〜3〜
夜も9時頃になって、悠理はようやく気がついた。 目を開けて、最初に見たのは清四郎の顔だった。 「清四郎?」 悠理は、ここはどこだろう?と辺りを見回した。 けれど、不思議と不安はなかった。 清四郎がここにいること、大きな手でしっかりと自分の手を握ぎってくれていること。 それだけで安心できた。 「気がつきましたか?」 穏やかな、優しい声で問いかけられる。 「ここどこ?」と聞いた。 「病院ですよ。映画館で倒れたでしょう?」 清四郎が、髪を優しく撫でながら答えた。 「あ!」 と悠理は叫ぶと、握られていない方の手でお腹に手を当てた。 赤ちゃんは? まだ触れてもわからないはずなのに、平らなお腹に手を当てると、赤ちゃんはもういないような気がした。 見る見るうちに、目に涙が浮かぶ。 「清四郎、ごめん。ごめんなさい」 嗚咽とともに、涙がポタポタとシーツにこぼれ落ちた。 あとから、あとから流れ出る涙は止まらない。 「清四郎、清四郎!」 と叫ぶと、ぎゅっと抱きしめられた。 「落ち着け。何も心配しなくていい。子供も大丈夫だ」 ―――子供も大丈夫だ 悠理は、清四郎の腕の中で聞くその言葉が信じられなかった。 そもそも、本当に子供はいたのだろうか?と不安になる。 「・・・信じらんないよ、赤ちゃんが本当にいるのかも」 小さく首を振りながら、か細い声で言った。 清四郎は、もう一度力強く悠理を抱きしめると、証拠を見せてあげますよ、と笑った。 「証拠?」 体を離すと、清四郎がポケットから1枚の写真を取り出した。 白黒で、何が写っているのかよくわからない写真。 「これ何?」 写真の中央に、黒い楕円があり、その中に白くもやもやした物が写っていた。 「なんだと思います?」 清四郎は、試験問題でも出すように楽しそうだ。 こんな清四郎の顔を、久しぶりに見た、と悠理は思った。 自分だけ何でもわかっていて、まだ教えてやらないといった、ちょっぴり意地悪そうな顔。 「馬鹿だから、わかんないよ」 拗ねたように、悠理は清四郎を睨んだ。 わからない、わからないけれど、悠理はこの白黒の写真に見覚えがあった。 多分超音波の写真だろう。 いつか、野梨子や可憐に見せてもらったことがある。それには胎児がしっかりと写っていた。 だが、今見ているこの写真には、それらしきものは写っていない。 悠理は、見せられているものが何なのか、本当にわからなかった。 やっぱり、赤ちゃんじゃない。 止まった涙が再び溢れそうになり、清四郎を悲しげな目で見つめ返した。 「そんな顔するな」 清四郎は、そう言って、悠理の頭をポンポンと叩いた。 「これは僕らの宝物ですよ。悠理が言っていた、僕らの愛の証です」 悠理は、驚いて、目を見開く。 「これ?」 これのどこが愛の証なのか、悠理にはさっぱりわからない。 清四郎は、そんな悠理に微笑んだ。 「この黒い楕円が、胎嚢と言って赤ちゃんの入っている袋です。それで、その中央に白いもやもやした物が写っているでしょう?それが、僕らの赤ちゃんですよ」 悠理は、吃驚して写真をじっと見つめた。 「小さいね。小さすぎて頭も手も足もわかんないよ」 涙声でそう呟く悠理に、清四郎は笑った。 「ええ、たぶん3センチくらいですよ、まだ」 「3センチ!本当に生きてる?」 「馬鹿、生きてるに決まってるでしょう。明日にでも姉貴に頼んで心音を聞かせてもらいましょうか。もしかしたら、聞こえるかもしれないそうですよ」 二人にもう涙はなかった。 わずか3センチの子供を見て、やっと信じることができた。 今までは夢であったことが、今日からは夢ではなくなる。 明日を楽しみに、眠ることができた。 「さあ、ゆっくりお休み」 そう言って、清四郎は悠理の首元までシーツを引っ張った。 「清四郎は?」 と悠理が清四郎を気遣う。 「今夜はここにいます。お前の顔をずっと見ていたい」 真面目な顔で、そんなことを言う清四郎に、悠理は真っ赤になった。 「馬鹿、ちゃんとベッドで寝ろよ」 照れ隠しにそう叫び、シーツで顔を覆った。 いつの間にか、“らしく”戻っている悠理に、清四郎は嬉しくて仕方ない。 思わず笑みがこぼれた。 ククククと笑う声が聞こえて、悠理は少しずつシーツをずらした。 そっとそっと気づかれないように。 シーツの隙間からチラリと見ると、清四郎がにんまりと笑った。 からかわれた!!! 「あーーー!!」 っと悠理は叫ぶ。 「清四郎の馬鹿、アホ、騙したなー。またあたしで遊んでるんだろ」 手を振り上げて騒ぐ悠理を見て、とうとう清四郎も声を出して笑った。 掴みかかろうとする腕を難なく捕らえると、そのまま引き寄せた。 「お休み、悠理。愛してる」 長い長い口付けは、清四郎の深い愛情を伝えてくれる。 この夜、悠理は、天使がやってくる夢を見た。
