〜2〜
数日後、和子は悠理に電話をした。 あれから、悠理からは何の連絡もなく、やはり妊娠はダメだったかと思っていた。 「悠理ちゃん、今日慎一郎と一緒に映画見に行かない?」 『映画って?』 「ア@パンマン・夏休み特集」 『あははは、和子姉ちゃんでもそんなの見るんだ』 と悠理は笑った。 「子供の為よ。で、一人じゃつまんないから悠理ちゃんを誘っているんじゃない。慎一郎も悠理ちゃんと一緒なら喜ぶし。来てくれないかしら?」 『わかった。行くよ。車を回してそっちに迎えに行こうか?』 即断即決。そんな行動的な悠理が和子は好きだった。 「そうねぇ、車で行っても止めるのに苦労するし、剣菱の運転手さんに任せられるかしら?」 『んじゃ、1時にはここを出るから待ってて』 そう言って、電話は切れた。 和子からの電話を切ってから、悠理は、この前会った時に言われたことを考えていた。 ―――生理が遅れたら、検査をした方がいい だが、悠理はまだ妊娠判定スティックを使っていなかった。 見るのが、怖い。 もう少し、もう少し待ってから。 生理が2週間ほど遅れてから見ようと思っていた。 つわりらしいものはまだない。 もし、妊娠していたら? そっとお腹を撫でながら「一緒にア@パンマン見ような。面白いぞ」と声をかけていた。 いるのかいないのかわからない子供に声をかけている自分がおかしくて、悠理は一人笑った。 夏休みということもあって、映画館は混雑していた。 和子とその息子慎一郎、悠理も仕方なく列に並ぶ。 長蛇の列は、劇場の階段にまで伸びていた。 周囲は親子連れでいっぱいだ。 母親に甘えている子供、泣きじゃくって父親に宥められている子供。 和子と、慎一郎を間に挟んで立ちながら、悠理は無意識に腹部をさすっていた。 和子はそんな悠理に目を奪われる。 「悠理ちゃん、もしかして・・・・・」 そう言った時だ。 階段の上から、数人の若者が騒ぎ、ふざけながら駆け下りてきた。 それと同時に、小さな女の子が親の手を離れて階段の中央に出る。 誰もが、あ!と思った瞬間、一人の少年と女の子がぶつかった。 階段から落ちる! そう判断した悠理は、咄嗟に女の子を庇い、子供を抱きかかえたまま階段を落ちた。 「きゃーーーー!」という悲鳴と、「ええ〜ん、ええ〜ん」という子供の泣き声で周囲は騒然となる。 「真澄!」 「悠理ちゃん!」 子供の母親と、和子の叫びが同時に響き渡る。 真澄と呼ばれた子供は、悠理の腕の中から抱き起こされると、怪我もなく無事なようだった。 ぶつかった少年はすでに逃げていて姿はない。 そして、悠理は・・・・・ 落ちた階段はほんの4、5段。 通常であれば、打撲程度で済む高さだった。 だが、床に顔をつけた悠理は立ちあがる気配がない。 「悠理ちゃん!!」 和子が、叫びながら肩を掴み、上を向かせると、悠理が苦痛に顔を歪めながら着ているTシャツをきつく握り締めていた。 「かず、こ姉ちゃ、ん、お腹、お腹いたい・・・赤ちゃ、ん・・・」 「悠理ちゃん!!!誰か、誰か救急車呼んでっ。早く!」 和子は、悠理を抱き起こしながら絶叫していた。 和子の胸に、「せいしろう」と呟く悠理の涙が染み込んでいった。 病院の廊下を、清四郎は夢中で走り続けた。 エレベーターなど、待っていられない。 階段を駆け上がる。 連絡を受けた時に知らされた病室へ辿り着くと、引き戸が壊れんばかりの勢いで開けた。 部屋には、すでに到着した悠理の両親がいた。 和子、修平と母も部屋にいる。 息を切らせている清四郎に、修平が眉をピクリとあげた。 こんなところは、親子そっくりだ。 「おい、ドラ息子、病院の廊下を走るんじゃない。ドアもちゃんと閉めろ」 そんな言葉にも、清四郎は聞く耳をもたない。 黙って、ベッドに横たわる悠理の元へと歩いて行く。 点滴を受けながら眠る悠理を見ると安堵のあまり力が抜け、悠理の肩に片手をかけたままヘタヘタと床に座り込んだ。 ―――生きていた たとえどんなことがあっても、生きていて欲しい。 清四郎が悠理に望んでいることはそれだけだ。それが全てだった。 理由はわからないが、病院に運ばれたと聞いた時点で考えたことは「死ぬな」それだけだった。 長い溜息をつき、気分を落ち着かせたところで立ち上がると、和子、義母の百合子、母、万作までもが泣いていた。 清四郎は何が起きたのか訳がわからなかった。 「姉さん、姉さんがついていながら、一体何があって・・・」 「悪かったわ、清四郎。ほんとにごめんなさい。私が悠理ちゃんを映画に連れ出さなければ・・・」 「映画って、映画に行って、なんだって、こんなことになったんです?!」 清四郎は我を忘れて怒鳴った。 そんなやり取りを万作が途中で遮ぎった。 万作が泣きながら清四郎の手を握り、ブンブンと振りながら、言う。 「でかしただ、清四郎君。もう何があったなんてどうでもいいだ。和子さんは何にも悪くねえ」 「そうよ、清四郎ちゃん。もうそんなことどうだって」 百合子も、そんなことを言う。 ますます清四郎は訳がわからない。 「あの・・・・」 混乱している清四郎と興奮している万作に、修平が言った。 「とにかく、ここを一端出て、外で話しましょう。悠理君が起きてしまう」 「私がついております」という百合子を残し、全員で外に出た。 