実を言うと結構前から微かに視線は感じていた。 しかしそれは普段自分に向けられる類…取り巻きの羨望のまなざしや、父親の仕事関係の者達の値踏みをするようなものとは違ったのであえて無視をしていた。勿論、あんまり有り難くないが同性からの熱の籠もったものでなかったからでもあるが(そうであったら即刻排除していた) しかもその視線の先が、顔や身体ではなく…まぁ身体の一部なのだか、そこだけに集中していたのでほとんど気にしなかった。 その正体にもう少し早くに気づいていれば事態は少し変わっていたかもしれないと、清四郎は後悔した……と、思う。
いつものように閑を持て余すはずの放課後。有閑倶楽部の面々は、珍しくその名とは逆に閑ではない時間を各々持って、三々五々散っていた。 生徒会長を一人部室に残して。 教師に頼まれている書類をまとめながら、ネットのニュースサイトを次々と読みあさる。 部屋には紙のこすれるカサカサという音と、マウスのたてるカチカチという音だけが支配していた。 彼女が来るまでは。 「腹減った〜…って、あれ?清四郎だけ?」 「喚きながら入るのはやめなさい。僕だけで悪かったですね」 ディスプレイから一瞬目を離して、勢いよく入ってきた悠理にいつものようにささやかな小言を投げる。 「だって魅録だけだって思ってたから、いないのはさ」 もう聞き慣れてしまっているそれを意に介せず、悠理はいすの上に鞄を置くとさしいれの山の定位置へ近づく。 「美童と可憐はそれぞれデートだそうです。魅録は…」 「珍しい車をいじりに、だよな。野梨子は? 一緒だと思ったけど」 「野梨子はお母さんの用事で先に帰りました。僕は見ての通り仕事です」 「ふぅ〜ん…わ、マルメゾンのケーキがある〜」 嬉々として山からケーキの箱を取り出すと、早速箱を開ける。 「清四郎〜、お茶…」 「偶には自分で淹れなさい」 「わかってるっての。おまえもいるかって聞こうとしたの!」 「おや珍しい、槍でも降らなければいいんですが」 「…わかった、いらねーんだな」 「いえいえ、頂きますよ。ちょうど書類の整理も終わったところですし」 紙の束をトントンとそろえながら、にっこりとのたまった。 「それに次に悠理がお茶を淹れるのはいつになるかわかりませんからね」 貴重な体験だ、と言う清四郎に悠理は指を突きつけた。 「わーかった! お前のには下剤入りにしてやる!」 「持ってるんですか、薬」 その言葉にたちまち悠理の指から力がなくなって宙を彷徨いだす。 「そういう科白はいつも薬を持ち歩いている人間が言って初めて効果を発揮するんです」
「……紅茶しか、淹れねーぞ」 「十分です」 返された笑顔に、悪魔と呟きながら悠理は簡易キッチンへと姿を消した。
数刻後、マグカップを両手に持ち口で牛乳パックをくわえた悠理が現れると、清四郎は小さくため息をついた。 「お盆くらい使いなさい」 「んんんんん!」 口がふさがれたまま何やら文句を言う彼女に再度ため息をつくと、マグカップの一つと牛乳パックを受け取った。途端に。 「めんどくさかったしお前がミルクいるかもって思って持ってきたのに文句言うな!」
「はいはい、わかった。ありがとうございます」 片手で器用にパックの口を開き、自分のカップに少しだけミルクを注ぐ。パックを返そうとして悠理の視線が自分の手に寄せられているのに気づいた。 「大丈夫ですよ。まだたくさんあります」 「うん、わかってる」 そのまま受け取り片手に残ったマグカップに溢れるほど入れて、残りを冷蔵庫にしまいに行くまで悠理の視線は一点に集中したままだった。 「悠理の欲しそうなものはないはずなのですが…」 書類とノートパソコンとマウス以外に乗っていない机の上を清四郎は不思議そうに見回した。 この時にでも気づいていれば、と清四郎は後悔した…はず…だと、思う。
ケーキを一箱とその他のお菓子を数箱。果物を数個その胃に収めた後、やっと満足した悠理は机の前から動かない清四郎の横に移動した。 「何やってんの?」 そう言ってのぞき込んだ画面には、日本語でも英語でもない言語が、様々なグラフとともに溢れていた。 「世界の動向を掴むために少々」 眉根を寄せる悠理に液晶から目を離さずに清四郎は答えた。右手でマウスを操り、左手でキーボードを叩きながら。 だから、気づかなかった。 悠理の目が変わったことに。 獲物を狙う、野生の動物のそれに。
動きは、ほんの一瞬。 視界の端で悠理が動いたと思った瞬間。マウスに添えられていた右手が悠理に掴まれ、引き寄せられて。
かぷ。
両手で抱え込まれた腕の先、中指と人差し指の先端が悠理の口の中に消えた。
先日からの視線の元は、彼女。そしてその先は、今掴まれている、手。 ここ最近の小さな懸案事項に漸く納得がいった清四郎だが、その思考が空回っていることに気づかなかった。
