愛の証





〜1〜



今日も帰りは何時になるのかわからない。
清四郎は、溜息をつきながら剣菱商事の廊下を歩いていた。
分厚い書類を脇に挟むと、会議中チェックすることのできなかった携帯電話を、スーツのポケットから取り出す。
着信2件、魅録と悠理。メールをチェックすると『悠理』と入っていた。
歩きながらボタンを押し、内容を確認する。
『夕方から魅録と遊んでくる。今日も帰り遅いんだろ?あたいも飯食って帰るから遅くなる。心配すんな』
新妻のメールにしては「他の男と遊んでくる、心配するな」とは随分な内容だが、清四郎は慣れたもので、小さく笑うとすぐに携帯を閉じて秘書室へと小走りで向かった。
バサっと書類を放り投げると、時間を確認する。
夕方の4時だ。魅録の着暦を確認すると、ちょうど10分前に入っている。
すぐにかけ直した。数回の呼び出し音で魅録が出る。

『よお!早いじゃねーか』
「すみませんでしたね。ちょうど会議中で」
『今日も忙しそうだな。出かける前に捕まって良かったぜ』
「ええ。いいタイミングでした。さっき悠理からメールが入ってましたよ。いつもすみませんね」
『まあ、俺も久しぶりに飛ばしたい気分だったから気にすんなって。あいつ夜景見たいなんて言ってたからな。これから横浜まで、一走りしてくる。その後飯食って、2・3軒店をうろついて、いつもの所にいるよ。また電話する』
「わかりました。あいつをよろしく頼みます。くれぐれも・・・」
清四郎の言葉は、途中で魅録に遮られた。

『わかってるって。無茶はさせねーから心配すんな』
魅録の明るい声が聞こえた。
それで、清四郎は言おうとした続きの言葉を飲み込む。
「ええ、信用してますよ。よろしくお願いします。後でまた電話を下さい」
と答えた。
魅録はいつものように、「大丈夫だ」と安心させるようにゆっくりと発音すると、電話を切った。
この数ヶ月、何度か繰り返されている二人の会話だ。


清四郎は、魅録の電話を切るとすぐに悠理に電話を入れた。楽しそうな声が返ってくる。
『仕事、ひと段落ついたのか?』
「ええ。今会議が終わったところです。で、どこへ行くんです?」
清四郎は、魅録と話したことは敢えて告げずにそう聞いた。
悠理がどう答えてくるのかは、わかっている。

―――秘密

『秘密。帰ったら話す楽しみなくなんだろ?』
悠理は、イラズラっ子のように笑いながら答えた。
『じゃな。ちゃんと飯食えよ。それから“心配”すんな』
心配するな、その言葉に悠理の精一杯こめた思いを感じる。
だが、清四郎はそれを気にしていない素振をして、揶揄するように言った。
「毎回、いい子で帰ってきたら心配しないで済むんですけどね」

電話の向こうで、悠理が不貞腐れて頬を膨らませている姿が目に浮かぶ。
『うるさい。子ども扱いすんな』
予想通りの反応。その顔を思うだけで、自然と笑みがこぼれた。
「ほらほら、もう準備しないと魅録が迎えに来るでしょう。気をつけて行ってくるんですよ」
悠理はぶっとしているのか、しばらく黙っていたが、ポツリと声が聞こえた。
『たまには、お前も一緒に行こ・・・な』
そんな言葉に、清四郎の胸は疼く。
「ええ、その内ね」
悠理は『うん』と小さく呟くと、気持ちを切り替えるようにして元気よく言った。
『じゃな、行ってきます』
清四郎は、そのまま電話を切りそうになる悠理を呼び止める。
「悠理」
『なに?』
「愛しています」
『ば、馬鹿!何恥ずかしいこと言ってんだ』
その一言を最後に電話はプツっと切れた。
清四郎は真っ赤になっているであろう悠理を想像し、一人微笑むと電話を机の上に放り投げた。

そのまま、どっと椅子の背に倒れ込む。
いつの間にか、笑みは消えていた。

できることなら、片時も離れず自分がついていてやりたい。それが出来ぬなら、いっそ部屋に閉じ込めておきたいくらいだ。
何気ないやり取りの裏で、そんな風に思うくらい心配していた。
清四郎の気持ちを理解してくれているのか「後の楽しみだ」と言って詳しくは行き先を語ろうとしない悠理に変わって、魅録は出かける前にいつも電話をくれた。
どこへ行くのか、何時に迎えにいけばいいのかを知らせてくれる。
そんな友人の心遣いが有難い。
清四郎は、共に出かける相手を“魅録だからこそ”まかせていた。
一人では絶対に行かせない。
そう決意する出来事があった。2年ほど前に。

それは、悠理と結婚する前のことだった。



********




清四郎は大学院を卒業すると、剣菱に就職した。
以前、万作の名代を務めたことから、社内での清四郎の知名度は著しく高い。その上、経営者としての評価も高かったことから、入社後すぐに豊作の秘書となった。
肩書きは一応秘書であるが、実際には豊作の片腕として、重役クラスで仕事をしている。

