「ピンクタイフーン」BY さり様
きちんと閉じた窓を通して聞こえる風の音は、次第に強さを増してきていた。時折、びゅう──と悲鳴に似た音をあ げて風が唸ると、がたがたと激しく窓が揺れる。まだ雨は降り出していない。しかし、窓から見える空は重く立ちこめ、 まだ夕方なのにまるで夜中のように暗い。風だけでなく、空が重さに耐えきれず泣き出すのは、もう時間の問題だった。 「悠理。外ばっかり見ないで、少しは勉強に集中したらどうですか」 菊正宗清四郎は、テーブルに広げた数学の教科書をシャーペンの先で叩きながら、先ほどからそわそわと落ち着き なく、何度も外を見やっている剣菱悠理に厳しく言った。 「だって、清四郎」悠理はシャーペンをぐっと握りしめ、嫌々窓から視線をはずして清四郎に熱っぽい目を向ける。 「台風が来るんだじょ。おっきな台風が。あたい、もう、わくわくしちゃってさ」 「台風がなんだって言うんですか。日本にはこの時期、いくらでも来るでしょう。珍しくもなんともないですよ」 清四郎は悠理のノートに数式を書き込みながら、そっけなく答える。 「それはそうだけどさあ。なんかさ、風がびゅうびゅうなる音聞いたら、胸がどきどきするだろ?」 「しません」 「わあっと、そこらへんを駆け出したくならない?」 「全然」 「うっそお。台風が来てるとき、お前、外に出たりしないの?」 信じられないとばかりに声を張り上げた悠理を、清四郎は冷徹ともいえる目で見返した。 「そんな馬鹿なことをするのは、お前か、台風が来る中海岸に出て波に攫われるような、一握りの愚かな人間くらいで すよ」 馬鹿、と遠回しに言われて悠理は、むっとむくれ顔になった。清四郎はそれに構わず、遠慮ない言葉を続ける。 「第一、台風が来るのが楽しいだなんて、間違っても言うもんじゃありませんよ。台風が来て大変な被害に遭う人たち は、大勢いるんです。崖が崩れて家が潰れたり、堤防が決壊して家が浸水したり、飛んできた看板で怪我をしたり、農 作物が駄目になったり……」 「分かった分かった、分かったってば。もう言いませんって」 止めない限りいつまでも台風被害を挙げてゆきそうな清四郎を、悠理は慌てて遮った。 「では、勉強の続きをしましょうか。お前は台風でうかれて忘れてるかもしれませんが、明日のテストは数学と化学と日 本史ですからね」 薄い唇をゆるめて、清四郎はにっこりと笑った。本当にすっかり頭になかったのか、悠理はすうっと顔を蒼くし、頭を 抱え込んでしまった。 「テストなんか嫌いだ……台風でなくなっちゃえばいいんだ」 ぼそりと呟いたかと思うと、ふいに頭を振り上げて、きらきらと輝く目で清四郎を見つめた。テーブルの上に置かれた 清四郎の手を、ぎゅっと握りしめる。 「なあっ、清四郎! こんなおっきな台風なんだからさ、明日のテストなくなったりしないかな?」 「そりゃあまあ、学校が休みになる可能性はありますけれどね」 「そうだよなっ」 よっしゃ、と握り拳を作ったかと思うとすっくと立ち上がり、ベランダに面した大きな窓の前にいき、手と足を開いてば んざいの恰好になって叫んだ。 「もっと風吹け、雨よ降れ〜。台風よ来い〜。ばんばん来い〜」 雨乞いの儀式のつもりなのか、まるでラジオ体操のように開いた手を右左に揺らし始める。呪文もどきに奇妙なリズ ムをつけながら、何度も何度も繰り返し大声で唱える。 思わず、清四郎はくすりと笑い声をたてた。 小笠原諸島に接近し始めた頃から、何度も何度もテレビやラジオ新聞で、今回の超大型台風24号の情報は報道さ れている。それによると、首都圏直撃は免れないらしいのに、自分の踊りが台風を呼び寄せるのだとばかりに、悠理 は一心に踊っている。その姿の中に、清四郎は、自分が持ち得ない純粋さを見て、うらやましさと同時に愛おしさも感 じたのだった。 そしてまた、こんな子どもっぽい姿の悠理をいじめてみたくなるのもいつものこと。 不気味ともいえる妖気を発しながら、窓の外に見える雲に向かって熱心にテレパシーを送っている悠理の背中に、 清四郎は希望をうち砕く一言を投げかけた。 「別に明日学校が休みになってもかまいませんがね、テストがなくなるわけじゃありませんよ、悠理。あさってに日延べ になるだけです」 とたんに、悠理の動きがぴたりと止まった。 