる暇もないって零していたけど、今は休憩中のようで、白衣のままでご飯を食べている。 「あら、悠理ちゃん、いらっしゃい。ちゃんと清四郎と青春している?」 悪戯っぽく笑う和子ねえちゃんに、あたいはさっきの女の人の事を聞く為に、口を開きかけた。 けど、あたいの口からは声が出なかった。 だって、勝手に見ちゃったのがバレちゃうだろ? そんな卑怯な真似をする奴だと思われるのが嫌だった。 「……まあね」 「あら、元気ないじゃない。どうしたの?」 眉根を寄せ、箸を置いた和子ねえちゃんは、あたいの持っていた黄色いチューリップに目を留めたようだ。 「悠理ちゃんに、その花は似合わないわよ?」 「どうして?さっき、野梨子にも言われた」 「だって、黄色いチューリップの花言葉って、『実らぬ恋』っていうんだもの。ラブラブな貴方達には似合わないわ」 『実らぬ恋』か。 不意に可憐の言葉が思い出された。 ―――初恋は実らないものよ。 ううん、そんなの迷信だ。 だって、あたいの初恋はちゃんと実ったじゃないか…… 「どうしたの?気にしちゃった?」 怪訝そうな顔をする和子ねえちゃんに、あたいは顔を上げて精一杯笑った。 だって、今は意識しないと笑えないんだ。 「和子ねえちゃんはどうだったんだ?初恋」 すると、和子ねえちゃんは寂しそうに笑った。 「……そうね、花言葉のとおりかな?」 「やっぱ、だめだったの?」 今まで明るく喋っていた和子ねえちゃんだったのに、急に寂しそうな目をして、遠くを見つめながら言った。 「色んな男に言い寄ったりされて付き合ったことあったけど、あたしが初めて本気で好きになった人は……あたしの親友が好きだったの」 あたいはびっくりして目をまん丸に見開いた。 和子ねえちゃんほど美人で頭が良くても、男に振られるんだ。 そいつ、よっぽど女を見る目がないよな。 あたいは、そう言葉にしようとしたのだが、和子ねえちゃんに先を越されてしまった。 「ほら、あたしって押せ押せタイプでしょ?好きだって思ったら、もう後先考えず彼に向かって一直線だった。私から告白して、彼からOKもらって、そして付き合うようになったの」 まるであたいみたいだ。 あたいもそうだったもんな。 清四郎が好きで好きでたまらなくって。 我慢できなくってコクったんだよな。 そしてOKをもらって付き合っているわけだけどさ。 「あたしと彼はデートするようになって、幸せだったわ。もうこれ以上にない幸せで、毎日が楽しくっ仕方なかった。そして、あたしは彼を親友に紹介したの。彼女も彼と馬が合って、今度は三人で遊ぶようになった。彼とあたしとあたしの親友。そして、よくある話よ。彼の気持ちがあたしから彼女に移っていったの」 和子さんはクスリと笑って肩を竦めた。 あたいは不思議だった。 どうして和子ねえちゃんは笑っていられるのだろう? あたいなら二人とも許せないし、許そうとも思わない。 だって、二人して和子ねえちゃんを裏切っていたんだろ? なのに、何で笑っていられる? どうして? 「彼の気持ちが徐々に離れて行くことに、あたしも気が付いたわ。そして、彼の目が咲子へと向いていることにも。あたしは、彼の気持ちを取り戻すのに必死だった。咲子とは表面上仲良くしながらも、彼女の目の前で業と当て擦ったりして、今思うと相当嫌な女よね?」 「ううん、仕方ないよ。あたいだって同じ事するかもしれないもん。想う気持ちって、そう簡単に諦めきれないもんな。好きだって思えば思うほどさ」 そうね、と和子ねえちゃんはあたいに向かって微笑んだ。 「あたしの親友は……咲子っていうんだけどね、頑張ったの。彼を寄せ付けない為に、必死で頑張ってくれたわ。自分だって彼の事が好きだったのに」 和子ねえちゃんの声がほんの少し震えた。 まだまだ、その人の事が好きなのかな? だから辛いのかな? 聞かないほうが良かったのかもしれないけど、ここまで聞いたら最後まで話した方がすっきりするに決まってる。 そうだよな、和子ねえちゃん? 「それで、どうなったの?」 「ある日、あたしはお互いが想い合っていることを知ったわ。邪魔だったのはあたしだったってわけ。