「ここでは何ですな。私の部屋に行きましょうか」 修平の言葉に従って、清四郎と万作は揃って院長室へと向かった。 ソファにかけると、清四郎は幾分落ち着きを取り戻した。 「僕も動揺していてすみませんでした。何があったのか説明して下さい」 と、冷静に尋ねた。 「和子」 修平が和子に説明するよう促す。 「清四郎、まずは、今日のことを謝るわ。悠理ちゃんを人ごみの中へ連れ出した責任も、体調の変化にも気づかなかったのも、私に責任がある」 「そんなことねーだよ。悠理のことはわしも母ちゃんも気づいておらんかったがや」 万作が口を挟んで、和子を庇った。 「おじ様、本当に申し訳ありません。実は、私はもっと前に薄々気づいていたんです。その時に強引に検査を勧めていれば、こんなことにはならなかった。今日の体調に気づかなかったのも迂闊でした。医師として恥ずかしいです」 黙って聞いていた清四郎が、検査という言葉に疑問を持った。 「姉さん、検査って何の?」 「清四郎、あんた本当にわからない?ずっと一緒に生活してて、気づかなかった?」 何か後遺症だろうか・・・そんな風に考えていると、和子が言った。 「私も馬鹿だったけど、あんたも肝心なところで鈍感ね」 「はあ?」 人が真剣に悩んでいる時に、鈍感とは何だと、思わずけんか腰に答えそうになったところを、母が止めた。 「いい加減になさい。今は喧嘩をしている場合じゃないでしょ。これからが大変だっていうのに」 「そうだがや。これから忙しくなるだ」 万作は、ぱっと明るい笑顔になった。 修平も笑っている。 「とにかく、安定するまで入院させてですな、それからは菊正宗の家にいてもらってはどうかな。病院も目の前のことだし」 「おめ、今なんて言っただ?悠理は家(うち)で見るだ。ちゃんと看護婦も医者も雇うだよ」 「そんな、どこの医者ともわからん奴に可愛い嫁を任せられますか」 「いや、わしの目の届かんところにやるのは、許せねぇ」 今度は父と義父が言い合いを始め、またもや母が割って入った。 「だから、いい加減になさいませ。そんな先のことを今騒いでどうするんです」 清四郎は家族のやり取りを呆然とした頭で聞いていた。 これからが大変?安定するまで? 混乱してはいるが、先ほど病室で万作が言った言葉もよみがえる。 「でかしただ」? これで、思いつくことはたった一つだ。 騒ぐ親はほっておいて、清四郎は和子に聞いた。 「まさか、悠理は?」 和子は、にっこり笑った。 「この前のパーティーの時、悠理ちゃん、微熱があるとか、眠くて仕方ないとか言って、食欲もなかったじゃない。あんた、悠理ちゃんを抱いて部屋に戻ったでしょう」 そうだった、そんなこともあったと思う。 「この前、慎一郎を連れて遊びに行った時もね、大好きなケーキを3個食べただけで、フォークを置いてしまったの。それで、もしやと思って、その時、生理は?って聞いたのよ。そしたら、まだわからないって」 確かに、今月生理はまだきていないようだった。それでも、元々不順なのでそれほど気にしていなかったし、第一、これまで5年間なんの兆候もなかったのだ。“また妊娠していなかった”と落ち込む悠理が痛ましく、この頃では、清四郎もなるべく気にしないよう、忘れるようにしていた。 「それでね、生理が遅れるようだったら、ちゃんと病院に検査に来るのよ、って勧めてたの。でも、悠理ちゃん、来なかったわ。だから、今回もダメだったのかしらって思ってたのよ。そしたら今日、映画館でお腹を愛おしそうに撫でる悠理ちゃんを見て、はっとしたの。そんな時だったわ。女の子が階段から落ちそうになって、悠理ちゃん、咄嗟にその子を庇って抱えたまま階段から落ちたの」 「そ、れで?」 清四郎の声は震えていた。子供は?無事だったのだろうか? 「倒れた時、悠理ちゃんは、赤ちゃん、清四郎って、ずっと泣いてたわ」 和子は涙ぐむ。 「清四郎が悲しまないように、はっきりするまで言わないって、誰にも告げずに我慢してたのよ。妊娠の検査も、またダメだったらどうしようと思うと怖くてできなかったんですって。だから、病院に着いてすぐに検査したわ」 青冷める清四郎の肩を和子は叩いた。 「子供は無事よ、妊娠8週目。おめでとう、清四郎」 和子は、白衣のポケットから1枚の写真を取り出して、清四郎に渡した。 言い合いを止め、横で聞いていた、母、父も声を揃える。 「清四郎、おめでとう」 万作は黙ったまま、笑顔で清四郎の手をまた握った。 「清四郎、廊下は走るな」 そんな声が、背後から聞こえた。 ―――悠理 走りながら思い出す悠理の顔は、穏やかな笑顔だった。 病室へ戻ると、百合子がにっこり微笑んだ。 部屋の入り口で、そっと清四郎を抱きしめてくれる。 「ありがとう、清四郎ちゃん」 それだけ告げると、「あとはよろしくね」と部屋を出ていった。 よもや、百合子に抱きしめられる日がこようとは清四郎は思いもしていなかった。 清四郎は、悠理の傍らでそっと手を握り締めながら座っていた。 悠理が生死の堺を彷徨ったあの時のように。 けれど、今の悠理は、清四郎の知らない所を彷徨っているわけではない。 ここにいる。二人の愛の証とともに。 清四郎の心は、何とも言えない暖かいもので満たされていた。 TOP |