そして、恐る恐る振り向いたかと思うと、この世の終わりとばかりの悲壮感を端正な顔いっぱいに表して、たたっと駆 け寄り清四郎にすがりつく。 「そんな冷たいこと言わないでよ、清四郎ちゃん」 「いえ、事実ですから」 生真面目な顔でこう言われると、反論する気力も起きてきやしない。 それでもわずかな望みにすがって、悠理は飼い主を見つめる愛犬のような瞳で、清四郎を見つめた。 「じゃあさ、風で校舎が飛ばされたりしてなくならないかな。それが無理なら、川が氾濫して教室が水浸しになるとかさ」 「馬鹿なことを言うものじゃありません。あの校舎は、震度5の地震でもびくともしませんよ」 「んじゃ、テスト用紙が風で飛ばされるとかさ、雨で濡れちゃって駄目になるとか」 「あのね、悠理」清四郎は深いため息をつき、こめかみを押さえながら言った。「雨漏りなんて、あの立派な校舎がす るわけないでしょう。それに、窓を開け放したまま帰る先生たちだと思いますか? 第一警備員がいるんですから、万 が一窓が開いてたりしても、すぐ閉めてくれるでしょうよ。こんな嵐の夜なんですから」 「……そうか」 悠理はしゅんとうなだれてしまった。小さく小さく──それこそ身の置き所がないとばかりに、身体を縮める。 清四郎は茶色のねこっ毛がふわふわと揺れている、悠理の白いうなじを見つめながら、力無く丸まった肩を軽く叩く。 慰めるつもりで声をかけた。 「明日学校が休みになったら、ありがたいじゃありませんか。勉強できる日が、一日増えるんですから」 だが、悠理にとってはちっともありがたいことではなかった。 せっかくの思いがけない台風休み、またこうやって教科書とにらめっこをしなきゃならないなんて冗談じゃない。テスト なんて一日も早く終わってほしいのに、これ以上苦痛の時間が増えるなんて耐えらるわけがない。 「台風のバカヤロ〜」 悠理はさっきまで台風を喜んでいたことをすっかり忘れて、わんわんと泣き出してしまった。
すっかり観念した悠理が渋々教科書に向かっていると、ノックの音がして和子が顔を覗かせた。 「清四郎、さっき学校から電話があって、明日台風で休みですってよ」 「やっぱり、そうなりましたか」 清四郎がちら、と悠理の顔色を窺うと、想像していた通り一瞬悠理の顔は歓喜に輝いたが、先程の清四郎の言葉を 思い出したのか瞬く間に蒼白に変わって、テーブルに広げられた教科書から嫌そうに目を背けた。 「悠理ちゃん、台風が近づく前に家に帰ったほうがいいんじゃない? 車で送るわよ」 「そうですね……さきほどから風も強くなってきましたしね」 「え、帰っていいの?」 今夜、明日と清四郎の部屋に缶詰で勉強三昧だと諦めていた悠理は、飛び上がらんばかりに喜んだ。 「うちに泊めるわけにもいかないでしょうが。心配しなくても、明日台風が収まったらお前の家に行って、勉強の続きを見 てあげますから」 「えっ!? いい、来てくれなくていいっ」 大慌てで手を盛大に振る悠理に、清四郎はいじわるな笑みを向けておいてから、 「それまでお前が一人でも勉強できるように、宿題をだしておいてあげますよ」 と、問題集を開いてしおりを挟みはじめた。 「オニ〜悪魔〜いじめっこ〜」 悠理はもう半べそ状態である。予想通りの反応で、頭に思い浮かんだ悪態を次々と吐き続ける悠理の言葉でさえも、 今の清四郎にはまるで心地よい室内音楽のようにも聞こえる。 和子はそんな二人の様子をおもしろそうに眺めながら、 「じゃあ悠理ちゃん、支度できたら降りてきてね」 言葉をかけてドアを閉めようとすると、悠理がぴたりとわめくのをやめて慌てて言った。 「あ、和子ねえちゃん。車、いい。あたい、歩いて帰るから」 「いやだ、悠理ちゃん。遠慮することないのよ。この風のなか、剣菱財閥の大事な一人娘を歩いて帰らせるわけにはい かないでしょ」 まだ強風域に入ったばかりとはいえ、この嵐の中を歩いて帰るだなんて、たちの悪い冗談としか和子には思えなかっ た。 「ううん、遠慮じゃないよ。あたい、台風の中を歩くの大好きなんだ」 何故か悠理は得意顔である。これはどうやら本気だと、和子が困惑顔で教科書を悠理の鞄に詰めてやってる弟を見 やると、清四郎は肩をすくめながらかぶりを振った。 「本気の本気?」 