その時はショックで自分でも信じられないことをしたけど……でもね、彼は大好きだったけど、同じ位咲子も好きだったの。だから……あたしは彼と別れたわ。だって、二人には幸せになってもらいたかったから」 頬杖を付きながら、和子ねえちゃんは自分の恋を話してくれた。 こんな風に話せるまで、いっぱい時間がかかったんだろうな。 事も無げに話してくれたけどさ、いっぱい泣いたし、いっぱい傷ついたんだと思う。 ましてや、相手は親友だったんだ。 「じゃ、その咲子さんて人も今は幸せなんだ。っていうか、和子ねえちゃんを泣かせたんだから、幸せになってないと許さないぞ!」 あたいは、写真のことも忘れ、右の拳を突き出してパンチをする真似をした。 ビシビシと拳を繰り出すあたいを見ながら、和子ねえちゃんはクスクス笑っている。 「有難う。悠理ちゃんは本当に可愛いわね。やっぱり似てるわ、咲子に」 「えっ?」 和子ねえちゃんは目に浮かんだ涙をふき取りながら、こう言った。 「咲子も悠理ちゃんみたいに真っ直ぐだったの。いつも笑ってふざけてばかりいて。清四郎なんかいつもオモチャにされていたもの」 「えっ、清四郎が?」 あたいは腕を突き出したまま、まるで金縛りに遭ったように動けなくなった。 不意に思い出された、引き出しの中の写真。 知らない男の人と寄り添う和子ねえちゃん。 そして、今より幼い清四郎が背中まで髪を伸ばした綺麗な女の人に、頭をぐしゃぐしゃにされていたっけ。 あの綺麗な人が、和子ねえちゃんの親友で咲子さん? 清四郎が写真を持っていた……人? あたいの頭の中で、二つの疑問がぐるぐると渦巻いた。 「和子ねえちゃん、それって何時の話?」 「あたしが大学一年生の頃よ」 ということは、清四郎は中学三年、あの写真の頃だと思う。 あたいは写真の人が咲子さんだと確信した。 みんなは清四郎のこと情緒障害者だの、本気で女とは付き合えない、なんて言ってたけど。 恋……してたんだ、あいつ。 今、咲子さんはどうしてるんだろう? まだ独身で、この家にも時々遊びに来ている、なんてことになっているなんて言わないで欲しい。 あたいは、ドキドキする心臓を無理矢理押さえつけ、思い切って口を開いた。 「咲子さんは、今何しているの?その彼と幸せにしている?」 そして、和子ねえちゃんの口から出た答えは、思いもしないものだった。 「咲子は……死んだわ」 「えっ?」 呆然とするあたいの耳に、和子ねえちゃんの言葉が入ってきた。 「五年前、彼は大学を辞めて北海道の実家の牧場を継ぐ事にしたの。彼のお父さんが倒れちゃって。それを咲子が追いかけていったんだけど、その飛行機が……事故に遭ったの」 咲子さんが死んでいた? 清四郎が写真を取っておくほど好きだった人が? それって……酷すぎるよな。 一番輝いている時のまんま、ずっといるなんてさ。 清四郎の中では、あの写真のとおり、輝いて、笑って、綺麗なまんまの咲子さんなんだ。 そんなのって、あんまりだ…… そして、何かがあたいの中で引っ掛かった。 ちょっと待って。 五年前に死んでいて、あの写真の女の人、キュードーのカッコしてた…… もしかして、五年前に亡くなったじっちゃんの孫って、咲子さん? 清四郎は月命日の日に必ず弓を引いていたって言ってた。 それも、ついこの間まで。 それって、咲子さんを、ずっと忘れられなかったってこと? それほど好きっだったってこと? 「ごめんなさい、なんだか辛気臭くなっちゃったわね」 和子ねえちゃんが業とおどけた様に声を上げた。 ただ突っ立って固まっていたあたいに、和子ねえちゃんが手元を指差した。 はっと、自分の手元を見ると、あたいはチューリップと空のグラスを握り締めていた。 「聞いてもいい?」 「なあに?」 水道の蛇口を押し上げ、あたいは水を注ぎながら胸に渦巻いている疑問の中の一つを、口にしてみた。 「その彼と、また付き合うって思わなかった?」 「無理よ。あたしより咲子を選んだ人よ?それに……」 和子ねえちゃんは声を詰まらせながらも、こう言った。 「咲子には……勝てないもの」 和子ねえちゃんが、まるであたいの気持ちを言葉にしたような気がした。 そうだよな。 死んだ人には勝てないよ。 作品一覧 |