あまりのことに頭が真っ白になって固まっていた清四郎だが、指先を軽くはまれて舌でなぞられる感触にやっと我に返り、慌てて悠理から腕を取り返す。 「な、何をするんですか!」 ちぇ、と呟いて引きはがされた腕を名残惜しむかのように自分の唇を舐める悠理の顔は、その舌と同じ桜色をしていた。 「だーってさ、せーしろの手があんまり…」 「あんまり、なんですか?」 「…綺麗だから」 突然の言葉に逆に言葉をなくす清四郎に、悠理はあっけらかんと続けた。 「だからさ、ついつい触りたくなって、手だけじゃたんなくって、つい口まで出ちゃったけど…」 そう言いながらもそろそろと自分の手に近づいてくる悠理のそれに、清四郎は背後に腕ごと隠す。 「ちょっと待った! 百歩譲って、だからの後は何とか理解する。しかし何で綺麗なんだ!?」 「えー綺麗じゃん。組み手の時とか、マウスを動かす時とか」 「動いてるのに反応してるだけじゃないですか」 犬だ犬だと思っていたのだが、実は猫だったのか。いや、どちらにせよ動物と清四郎は眉間にしわを寄せた。 「…大体男の手なんだから無骨でしょう。綺麗な手なら野梨子や可憐の方が」 「うん、あの二人も綺麗だと思うけど、ヤワすぎて壊れそうでさあ。あ、美童もそうだな」 「だから、壊れそうもない僕の手ですか?」 「それだけじゃないってば。それ言ったら魅録の手でもいいじゃん」 魅録の名が出た時、ひくりと清四郎の片眉が動いた。 「だったら魅録の手にじゃれればいいじゃないですか」 「だから違うんだって。あいつのじゃゴツゴツしすぎてんだもん」 その言葉にさらに清四郎の眉が動く。 「試したんですか、僕の時みたいに?」 「手ぇつないだこと、あるもん。あいつってケンカする時、拳使うじゃん。だから、節くれ立ちすぎてゴツゴツしすぎ」 「僕の手も、対して変わりはないんじゃないですか」 自然と後ろに隠していた手が出てきてしまい、いつものように腕を組んで顎に手を当てて思考のポーズをとっていた。 「全然違うって。清四郎の手は、何てーの、ちょうどいいセンサイさっていうか力強さっていうか」 「そう言うことは繊細という漢字が書けてから…って、コラ!」 前に出てきた手に、待ってましたとばかりに悠理は飛びついて清四郎の組んでいた腕を崩すと。 「…ほら、やっぱり綺麗で優しくて、気持ちいー」 そのまま彼の手のひらに頬ずりをした。
目を閉じてうっとりとするその表情は、子猫が母猫や飼い主に懐くそれと同じ。 でも、手のひらに感じる滑らかな頬と、ケンカでも損なわれない指の柔らかさは、彼女のもの。 いくら暴れん坊でも男勝りでも、そんなところはきちんと女の子なのだ、と。 またもや思考の空転を起こしている清四郎を知ってか知らずか。 悠理はにっこり笑うと、ぺろりと手のひらを舐めた。
「〜〜っだから、舐めるな!」 「ごめん、つい触るだけじゃ足りなくて」 そう言いながら今度は逃がさないようにしっかりと手を掴んで、指先に頬を寄せる。
先程より放そうとする力がなくなっていることを自覚しながら、清四郎は空いた方の手で自分の額を押さえた。 力で逃げようとすればいくらでも逃げられる。でも、今指先が感じている感触に離れがたいものを感じているのも、事実。論破しようにも思考がどうしても指先に行ってしまい、これもうまくいかない。 迷う頭で思いついたことが、一つ。 「……悠理、放せ」 「やだ…」 「言いましたね。忠告はしましたよ」 ますます強く彼の手を握る悠理の手を、引き寄せる。
「お返しです」 自分の手を握らせたまま、清四郎は彼女の手の甲に唇を落とした。 「〜〜〜〜〜っ!」 たちまち赤くなっていく悠理の顔を見ながら、清四郎は先程の彼女と同じようにその手に頬を寄せた。 「……な、な、な」 「舐めますか? お前と同じように」 そう言って再び近づく唇に慌てて清四郎の手を解放し、自分の手を背中に隠した。 その動作に満足したようにニヤリと笑って、清四郎は言った。 「これからはいつでもじゃれてきていいですよ。その代わりお返しはちゃんとさせて頂きますから」 「バカヤロ〜! 変態! もうするもんか!」 楽しげに笑う男を真っ赤な顔で睨みつけながら、悔しそうに彼女は叫んだ。 「おやそうですか。残念ですね」 そう言いながら、自分の手を彼女の前で見せつけるように振る。 「…し、しないったら、しない!」 鼻息も荒くそっぽを向く寸前、悠理は男の背後に先のとがったしっぽを見たような気がした。 まだ笑い続ける清四郎も、彼女の背後にしっぽを見ていた。 こちらは、獲物を狙う前の猫が見せる、しなやかに揺れるそれを。
次にこの猫じゃらしに引っかかるのはいつですかねぇ、と。明らかに次の機会を待っている自分の思考に、彼は気づいているのかはわからない。でも。
結構前から微かに感じていた視線。 その正体にもっと早く気づけば、もっと早くから楽しめたかなと、清四郎は後悔した…ように、思う。
Fin
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