〜1〜
優しく髪を撫でられ、悠理は重い瞼を擦りながらゆっくりと目を開ける。 「おはよう」 目の前数センチのところで、声が聞こえた。 「おはよ」 短い挨拶はすぐに塞がれる。大好きな唇に。 悠理は温もりが離れてもしばらく目を閉じてその余韻に浸っていたが、清四郎がYシャツを着て、ネクタイを締めていることに気づく。 「お前、どしたのそのカッコ?もう仕事?」 今日は、土曜日。 清四郎のネクタイを引っ張りながら、悠理は聞いた。本来なら休みのはず。 「先ほど社から電話がありましてね。緊急のトラブルらしいですから、ちょっと早めに顔を出して来ますよ」 と清四郎は言った。 「トラブルって、解決にどのくらいかかる?だって、今日は・・・」 不安そうに、不服そうに聞く悠理に、清四郎は微笑んだ。 ネクタイを引っ張る悠理の手を掴みながら「苦しいじゃないですか」と笑う。 「大丈夫ですよ。大したことはなさそうですから、午後には帰れます。約束の物もちゃんと買ってきますよ」 「ほんとだな?すっぽかしたら、一生口聞いてやんないからな。それから・・・・」 「わかってますって。ちゃんと悠理専用の花火と子供達に安全な花火を買ってきます」 それだけ言うと、清四郎は悠理の手を離して立ち上がった。 「じゃ、行ってきます」 ベッドサイドの椅子に掛けてあった上着を羽織る。 寝室のドアを開けたところで、清四郎は振り返って悠理を見た。 「悠理」 「なに?」 悠理は、ふらふらとベッドから起き上がって、清四郎を見る。 「トモリンが呼びに来る前にちゃんと服着て下さい。毎度毎度言いますけどね。たとえ女性のメイド言えど、素肌を晒すのは亭主の前だけにしてほしいですな」 それだけ言い残して、ドアを閉めた。 取り残された悠理は、思わず自分の体を見下ろした。 きっちりとスーツを着て出て行った清四郎に対し、何も纏っていない自分。 気づけば、ちらほらと赤い印。水着を着ればわからない場所にではあるが。 ふと昨夜の熱い出来事を思い出して、誰もいない部屋で一人赤面してしまった。 清四郎と結婚して5年。 悠理は、幸せな結婚生活を送っていた。 自然な妊娠は望めないかもと言われ、結婚をあきらめていた悠理だが、清四郎と結婚して、夫婦として子供を持つことだけが幸せじゃないと知った。 互いにいたわり合い、大好きな家族や友人に囲まれて暮らす。 そんな生活が、悠理に過分と言えるほどの満足感を与えてくれていた。 そして、今日もその友人達と夕方からバーベキューパーティーをする予定だった。 友人らと清四郎の姉・和子は、それぞれ子連れで来ることになっている。 それから、悠理がインストラクターを勤める水泳教室の生徒達も呼ぶことになっていた。 水泳教室のインストラクターは、野梨子に勧められて始めたものだ。 野梨子は、自分の子供は金槌にならないように、と娘が3歳になった頃から水泳教室に通わせていた。 そんなある日、結婚後も日々遊び歩いているだけの悠理に「リハビリも兼ねて見にいらっしゃらない?」と誘ってきたのだ。 野梨子に付き添っていった悠理は、遊んでいる間にたちまち子供達のアイドルとなり、教室を経営する夫人から「週何日かここで子供達に水泳を教えてみない?」と誘われた。 「悠理がインストラクターだなんて、ぴったりじゃありませんの」 過去に特訓をされた野梨子は言い、「是非お受けなさいませ」と笑った。 教室に通い始めてから、魅録に付き合ってもらって夜遊びをしていた頃より、悠理の生活は数段楽しくなった。 子供達は純粋で汚れがなく、同じく子供のような悠理を「先生」ではなく「悠理、悠理」と慕ってくれる。 そんな子供達が悠理は大好きだった。 今日は、そんな生徒達にも、夏休みの思い出としてバーベキューと花火を楽しませてあげようと、剣菱邸に招待している。 土曜も仕事に出かけるという清四郎に、自分好みの派手な花火と子供達も楽しめる安全な花火を買って帰るよう、頼んであった。 清四郎は、仕事から帰ると、五代に屋敷の様子を聞いた。 すぐに部屋に駆け上がって着替えを済ませると、中庭へと向かう。 剣菱邸のプールから賑やかな声が聞こえた。 プール前のテラスで、魅録、美童、野梨子、可憐、そして和子がワインやビールを片手に寛いでいる。 