どすん、と大きな音が響いた。 屋敷の裏庭から聞こえた。 西の都で天から巨大な岩の塊が突然降ってきた、との噂を数ヶ月前に聞いた。 民は恐れ慄き、帝は逃げ腰、挙句に怪しげな陰陽道の使い手に政の一切を任せきりとか。 「国が滅びる前兆ですか……」 片手に刀を持ち、全身の気を集中させ音の聞こえた方角へ、一歩一歩慎重に歩みを進める。 風一つ吹かぬ蒸し暑い晩。 突如、首筋を吹き抜けた生温かい風に、ぞくり、と背筋が震えた。 まったく…。 今どき幽霊ですか。 生憎ですが生まれてこのかた一度として、物の怪の類には出くわしたことがないんですよ。 「いってぇ…」 若い娘の声。 清四郎は大きく眼を見開いた。 視線の先には想像していた物の怪はおらず、代りに年頃の娘が一人。 今はすっかり散ってしまった桜の樹の根元に、蹲っている。 どうやら怪我をしているようだ。 薄い着物のあちこちが破け、腕や脚などには細かな擦り傷が目立つ。 白い肌からは、紅い血が滲み出ている。 どうやら、少しばかり深手を負ったらしい。 きっと落ちてきたときに、木の枝にでも引っ掛けたのだろう。 しかしその鮮血は、かえって娘の肌の白さを強調してみせている。 「怪我をしているようですね。僕に見せてごらんなさい」 ふいに頭上から聞こえた声に、娘が眼を見開いた。 こんな夜更けに人に出くわすとは思わなかった、といわんばかりに。 「お前は?」 「僕はこの屋敷の長男、菊正宗 清四郎というものです」 「…っ」 苦痛に歪む顔。 男は徐に傷口を口に含むと、思い切り吸いあげたのだ。 「我慢してください。傷口に入り込んだ異物を取り除かないと」 「お、おう」 怖いものみたさに、ちらりと視線を向けると、男は己の着物の袖を引き千切り、傷口を手際よく縛り上げていた。 「これで出血はじきに止まるでしょう。他に痛いところはありませんか?」 「あっ、ああ。もう平気だ。有難う」 鮮やかな手並み、物怖じしない男の態度に娘の頬が仄紅く染まった。 「あなたの名は?」 「あたしは、悠理」 「悠理。良い名です。ではあなたに質問が有ります。答えてくれますね?」 真剣な眼差し。 おそるおそる首を縦に振った。 一体何を問おうというのか。 「あなたは天から落ちてきたのですか?」 「そうだ」 「ではあなたは、俗に言う、物の怪や霊の類か何かですか?」 真撃な眼差しからは想像もつかない問いに笑いが込み上げた。 耐え切れずに、腹を抱えて笑い出すこと五分間。 これには流石の清四郎も勘に触った。 「いい加減もう笑うのは止めてください」 「だって、だってぇ…ギャハハハハッ」 まだ笑い続けている。 「もういいです。怪我の手当ても済んだことですし、僕は屋敷に帰ります」 臍を曲げた清四郎を引き止めるように、悠理は男の腕を掴んだ。 「ごめん、だってあんまりお前が面白いこというから」 「じゃあ説明してくれるんですね。何故天から降ってきたのか」 「ああ、ちゃんと説明する。あたしは天女だ」 一瞬の沈黙。 この娘が天女? まさか、そんなはずはない。 都の絵師が描く天女の姿絵や、像はもっとしなやかで。 そう、お隣の野梨子のような少女ならば、まだ話はわかる。 きっと担がれているのだ。 清四郎は首を左右に振ると、細くため息をはいた。 「あ、お前のその顔、信じてないだろう」 悠理が忌々しげに、低く言った。 それもそのはず。 天女として生まれてから、天界の仲間からも天女らしくない、と散々言われ続けてきた。 地上に降りてきた理由も、そのことが原因なのだ。 「あなたのようなお転婆な娘さんを天女と信じろと?」 図星をつかれた。 何も言い返すことが出来ない。 「それでも、天女だもん」 ぎゅっ、と着物の袂を握り締め俯いたまま小さく呟いた。 とくん、と清四郎の心臓が小さく乱される。 同時に、この娘を傷付けてしまった浅はかな言動に酷く腹が立った。 仮にも年頃の娘に対し、なんと酷いことを言ってしまったのか。 「すみません。あなたを傷付けるつもりじゃなかったんです」 心底済まなそうなその顔。 「あ、あたしも悪かったから。それにお転婆なのは本当のことだしな」 見たこともないような眩しい笑顔だった。 夜空に輝く星よりも明るい笑み。 これでお相子だよ、と……。 それが二人の初めての出会いだった。 今よりも五百年もの昔の古い物語。 人間の男と天界に住まう天女の禁じられた恋の物語。 次に生まれてくるときは、二人一緒になろう、と誓った。 誰に憚ることなく、愛を語り合おう、と。 ささやかな願いだった。 本当にささやかな……。 そして五百年の歳月を経て、再びめぐり会った。 死して生まれ変わるまでの、気の遠くなるような長い時の流れの中で不安がなかった、といえば嘘になる。 けれど信じていた。 必ず見つけ出す、と。 見つけてくれる、と。 この青く美しい水の都、六十億万分の一の相手。 たった一人の人に出会う為だけに我は生まれたのだと。 「せっかく僕たちがまた出会えたというのに、いきなり殴ってくれましたよねぇ。幼稚舎の入園式の日に」 すこし責めた口調。 けれど全く責めているようにはみえない。 柔らかな薄茶の猫毛に指先を絡ませ、その毛束に口付けを落とし囁く。 愛してる、と。 そのあまい響き……。 「だって、お前が野梨子の後ろに隠れてたから……」 「おや、やきもち妬いてくれてたんですか?」 そんなんじゃない、と髪をいじる指を捕えようとして逆に囚われた。 指先をあまく噛まれて、小さな吐息が零れる。 この男にはかなわない。 今も昔もそれだけは変らない。 ただ一つ変ったこと、それは同じ青色の水の都に生まれた。 同じ一人の人間として。 嘗て狂おしいほどに願った。 祈ったささやかな願い。 もう二度と人目を偲び、神を欺きながらの逢瀬を重ねる必要はないのだ、と実感した夜、喜びに大きく胸が震えた。 これ以上の幸福は有り得ない、と思うほど。 「あたし、思うんだ。きっとこの幸せは大昔にあたし達を苛めた神様が、お詫びに与えてくれたんだって」 「そうですね。なら神様の期待にこたえて、世界中で一番幸せな二人にならないと」 仄紅く染まった目元に唇をのせ、呟いた。 絡みつく白い腕を引き寄せ、きつく抱きしめ一つ融けあった。 あれから五百年後の物語。 それはまだ始まったばかり。 永遠に続く二人のハッピーエンドの恋物語。
悲恋→はっぴーえんど、の展開と古い時代の物語が好きなので悠理くんを天女さん。 清四郎を人間の男にし、パラレル展開にしました。 途中の悲恋物語は、お得意の縮小?カット攻撃で飛ばし、結末のハッピーエンドで〆てますvV お世話になり&尊敬するフロさまへ、遅くなったけど、200,000HITのお祝いとして捧げます☆=
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