もう一回念押しする。だが、悠理の返事は変わらない。 「マジの大マジ」 和子に向かって精一杯真面目な顔をつくってみせた。台風襲来のわくわく感を思い出したのか、再び二つの瞳がきら きらと輝き始めている。 「止めたって無駄ですよ、こいつは。心配しないでください、僕が送っていきますから」 清四郎が苦笑しながら言葉を添えると、悠理は顔を盛大にしかめてみせたが、敢えて文句は言わなかった。 「そお? じゃあ清四郎、しっかり頼むわね。嵐の夜だからって、送り狼になっちゃだめよ」 投げかけた和子の意地悪な一言にも余裕の笑みを返し、清四郎は悠理を連れて、風がうなりをあげている嵐の夜道 を、剣菱邸に向かって歩いていった。
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吹きつける風を身体で受け止めながら見上げると、闇色の空を、それ以上に暗く重い雲が駆け足で流れていた。そこ に灯るいくつもの街灯の明かりが、いつもなら眩しいほどなのに今日は昏く頼りない。煽られて千切りとられた、未だ 青々とした木々の葉が、いくつもいくつも風の中を乱舞し、道路に投げ捨てられたビニール袋が、足にしつこくまとわり ついてくる。 台風の前夜、季節はずれの、じっとりと肌に絡みつくようだった重い空気が一転、頬を切るような鋭さで襲ってきた。 徐々に──だが確かに、台風は東京に近づいてきている。 「なあなあ、清四郎」 前を跳ねるような足取りで歩いていた悠理が、強風をものともせず、楽しそうに振り返る。 「こうやってさ、飛んでくる葉っぱをよけるとさ、修行になると思わない?」 悠理は自分に向かって飛んでくる木の葉を、軽く頭を振り、紙一重でよけている。 「そんな早さじゃ、修行のたしにもなりませんよ」 清四郎はそっけなく首を振った。 「じゃあさ、これならどうだ?」 悠理は拳を作ると、飛んでくる木の葉にパンチを繰り出す。 「息つく暇もなく飛んでくるならまだしも、そのくらいじゃ全然意味ないですね」 「じゃあ、こいつなら文句ないだろっ」 叫ぶなり、悠理はとんと地を蹴りあげ、木の葉に向かって鮮やかなキックを食らわせる。跳び蹴り、回し蹴り、膝蹴り、 かかと落とし──さまざまな技をさまざまな高さに、左右の足を交互につきだし、一つとして外すことなく木の葉を散らし てゆく。スカートの裾が人目をものともせず、暗闇に軽やかに舞う。 さすが、悠理お得意の足技である。清四郎もこれにはうなずかずにはいられなかった。 「どうだっ」 20回連続で木の葉に蹴りを当て、悠理は満足そうに笑いながら清四郎を振り返る。息も乱れていない。 「お見事です」 今度こそは、清四郎が感心したように拍手を送ってきた。どうやっても自分が勝てない相手だと、清四郎を渋々ながら も認めている悠理には、その拍手はなによりも嬉しい。 剣菱邸までの間、何度もその編み出したばかりの木の葉修行を繰り返し、悠理はその度に清四郎に賞賛の拍手をも らった。 次第に勢いを増す強風の中、二人は街と街を隔てる橋に足を踏み入れた。 ここまで来れば、剣菱邸はまもなくである。それを証拠に、派手派手しい建物が、暗闇に姿を現し始めている。 足下の川面は、暗く濁った水が徐々に勢いを増しているようだった。ごうごうという音が、風の空を切り裂く音と混じり あって耳に届く。 ふいに何を思ったのか、悠理は鞄を投げ捨て軽やかに身を翻すと、すとんと橋の欄干に舞い降りた。 突然の思いもよらぬ行動に、さすがの清四郎もふいをつかれて顔色を変えた。 「悠理っ! 一体何を考えているんですか。危ないですよ、降りなさい!」 制止の声も耳に届きませんとばかりに、悠理は知らん顔で両手を横に、肩の高さに上げた。 聖プレジデントの制服のスカートが、闇夜に咲いた花のようにひらひらと揺れる。風をはらんで袖がはためく。横殴り の風が、悠理の細い柔らかな髪を、春嵐に満開の花を散らす桜のように、乱暴になぶっている。 「川に落ちても知りませんよ!」 清四郎は叫びながら、欄干の上でぴたりと制止した悠理を見上げた。 「あたい、台風のときにこうするのが一番好きなんだ」 悠理は謡うように呟いて、きゃしゃな顎をくい、と天に向けた。広げた両手を使いながら、器用にバランスを取って目 を瞑る。 