「ただいま」 声をかけると、皆が思い思いにこちらを向いた。 「お帰りなさいませ」 野梨子が皆を代表したように、にっこりと答える。 昔と変わらぬその姿に、清四郎は目を細めた。 「悠理は?」 と聞くと、可憐がビールを手渡しながら教えてくれる。 「子供達とプールよ」 受け取ったビールを片手に覗き込むと、プールの中で数人の子供たちに囲まれている悠理が目に入った。弾けんばかりの笑顔で笑っている。 悠理の笑い声と、女の子の「きゃー悠理!」とか、男の子の「悠理ー!こっちこっち」という声が聞こえた。 清四郎は、優しい目でそれを見つめていた。
![]() 画:ネコ☆まんま様 「清四郎、子供作らないの?」 ワインを片手に美童が聞いてきた。 「和子さんから聞いたよ。体外受精すればできるって」 「よせよ、美童。清四郎と悠理には二人なりの考えがあんだろ」 魅録が口を挟む。 「けど、二人の子供が欲しくない?あんな悠理を見てたら清四郎だってそう思うだろ?」 こういう話題の時の美童は容赦がなかった。 真剣な瞳が、冗談や冷やかしで言っているのではないことを物語っている。心から二人を心配してくれているのだ。 清四郎にはその気持ちが良くわかった。 「心配してくれてありがとう。でも大丈夫ですよ。二人とも自然な妊娠ができればと期待してますしね。僕としてはこれ以上悠理に手術などの負担を強いたくないですし」 「でも、体外受精なら」 と和子が口を挟むと、 「姉さんも、ご心配なく」 と清四郎はこの話題を切った。 これ以上話てくれるな、と言う雰囲気だ。 それで、誰もが口を閉ざした。 こんな時、場の雰囲気を変えてくれるのは可憐だ。 「もうこんな時間よ。そろそろ夕食にしましょう。清四郎、悠理と子供たちを呼んできて」 と言った。 ところどころ芝生の上を照らす照明。 白いクロスをかけたテーブルの上に、色とりどりのオードブルと、銀の段重ねの器に果物とデザートが並べられていた。 庭の片隅では、シェフがグリルで肉を焼いている。 パーティーの内容は全て悠理が企画したもので、料理は子供達の好きそうなメニューを選らんであった。 その主役である子供達は、楽しそうにおしゃべりしながら、時に庭を走り回っている。 悠理はその中心にいた。 「清四郎ー!そろそろ花火やろうぜ〜」と叫ぶ。 「元気だなぁ、悠理は」 変わらない悠理が眩しくて、美童が呆れたように、しかし、嬉しそうに言った。 横に立つ野梨子も「ほんとに」と目を細める。 「魅録、手伝いを頼みますよ」 清四郎が言うと、「おう!」と魅録が吸っていた煙草を消した。 数十本の打ち上げ花火。 派手な音がして、鮮やかな色彩が夏の夜を飾り立てた。 明るく降り注ぐ光のシャワーに、子供達は大喜びだ。 打ち上げ花火の後は、大人たちが1本づつ小さな花火に火を付け、子供達に手渡していく。 庭は、光の海になった。 不器用そうに危なげに花火を持っている小さな子供を、清四郎が後ろから抱くようにして支えた。 子供は「ありがとう、おじちゃま」と愛らしく振り向く。 「どういたしまして。ほら、前を見ててごらん」 微笑み返す清四郎の顔はとても優しく、悠理はそれを見ると思わず目を逸らした。 終わった花火を水につけようと、皆の輪から離れる。 ほんの少し痛む心。 「自然に任せよう」と言いつつ、すでに結婚から5年が過ぎていた。 最近では、体外受精しか方法はないだろうか、と思い始めている。 それだって成功するかわからないけれど。 「悠理ちゃん、やるなら若いうちよ。その方が成功率が高いわ」 そう、和子に言われていた。 和子に相談していることは、清四郎には告げていない。 このことで心配をかけたくなかった。 「どうした?」 一人、ぼぅっと立っている悠理を見つけ、清四郎が声をかけてきた。 さりげなく、背後から腰に回される手。 これは、もはや清四郎の癖になっていた。 悠理は、黙って清四郎の広い胸に凭れかかる。 そのまま、目を閉じた。 少し離れたところでは、子供達の声や、仲間達の笑い声、花火の音が聞こえる。 でも、悠理の耳に響いてくるのは何よりも近い清四郎の鼓動。 「ちょっと疲れた」 そう言いながら、全体重を清四郎に預けた。 「眠い・・・・・」 本当にこのまま眠ってしまいそうだった。
