やがて、バタバタと足音がして、野梨子が飛び込んで来た。 「悠理!」 あたいを見た野梨子が、大きな目を一段と大きく開いて叫んだ。 「可憐、急いで和子さんを呼んで!私は止血をしますから!!」 「わかった!」 可憐が背を向けて、走って行った。 野梨子がタンスからタオルを引っ張り出して、腕の付け根をギュッと縛る。 相当に力を入れているようで、野梨子の眉間に深く皺が寄っていた。 あたいは、されるがまま、ただ縛り上げる野梨子の手をじっと見つめていた。 どこからそんな力が湧いてくるのだろうか? 白く折れそうなほど華奢な腕が絞める力は、想像していたよりも強く、あたいは思わず顔を顰めた。 けど、野梨子はお構いなしに、乱暴に言った。 「悠理、心臓より高く上げて!」 その口調が野梨子の怒りを表していた。 あたいは、腕を持ち上げたまま素直に謝った。 「ごめんな、野梨子。迷惑かけちまってさ」 手を止め、顔を上げた野梨子の目には涙が浮かんでいた。 「悠理、どうしてこんなことを?」 野梨子の突き刺すような視線に耐えられなくって、あたいは視線を逸らせた。 「あたい、バカだからさ……後悔してる」 お前の言いたいこと、解ってるよ。 あたいだって、バカなことをしたと思っている。 けどさ、あん時は、それしか考えられなかったんだ。 死ねば一番になれるかも。 二番じゃなくって、一番に。 「じゃ、もうこんなことはなさいませんわね?」 「ああ」 あたいは目を閉じたまま、そう返事をした。 あたいと野梨子は黙ったまま並んで座っていた。 野梨子も何も言わない。 あたいも何も言わない。 何も言わない分だけ、あたいは考えてしまう。 清四郎が知ったら、何て言うだろう。 怒られるだけならまだいい。 叱られて当然のことをしたんだから。 けど、嫌われたりしたら――― あたいはどうやって生きていけばいいんだろう。 「野梨子」 「何ですの?悠理」 「……清四郎には言わないでくれるか?」 野梨子は意味ありげにあたいをじっと見つめていたけど、小さく息を吐いた後、こくんと頷いた。 「解りましたわ」 これ以上考えるのを止めたくて、あたいは言葉を探した。 そして、机の上にあった箱のことで謝らなければいけなかったことを思い出した。 「ごめん。お前の机、汚しちゃった。それに、あの箱、魅録にやるんだったろ?」 「そんなこと、気にしないで下さいな。そんなものより、悠理の方が大事ですわ」 ようやく緊張を解いたらしい野梨子が、ふわりと笑った。 ありがとな、野梨子。 何も聞かずにそばにいてくれるだけで、あたいは嬉しいんだ。 それに、可憐。 泣きそうな顔をしてたのに、すぐ和子ねえちゃんを呼びに行ってくれてさ。 二人がいてくれて良かったよ。 バカなあたいに一生懸命になってくれてさ。 あたい……うれしいよ。 そんな二人の優しさが、まるで暖かな毛布に包まれているように感じられ、その心地よさにあたいは目を閉じた。 「悠理!悠理!」 野梨子が何度もあたいの名前を呼んでいたけど、次第に眠くなってきたあたいは返事をするのも億劫だった。 そういえば、最近眠れなかったし。 「野梨子、眠らせて……」 あたいはそれだけ言うと、眠りへと落ちていった。 あたいが目を開けると、そこは柔らかな日差しが注ぎ込む白い壁の病室だった。 和子ねえちゃんが手配してくれたのだろうか。 部屋の中はあたい一人きりだった。 あたいは何も考えずに、ぽたりぽたりと落ちる点滴の透明な液体を見つめていた。 左手を持ち上げて見ると、手首には真っ白な包帯が巻かれていた。 それはまるで自分の馬鹿な行為を突きつけられているようで。 あたいは逃れるように手を下ろし、顔を背けた。 何も考えたくなかった。 頭を空っぽにしてみようと頑張ってみた。 でも、考えないようにすることは、考えているのと同じ訳で…… カチャリと部屋のドアが開いた。 「悠理ちゃん、目が覚めた?」 声で誰だか解ったあたいは、入ってきた和子ねえちゃんの方へと頭を動かした。 「左手首、七針縫合したわ。本当は帰ってもいいんだけど、今日一日、ここでゆっくり休みなさい」 「入院ってこと?」 あたいが不安そうに聞くと、和子ねえちゃんはにっこりと笑った。 「そんな大げさなものではないわ。悠理ちゃん、最近寝てないし、食べてないでしょ?すごい顔してるわよ?貴方に一番必要なのは、睡眠と栄養を取ること。解った?」 呆れられ、見放されても仕方ないと思っていたのに、和子ねえちゃんは優しかった。 野梨子も、可憐も、和子ねえちゃんもみんなあったかくって、あたいは涙が止まらなかった。 「うん」 「ほら、泣かないの!悠理ちゃんだって、後悔してるんでしょ?」 あたいは声にならなくって、黙ったまま何度も頷いた。 「だったら、あたしが言うことなんて何も無いわ。どうせ、あの唐変木のバカ弟が悠理ちゃんをここまで追い込むようなことをしたんでしょ?」 「ううん、清四郎は悪くないよ。あたいが悪いんだ。あたいがバカだからさ……」 「悠理ちゃんは本当に清四郎が好きなのね。あいつにはもったいないくらいよ」 あたいは泣きながら笑っていた。 「和子ねえちゃん、お願いがあるんだけど……」 「なあに?」 