「こうやってるとさ、まるで空を飛んでるような気分になるんだ。身体が軽くなって。ピーターパンみたいに」 閉じられた瞼の奥で、悠理の視線は、風が渦巻く天空に向けられている。 声が風に攫われる。どこか遠くへ、空高くへ。 細いしなやかな身体が、風に乗るようにゆらりと揺れる。 悠理の回りを、木の葉が渦巻く。 くるりくるりと舞い踊りながら、耳元にささやきかける。 ねえ、飛び立とうよ。この世界から、誰にも縛られない自由な世界へ。 身体ごと──悠理の存在ごと、この世界から攫ってゆくように。 さあ、今がチャンスだよ。風に乗って、空へ駆け上がろうよ。 囁き声が届いたのか、悠理がわずかに顎をひいた。 いいよ、行こう── つま先が宙に浮かぶように、とん、と欄干を蹴った。
これは、台風の力なんかじゃない。 清四郎は理性でなく、直感でそう思った。 天の神様が、風の王が、悠理を自分の元へと手招いている── びゅうと、看板を巻き上げるほどの突風が悠理を襲った瞬間。 清四郎は右手を伸ばし、今にも人間界から飛び立とうとしていた、かけがえのないたったひとつの存在を、我が手に 引き寄せていた。
「……せいしろ」 茫然自失の悠理がはっと我に返ったとき、清四郎の広い胸に抱き寄せられていた。 「あ、危なかった……ね」 清四郎の手が伸びるのが数秒でも遅れていたら、自分はきっと川に落ちていただろう。濁流のように渦を巻く、漆黒 の水の世界へ。 「清四郎が助けてくれなかったら、あたい……」 悠理は言葉の続きを飲み込んだ。胸に押しつけられた頬が熱い。ひし、と抱きしめられた身体は、清四郎の身体に寄 り添ったまま動くことができない。 「お前は……ほんとに世話をかける」 重い、不機嫌な声が頭上から落ちてきた。怒りというよりも、ほとほと呆れはてたとばかりの苦い呟きに、悠理は清四 郎の腕の中で身を竦めた。 謝罪の言葉が出てこない。謝らなきゃ──清四郎があんなに止めたのに、それを聞かなかったあたいが悪いんだか ら。 罪悪感が心に満ちてくるにつれ、ごめんなさいの一言は、大きな岩のように胸につかって、容易に外にはでてこなか った。
間に合った。 清四郎は悠理の細い身体を抱きしめながら、何度も何度も心の中で呟いた。 欄干の上にに立つ悠理の姿は、今にも天空を駆け上がってゆく天馬の姿に見えた。 スカートをはためかせる姿は、天にのぼる羽衣を携えた天女に見えた。 闇に今にも溶けてゆきそうな柔らかな髪を、風にもてあそばれる美しい横顔は、風の妖精シルフィードにも思えた。 ピーターパンとは違う。ピーターパンに連れられたウエンディとも。 今失えば、決して自分の元には戻ってこない。永遠に。 突如力を増して襲ってきた風に、ゆらりと──見えない力に絡め取られるように、悠理の姿が空気に溶けた気がし て、咄嗟に清四郎は手を伸ばし、悠理の身体を抱き寄せたのだった。 胸にかかる重みに、腕が感じる確かな感触に、清四郎の身体すべてで悠理の存在をようやく確認した。安堵がじわ りと体中に広がってゆく。 「……よかった」 お前を失わずにすんで。 お前を天に帰さなくて。 清四郎は何度も心の中で呟いた。 「ごめん……心配かけてごめん」 悠理がかすれた声で、何度も呟く。しっかりと、清四郎の胸にしがみつきながら。 「もう、あんなことはしない。約束するから」 だが、清四郎は答えなかった。答えられなかった。ただ、悠理を抱きしめる腕に力を込めつづけた。 そうでもしないと、またすぐ悠理は宙に帰ってゆきそうだったから。 この手をゆるめた瞬間に、また遠くに行ってしまうだろう。 腕の中からするりと身をかわし、逆巻く風になりそうだったから。 もうそんな愚かなまねはしない。 大切な──かけがえのない存在だと、心の奥底で知ってしまった今となっては。
清四郎は、悠理を胸に抱き続けた。 雲を突き破り、冷たい雨が、二人の肩に落ち始めるその瞬間まで。
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あとがき
まず最初に。 良い子のみなさんは、決して悠理のまねをしてはいけませんよ(笑) 世界的に台風被害が深刻の折り、こんな不謹慎な話を書いてしまってもうしわけありません。しかも、唐突な終わり方…… |