![]() 画:ネコ☆まんま様 清四郎は、そのまま右手を悠理の額に当てた。 「このところ微熱気味だったでしょう。ちょっと今日は無理しましたね。部屋で休んだ方がいい」 そう言うと、ふわりっと悠理を抱き上げた。 「8時過ぎには、子供達を見送らないと・・・」 そう言って、悠理は少しもがいたが、清四郎は力を入れて抱き直した。 「僕がすぐに戻りますから心配いりませんよ。それに、野梨子や可憐がうまくやってくれるはずです」 近くにいたメイドに、 「少し疲れたようなので、悠理を部屋に連れて行きます。皆には心配しないよう、伝えてください。僕はすぐ戻りますから」 そう告げて、邸内へと歩きだした。 消える二人を、仲間達は遠くから見つめていた。 「あんな二人を見てると、涙が出るわ」 可憐が言った。 「わたくしも」と野梨子が頷く。 「神々しいって言うのかしら?二人だけが光のベールに包まれてるような気がするのよね。私もあんな風に愛されたいわ」 可憐の呟きに魅録が苦笑した。 「僕は清四郎が悠理を愛するのと同じくらい野梨子を愛してるよ」 美童が軽くウインクしながら囁く。 野梨子は「嫌ですわ、またいい加減なことを」と真っ赤になり、魅録は「お前も変わんねーな」と頭を掻いていた。 微笑ましく会話する4人の傍で、和子は少し不安顔だった。 「悠理ちゃん、元気そうに振舞ってたけど、今日は少し顔色が悪かったわね」 と呟いた。 「そういえば騒いでましたけど、あまり食べてませんわ」 「朝から微熱がある、なんて言ってたわよ。風邪かな、ですって」 野梨子と可憐が思い出したようにそう言うと、和子は唸った。 「まさか、まさかねぇ」 その一言で、二人もピンとくる。 「「まさかって、まさか?!」」 野梨子と可憐の叫び声に、和子は驚いて我に返った。 「え?あ?わかんないわよ、悠理ちゃんから何も聞いてないし。でも、ちょっと気になるわね。後で部屋を覗いてみるわ」 そう言って、和子はその場を離れた。 これが本当であれば、どれだけ嬉しいか。 清四郎と悠理が消えていったドアを、野梨子と可憐は見つめた。 パーティーの後、和子は悠理の様子を見にいったが、すでに眠ってしまっていて、話を聞くことはできなかった。 それで、仕事が休みとなった今日、子供を連れて剣菱邸を訪ねていた。 手土産に悠理の好きなケーキを持っている。 「わー和子さん!ありがと♪」 悠理は元気だった。どれにしよっかな、とケーキを選んでいる。 普段と別段変わったところはなさそうだった。 「慎一郎はどれ食べる?」 今年3歳になる甥っ子と楽しそうにケーキを奪い合う。 紅茶をいただきながら、和子は取り留めもない話をした。 ふと、悠理がフォークを持つ手を止めた。 「どうしたの?悠理ちゃん」 「ん?何でもない」 「・・・・・・」 しばらく思案顔だった和子が、意を決して聞いた。 「ね、悠理ちゃん。生理は?ちゃんと来てる?」 「うん?来てると言えば、来てるかなぁ。今月はまだだけど。いっつも不規則でよくわかんないんだ」 確かに、以前に見せてもらった悠理の基礎体温はきれいな二相性になっていなかった。 あの事件で腹部を手術する前から生理不順はあったらしく、和子も「生理がこない」だけで悠理の妊娠を判断するには無理があると思った。 「この前のパーティーの時から微熱があるんでしょう?食欲も落ちているみたいだし、生理が遅れるようだったら妊娠の検査をした方がいいわ」 「・・・・・うん。そうする。でも、・・・和子姉ちゃん、このことはもうしばらく清四郎には黙っててくれる?」 なぜか、悠理はそんなことを言った。 「どうして?出来たってわかれば、清四郎大喜びするでしょうに」 「だから、だよ」 悠理は、首をかしげるようにして小さく笑った。 「ずっと、この何年かそうじゃないかって、何回も何回も妊娠判定スティックっていうの?あれをやったんだ。その度にダメでさ。清四郎をがっかりさせるの、もうヤなんだ。だから確信が持てるまで言いたくない」 悠理の優しい笑みが、和子の脳裏に焼きついている。 あの時、すぐに検査をさせていれば、と後に和子は後悔することになる。 TOP |