『好きだなんて声に出したらこの空気がひび割れるかも』

  BY 流里緒様



   
パン、と軽く手を叩く音がして悠理は我に返る。
「ほら悠理、手が止まってますよ」
シャーペンを握り締めて清四郎オリジナルの問題集を凝視したまま、ほぼ意識を失っている悠理の目を覚ますために、清四郎が悠理の鼻先で手を叩いたのだった。
清四郎は例によって例の如く、悠理の試験勉強を見ているわけだが、丸覚えでなんとかなりそうなものからやってなんとかあと1教科となった。(ちなみに悠理の家ではまともに教科書もノートも揃っていないので清四郎の家でだ。)しかしその最後の1教科、数学が大きな壁となって立ちはだかっている。
「もう疲れたよぉ〜。ちょっと休ませてくれよー」
くたりと問題集の上に突っ伏して悠理が泣き言を言った。
「疲れたって、再開してからまだ15分しか経ってませんよ。大体どこまでできたんです?」
「わわ……っ」
下敷きになった憐れなオリジナル問題集を抜き取ると悠理が慌てて取り返そうとする。それをひょいと軽く避けて問題集を見ると、1問目の途中からニコちゃんマークだのドラえもんだのアンパンマンだのが描かれていた。
「あ、あの〜……えへ」
さすがにマズイと思ったのか、悠理が上目遣いに愛想笑いを浮かべる。
「えへ、じゃない!」
清四郎は本日何度目かになる怒鳴り声を上げたあと、まったくもって教え甲斐の無い有様にこめかみを押さえた。
「図画工作の時間じゃないことくらい解ってますよね」
それでなくとも先程から喉が渇いただの、トイレに行きたいだのと言って試験勉強は少しも先へ進まない。
「悠理。ちょっとそこへ座りなさい」
清四郎は大きな溜め息をつくと、居ずまいを正して自分の前を指差す。
「はい……」
今逆らうと大変なことになると悟ったのか、悠理は恐る恐る清四郎の前に正座した。
「悠理だって、補習は嫌でしょう」
「そりゃそうだけど……」
唇を尖らせて不満気に漏らす悠理の表情はまるっきり子供のようで、清四郎はまるで自分が小さな子供を苛めているような気がしてくる。
しかしそうも言っていられない。期末テストは明日だ。しかも昨日もほぼ徹夜だった上に本日はとっくに0時を回っているのでこの後はもうほとんど勉強にならないだろう。
それにしても曲りなりにも女の子が同い年の男の家にこんな時間まで居るなど普通は許されるものではないが、悠理自身もさることながら周囲にもそんな色っぽい心配は全くされていない。周囲はともかく、悠理自身に何の警戒もされていないのは清四郎にとっては複雑だった。
試験勉強の間は学校から帰るとほとんどの時間を清四郎の家で過ごす。もちろん試験勉強が目的なのだから、部屋で二人っきりだといっても色気も素っ気もないのだが、清四郎の家族に混じってご飯を食べ、食後のひとときを過ごし、あまつさえ風呂にまで入り、呑気な母に「悠理ちゃんもう遅いから泊まったら」と言われ無邪気に「じゃ、そうする!」などという会話が交わされた日には、一体誰が自分を試しているのかと確かめたくなる。
挙句の果てに来客用の布団が自分の部屋に運び込まれているのもちょっとどうかと思う。……思うが別の部屋にするのが普通でしょうが、なんて言うと、では悠理を普通に女として意識しているのかと突っ込まれそうで言うに言えない。
疚しい気持ちがあるだけに。
素直に認めてしまうと今や清四郎にとって悠理は充分女に見えていた。
もともと顔は超がつくほどの美人だし、性格も見ようによっては充分可愛い。大食いで喧嘩が強くて口が悪くてがさつなので、目に見えて女の子らしくはないが、あの家で大事にされ、愛されて育っただけに実は甘え上手だ。何か困ったことがあったとき、潤んだ目で「せいしろ〜」と泣きつかれると、どうにかしてやらなければ、という気にさせられてしまう。例えその「困ったこと」が悠理自身が招いた事だとしても。周囲はいつも自分が悠理を苛めているように言うが、むしろ昔から悠理には甘いと思う。それも自分だけではなく、倶楽部の連中は皆そうだ。
何よりも、強いというのはやはり悠理の美点だろう。悠理は強くて優しいのだ。本当の意味で優しくあるためには強さもなくてはならない。あの両親に育てられただけあって、強さと率直さと、そこから生まれる優しさが悠理にはあった。
悠理のそういう部分を仲間内の誰もが大事にしているのは違いないが、だからといってこんなふうに愛しいという感情を抱いているのは自分だけであろう。 内面の美点を知っているからといって恋になるとは限らないのだ。
初めて悠理を意識したのはいつだったか。うたた寝の無防備な寝顔を見たときか、風呂上りの火照った肌を見たときか。それとも悠理共々何度も危ない目にあっているうちにだろうか。 定かではないが、そう最近のことでもない。ただ、いつからか自分が守ってやらなくては、と思うようになったのは確かだ。
いいやつだとは昔から思っていたが、よもやこんなふうに思うようになるとは考えもしなかった。女に見えた事などなかった悠理がソフトクリームをちろり、と舐めたりする姿に思わずどきりと してしまう時などは何か悪い病気ではないかと疑ってしまうほどである。
……ともかくそういったわけで最終的に皆が甘やかしてしまうからこんなふうに人がわざわざ時間を割いてやっている試験勉強の最中に落書きなんぞをしたりするのだろうか。
「せ、せーしろー?」
悠理が不安気に呼ぶ声にはっと我に返る。思考世界に翼をはばたかせているうちに結構な時間黙り込んでいたらしい。
「ああすみません、ちょっと考え事を。ともかく数学は最低でも平均点は取らないと夏休み補習になりますよ」
数学の教師は悠理を目の敵にしているから、恐らく1点でも平均点に届かなければ容赦なく補習になることが予想された。 平均点以下で補習とは厳しい条件だが、何しろ中間のみならず普段が悪過ぎるのもあって、悠理だけを補習にする正当な理由はいくらでもある。 この結果如何で夏休みを目一杯遊べるかどうかが決まってくるのだ。
「だってさぁ! ショウメイってわけわかんないじゃん!こんなのショウメイできなくても生きていけるよぉ!」
うわーん、と喚く悠理に困ったように天井を仰ぐと盛大な溜息を床に落として妥協案を出す。
「……仕方ないですねぇ。ではこの計算問題をひたすらやるんですね。ここで確実に点数を取れば補習は免れるだけの点数は稼げるかもしれない」
「ほんと!?」
清四郎の言葉にそれならなんとか、と悠理の目がきらきらと輝いた。
「けどせめてそれ以外の文章問題をいくつかやってくださいね。でないと危ない」
「えー」
この後に及んでまだ唇を尖らせる悠理に、これ以上は妥協できないとばかりに問題集の中からいくつか丸をつけて、悠理の目の前に置く。
「このパターンの問題は絶対出ますから。これだけできれば絶対大丈夫です」
「……その前にちょっとお茶でも飲まない?」
えへ、ととりあえず悠理は笑ってみた。が。
「……つべこべ言わずにさっさとやる!」
かくして悠理はとうとうぶち切れた清四郎に鬼の形相で見張られることになったのであった。
しかし。
なにぶん夜も更け、悠理の為のオリジナル問題集作りやら家庭教師やらで徹夜続き。なかなか進まない悠理の勉強を見ているだけでは睡魔が襲ってくるのも無理はない。 いつのまにか目が閉じてゆく。
「清四郎? 寝たのか?」
悠理の声を聞いて、目を開けようと思うのだが瞼は重い。
「ねてません。めをとじているだけですからちゃんとやりなさい」
そうは言ったものの、意思に反してどんどん気が遠くなる。