![]() 画:たむらん様 結局、悠理の懐妊後、忙しくなると言っていた剣菱家と菊正宗家は予想通り忙しくなった。 若夫婦の部屋にベビーの為の部屋を準備することとなり、清四郎は改装の間、菊正宗の家に戻った。 悠理に切迫流産や早産の危険があったことから、入退院を繰り返すには二人揃って菊正宗家にいる方が安心だった為でもある。 病状の説明を受けた万作は、渋々ながら修平の意見に従った。 入院中も退院して菊正宗の家にもどってからも、悠理の身の回りのことは、清四郎の母が色々と世話をやいてくれた。 時折デパートに行っては、ベビー用品も買ってきてくれる。 病室は、まだ生まれてもいないのに哺乳瓶やらオムツやらで一杯になった。 そんな光景を、和子は「私の時とはえらく差があるわね」とあっけに取られて見ていた。 そして、万作と百合子は、二人が剣菱邸を留守にしている間、世界中を飛び回った。 万作はベビーの為に世界中の玩具を探し、百合子はヨーロッパに総レースのベビードレス、アンティークの子供用家具を探しに出かける。 五代はせっせと布おむつを縫っていた。 豊作は、買い物に明け暮れて仕事を半ば放棄している両親に代わって、これまた世界を飛び回っていた。 必然的に、日本での会長の仕事は、清四郎にまかされる。 清四郎は会長代理をつとめながら、忙しい最中、時間のある限り悠理の病室へ通った。 買い物にも出られない悠理の為に、PCを持ち込んでネットでベビー用品を買い揃えるつもりであったが、妊娠も中期に差し掛かった頃、その必要は全くないことに気づかされた。 こと、ベビー用品に関しては、浮かれまくる両親の前に、二人の出る幕はなしであったのだ。 清四郎は、悠理が長期入院で退屈して我侭を言うと思っていたが、人が変わったように大人しくしていることに驚いた。 その上、本来の彼女はこうなのか、母になった為かわからないが、これまでに見たこともないような表情をする。 病室に来ると、ベッドに腰かけ、悠理を背後から抱きしめるようにして座る清四郎は、顔を覗きこんでは、知らない女性を見るような不思議な感覚に囚われていた。 「これ胎教にいいんだって」 悠理がイヤホンの片方を清四郎の耳に差し入れた。 G線上のアリア、カノン、数曲のモーツアルトが流れる。 ロックばかり聴いていた悠理が、クラシックを聴くようになっていた。 清四郎は「母になると、こうまで変わるもんですかねぇ」と笑った。 けれど、そんな風に言う清四郎もまた変わっていた。 「あいつは育児書を読みまくって、また薀蓄をたれるに違いない」と悠理は思っていたが、清四郎が真剣に見ているものはそんなものではなかった。 ネットを検索しては、 「悠理、これはどうです?」 などと、聞いてくる。 悠理は「人が変わったようになったのはどっちだよ」 とつっこみながら、その様子を笑って見ていた。 「やはり“パパとお風呂で遊ぼうセット”は外せませんねぇ。それと、パパと一緒に歩こうリュックですかね。これを注文しましょう」 およそこの男に似つかわしくないセリフに、恥ずかしさのあまり、野梨子と可憐は清四郎がいる時に病室を訪問するのを避けているくらいだ。 そんな微笑ましい日々を過ごした、9ヶ月。 妊娠37週と3日に、悠理の帝王切開をする日が決まった。 過去に腹部に弾丸を受け、手術の既往がある悠理に自然での分娩は危険と判断されてのことだった。 手術の日はいよいよ明日だ。 「清四郎、お前明日手術に立ち会うって言って断られたんだって?」 悠理が笑う。 「ああ、邪魔だって言われましたよ」 清四郎は憮然として答えた。 「なんでそれを知ってるんです?」 「ショーちゃんから聞いた」 ショーちゃんとは、悠理担当の助産師だ。 「明日はショーちゃんが一緒に手術室に入ってくれるんだって。産まれたこいつを受け取ってくれるって言ってた。和子姉ちゃんも立ち会ってくれるって」 「なんで、姉貴がよくて僕がダメなのかわかりませんね」 相変わらず、不機嫌な清四郎。そんな子供っぽい清四郎がおかしくて仕方なかった。 「だって、お前、医者じゃないじゃん」 いつもとは逆に、清四郎をやり込めている感じがして、悠理は楽しい。 「こんなことなら、医師免許を取っておくんでしたよ」と清四郎はぼやく。 さらに、 「学生の頃は、手術の見学をさせてくれたのに・・・」とブツブツ言っていた。 「お前はね・・・」 そんな清四郎に、悠理がゆっくりと言った。 「あたしが危なくなると、冷静じゃいられなくなるからって」 清四郎は、その言葉にはっと悠理を見つめた。悠理も清四郎の目をじっと見つめている。 二人の視線が絡み合った。 「お前は死にませんよ、何があろうと」 どこかで聞いたセリフを清四郎が言った。 そして、もう一度、きっぱりと言う。 「僕が生きている間は、死なせません」 「馬鹿言ってんな」 悠理は、笑った。 「本気ですよ」 清四郎は、真面目な顔をして、悠理の唇に軽くキスをすると、ネグリジェを捲り上げた。 「ちょっ、何すんだよ」 「ここに誓って、死なせません」 『銃弾の痕』それは大きくなった腹部で、引きつるようにして悠理の肌に刻みこまれていた。 そこに、ゆっくりと清四郎はキスをする。 そして、まだ暖かい母の中に眠るベビーに。 翌日、予定通り、天使は二人の元にやってきた。 2650g の可愛らしい男の子。 早く出産した為、若干小さめながら、五体満足。 担当の産科の医師はにっこり笑って言った。 「あの状態で自然に妊娠できたのは、まさに奇跡ですよ。きっとお二人が寝ている間に、コウノトリがキャベツ畑に来たんでしょう。愛の奇跡とでもいいましょうか」
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