清四郎の優秀で非の打ち所のない仕事ぶりは、入社後すぐに結果となって現れた。
彼が入社して以来、社の業績はうなぎ登りに伸びている。
しかし、以前と変わらぬドライな仕事の進め方で、社内外に多くの敵を作るようにもなっていた。
清四郎にしてみれば、業績の悪い分野が切られるのは仕方のないことだったのだが、生活のかかっている相手にしてみれば、はい、そうですかと簡単に引き下がれるものではなかった。
何度か、関連会社の人間が直談判に社を訪れていたが、清四郎は取り合わなかった。
「それは、相手が悪いのであって、自分が悪いわけではない。情に流されていては、実績をあげることなどできない」と割り切る清四郎。
「それではあまりにも」と豊作を始めとする周囲から窘められることはあったが、頑として譲らなかった。
事実、そのおかげで仕事は順調で、社の業績は伸び続けていたのだから。
だが、そんな中で膨らんでいった清四郎に対する恨みは、知らぬ間に思いもよらぬほど大きくなっていた。

そして、事件は起きた。

それは、当然といえば当然の成り行きだったと言える。
仕事では、隙のない清四郎。ましてや武道の達人でもある彼は、真っ向勝負をかけて、勝てる相手ではない。仕事を切られて倒産に追い込まれた関連会社の社長は、卑劣なやり方で復讐しようと考えた。清四郎の一番大切なものを奪ってやろうと。
そこで、目をつけられたのが悠理だったのだ。


「ここは生徒会室じゃないんだぞ」
悠理は親の会社の気安さからか、剣菱商事内の清四郎の部屋にいつも転がり込んでいた。
そして、仕事の邪魔をするでもなく、黙って横の椅子やソファに座り、時々出席する公式パーティーの予定表を見て、来客する人物をチェックしたりしていた。
そうしていると、仕事をしているように見えなくもないから笑える。
清四郎は書類を見るフリをしながら、悠理のその「らしい」姿を覗き見て、楽しんでいた。
「あたいも仕事」などと言っているが、ちゃっかりおやつも持ち込んでいるのだから、暇つぶしに他ならないことくらいお見通しだった。

「遊んでいるなら、珈琲くらい入れてくださいよ」
ある日そう言うと「遊んでねーよ」と憎まれ口をたたきながらも入れてくれた。
「意外にもおいしいじゃないですか」
と褒めると「意外には余計だ」と言いつつ、照れた顔をしていた。
その内、頼まなくてもコトリと机の上に珈琲の香りが立つようになった。
高校時代に使用していたような、小さなウサギのついたマグカップ。
いつの間にか、どこかで探してきたらしい。

仕事でのイライラも、疲れも、彼女が来ると癒された。
じゃれ合い、笑い合い、派手な喧嘩をしていると、学生にもどったような気分になった。

そんな清四郎と悠理の様子はすぐに話題となり、互いにその気は全くないのに「二人は結婚するかも」との噂が流れ始めていた。
清四郎と悠理が以前に婚約を破棄したことも、今は友人として付き合っているということも社内では周知も事実だったが、絶えず清四郎の傍にいる悠理を見て、今度こそ、と思われたらしい。
そしてそれは、ある日から社内の噂に留まらなくなった。

仕事のトラブルを抱え、清四郎が眉間に皺を寄せて難しい顔をしていると、
「おまえな、そんな顔してると人が怖がって引くだろ。そんなんで商売できるのかよ」
と悠理がわかったような口を利いてきた。
「うるさいですな。悠理みたいな万年遊んでる猿顔に言われたくないですね」
むっとした清四郎は、不機嫌に言い返す。
「バ、バカタレ!それじゃあたいと猿に失礼だろ」
「事実を言ったまでです」
「おまえなぁ。そういう態度だから、相当恨みかってるぞ。社内では変なこと起きないだろうけどな。気をつけた方がいいぞ。後ろから突然グサなんてな」
へへへと悠理は笑い、手で刺すマネをした。
こういう時は、ついいじめたくなる。
「悠理、ここから追い出されたいんですか?」
清四郎は、肩眉をピクリと上げると、腕をポキポキと鳴らし、悪魔の笑みを浮かべた。
この顔はまずい、と悠理に緊張が走る。
それは本能と言おうか、刷り込みと言おうか。
「うわ〜ん、清四郎ちゃん許して」胸元を掴みながらしがみついてきた。
昔から変わらない悠理の癖。
どうやり込めてやろうかと逡巡していた清四郎も、これには弱かった。
うんざりした顔を見せたかと思うと、やれやれと笑いながら、背中を叩く。

それは、離れたところから見れば、抱き合っているように見えたのだろう。
開け放していたドアから、社の取材に来ていた記者に写真を撮られた。

『剣菱財閥令嬢、近く結婚。お相手は長男の豊作氏を抜いて次期会長と噂される菊正宗氏』

芸能界でもあるまいに、一流企業のトップ、しかも美男美女ということで、その写真は“時のセレブ”と話題になった。社内の噂も相まって、尾ビレ背ビレの記事がつき、各経済紙の一面や週刊誌を数日間賑わせる始末だ。
「とんでもねー誤解だ」と悠理は笑い、清四郎も苦笑していたが、それが事件の引き金となってしまった。








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