「あの、清四郎にはこのこと……」 和子ねえちゃんはカルテから目を離し、持っていたボールペンを口元に当て、まるで大丈夫とでも言うように、大きく頷いた。 「勿論言ってないわ。野梨子ちゃんにも、悠理ちゃんの家に今日は泊まりだって電話するように言っておいたし。お家の人にも心配かけたくないでしょ?」 あたいはこくんと頷いた。 「手首の包帯はしばらく外せないけど、硝子で切ったって言っておきなさいね」 「ありがとう、和子ねえちゃん」 「何言ってんの!悠理ちゃんは近い将来菊正宗家の一員になるんだし、あたしの義理の妹になるんだから、親身になるのも当たり前でしょ?」 悪戯っぽく笑う和子ねえちゃんの優しさが、あたいには心から染みていった。 夕方、何もすることないあたいは、窓の外からぼうっと夕日を眺めていた。 高級住宅街にある菊正宗病院の窓からは、7階という高さでも、綺麗な夕日が見える。 そんな真っ赤な空が、流れ出る自分の血を思い出させた。 出来れば時間を戻したい。 自分のやったことを消しゴムでゴシゴシと消したかった。 初めてかもしれない、こんなに後悔した事。 やっちまったことはしかたないじゃん。 後悔するくらいなら、最初からやらなきゃいいんだよ。 いつも、そう思っていたんだ。 けど、そんな簡単な言葉じゃ片付かない時があるって、初めて知った。 コンコン。 ノックの音で、あたいは我に返った。 カチャリと開けられたドアから、ベテランらしいおばちゃん看護婦さんがするりとはいってきた。 その後にも色んな物を載せたワゴンを押した若い看護婦さんが付いてくる。 「気分はどうですか?」 「ガーゼを変えるわね」 若い看護婦さんが点滴を外し、おばちゃん看護婦さんがそう言って包帯とガーゼを外した時だった。 バンッ、とドアが開いて誰かが入って来た。 「悠理!」 清四郎だった。 「その傷は……」 おばちゃん看護婦さんが、身体で清四郎の視線を遮ってくれた。 「あら、清四郎君。お友達なの?硝子で切ったんですって。大変だったわよねぇ」 けど、清四郎は固まったまま険しい顔をしていた。 あたいは、清四郎が手首の傷を見たことを知った。 おばちゃん看護婦さんが手際よく処置してくれていた間も、清四郎は病室を出ようとしなかった。 息苦しいくらいに沈黙が続き、おばちゃん看護婦さんは清四郎に、無理させないようにね、と声を掛けると、若い看護婦さんを連れて出て行った。 バタン、とドアが閉まっても、あたい達はしばらく黙っていた。 居心地の悪い沈黙に、我慢できなくなったあたいが口を開きかけた時、清四郎が動いた。 コツコツと足音を立て、ゆっくりと近づいてくる。 口を閉じ、あたいは、ゴクリと息を飲んだ。 枕元に立ち、じっと見つめる清四郎の視線が痛くて、あたいは思わず視線を逸らした。 「悠理、硝子で切ったというのは本当ですか?」 一瞬息が詰まった。 やっぱり清四郎は見たんだ、この傷。 看護婦さんの言葉さえも信じていない。 あたいは清四郎を騙し通せるだろうか? 「う、うん。看護婦さんだってそう言っただろ?」 「悠理、僕の目を見て言って下さい。本当に硝子で切ったんですか?」 逃げられない、と思ったあたいは、視線を清四郎へと戻した。 清四郎も、まだあたいを見続けている。 まるで、本当のことを言ってくれ、と誘っているように。 そんな真っ直ぐな目を向けられ、あたいは嘘を突き通す自信が無くなってしまった。 それに、今までついたあたいの嘘は、百パーセント清四郎にはばれていたから。 「あ、あたい……」 次の言葉が出てこなかった。 口を一生懸命開けるんだけど、声も出てくれない。 ものすごく怖くて、声の代わりに―――涙が出た。 ぎゅっと下唇を噛み、涙をぽろぽろと零すあたいの代わりに、清四郎が言葉にした。 「自分で切ったんですか?」 「……うん」 俯いたまま、やっと唸るように搾り出した声は、たった二文字だけ。 それでも、清四郎の顔色を変えるには充分な二文字だった。 「理由を聞かせて下さい」 清四郎の声が強張っていた。 こんな声、今まで聞いたことがない。 それほど、清四郎の怒りが大きかったのかも知れない。 怖かった。 怖くて逃げ出してしまいたかった。 それでも、大好きな清四郎に嫌われたくなくって、あたいは精一杯抵抗した。 「いやだ!お前、あたいを嫌いになるもん!」 ぎゅっと力を込めてシーツを握り締めていた手を、清四郎はそっと重ねた。 「悠理、僕を見てください」 あたいは、ずっと下を向いていた顔をゆっくりと上げた。 何時もと変わらない清四郎がいた。 その顔には悲しみがいっぱい広がっていたけど、その目は真剣そのものだった。 「嫌いになったりしませんから、絶対に」 そんな清四郎の言葉が、堰き止めていたあたいの気持ちの何かを外し、自然と言葉が出ていた。 「あたい、清四郎の一番になりたかった。咲子さんみたいに、死んだら一番になるかな……って」 「悠理……」 清四郎がぎゅっとあたいの手を握り締めた。 「二度と、二度とこんなことをしないと約束して下さい。僕はもう大切な人を失いたくありません」 清四郎の叫ぶような声にあたいは何も言えなかった。 けど、本当は聞きたかった。 やっぱり大切な人だったんだ、咲子さんは。 作品一覧 |