「……ごめんな。ありがと」

遠のく意識の中で、悠理の消え入りそうな小さな声を聞いた。


「しまった!」
翌朝慌てて起きてみると、隣で悠理が机に突っ伏したまま眠っていた。時間はまだ早い。悠理を起こして少しでも問題をやらせようかと迷ったが、さすがに可哀相で止めた。 もし補習になったら付き合ってやればいい。そう思って。
悠理のために母が用意した薄い上掛けをかけてやろうとしてそれが自分の肩にかかっていたことに気付く。
ふと机を見ると、問題集がきちんと閉じて置いてあった。開いてみると、清四郎が丸をつけた問題は全てやってある。
「まったく。やればできるのにやらないんですから」
清四郎はひとりごちると、悠理の柔らかそうな髪を軽く梳いた。
悠理は起きる気配もない。
まるで安心しきった寝顔を見て、性懲りもなく可愛いなどと思ってしまう。
「まぁ、そのうち……ね」
呟くと、もうしばらくこの穏やかな空気を味わっていようと自分も眼を閉じた。






END



 

流里緒様から、かわゆいお話を頂きましたv タイトルだけで、清四郎くんの心情を切なく思い浮かべてしまいます。清×悠が一歩踏み出せない のは、現状でかなり幸せなところでしょうか。”この関係を壊したくない”という思いが痛いほど伝わってきます。

ちなみに『好きだなんて声に出したらこの空気がひび割れるかも』は Kinki kidsの『ボクの背中には羽がある』(だったかな・汗)の歌詞から とりました。曲調のイメージとは全然関係ないんですけど(笑)

とは、流里緒様からのコメント。
これからゆっくりと進むふたりの関係も見てみたいな〜〜というのは、どこまでも欲張りな管理人とひとり言です。流里緒様、ありがとうございますvv

 

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