〜1〜
あらゆる願いを叶えてくれる、猿の手。 みっつだけ、どんな願いも叶えてくれるという。
夫婦は、金持ちになりたいと願った。 息子が死んで、その賠償として、大金が転がり込んだ。
夫婦は、次に息子が帰ってくることを願った。 息子は、死体のまま、墓場から帰ってきた。
そして―― 夫婦は、最後に息子の完全なる死を願った。 息子は、両親の身勝手な我儘に振り回された挙句、黄泉へと追い遣られた。
不気味で、滑稽で、哀しい、物語。
その物語は、此の世でもっとも怖いのは、人間の欲望だと教えてくれていた。
悠理には、唸るほど金がある。 だから大金が欲しいとは思わない。 ついでに言うなら、復活を願う息子もいない。 財閥の娘として生まれ、それなりの容貌があり、ずば抜けた運動能力も備えている。 自分で言うのもおこがましいけれど、悠理のようになりたいと思う人間は多いだろう。 でも、悠理にだって、欲しいものはある。 明晰な頭脳。 グラマラスな肉体。 好きな男を手に入れられる、それらの魅力が。
「手が止まっていますよ。」 清四郎に注意され、我へと返る。 「ほら、問題に集中して。」 穏やかな声が、ぐ、と耳元に近づく。 悠理の真横から、問題集を覗き込んでいるのだから、当然だ。 しかし、その「当然」に、悠理の頬は熱くなった。
悠理は、清四郎が好きだった。 いつ好きになったかなんて、覚えていない。 気がついたら、死ぬほど好きになっていたのだ。
いつも、彼の逞しい腕に抱かれる夢を見る。 だけど、所詮は夢に過ぎない。 だから、余計に、現実の世界で、あの腕に抱かれ、あの胸に顔を埋められたら、何を失っても構わないと、 心の底から思うのだ。
昔々、どこかで聞いた、怖い物語。 夫婦は富を望んだ結果、一番大事なものを失った。
でも―― 明晰な頭脳も、豊満な肉体も、持っていなかったとしたら? それゆえに、一番大事なものが手に入らないと知っていたら? 富よりも、地位よりも、一番大事なものを望むはず。 たとえ、それを手に入れるため、邪まなものの力を借りたとしても、悔いはない。 そう。 清四郎が手に入るなら、何をしたって、構わない。
猿の手。 猿の手。 あたいに、望むものを、与えてください。
そう願う悠理の胸元で、銀のペンダントがかちゃりと音を立てた。 本当に願いを叶えたいなら、多少の代償は必要さ―― 脳裏で、黒衣の男が囁いた。
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しばらくの間、眠気を誘う講義がつづく。 それでも悠理は、真剣を装って、清四郎の説明を聞いていた。
チャンスは、一時間後に訪れた。 清四郎が、お手洗いに行くため、席を離れたのだ。 彼が消えたドアを見て、悠理はごくりと咽喉を鳴らした。
猿の手。猿の手。 みっつの願いを叶えてくれなんて言わないから。 明晰な頭脳も、グラマラスな肉体もいらないから。 ただひとつ、彼が欲しいんです。
悠理は、メイドが準備したポットの中に媚薬を放り込んだ。 それは、清四郎が調合した、淫靡な薬。 もちろんポットの中身を飲むのは、清四郎だけではない。 悠理も飲まなければ、せっかく奮い立たせた勇気が萎えてしまう。 それ以上に、卑怯な手段に訴える、自分の行為を忘れたかった。
罪悪感に蓋をしなければ、狂乱に身を委ねられないと、分かっていたから。
悠理は自分の胸元に手をやり、ペンダントを握り締めた。 これは、清四郎を、悠理を、狂わすための、魔法のアイテムだ。 だけど、魔法はただでは使えない。 魔法で望みを叶えるためには、自分で切っ掛けを作らなければならなかった。
その切っ掛けが、卑怯な手段だとしても、あとで自分が苦しもうとも、構わない。 清四郎が手に入るなら、良心くらい、簡単に捨てられる。 彼が骸となって甦っても、悠理は、きっと己の寝床へ誘うだろう。 それほどに、悠理は清四郎を愛しているのだ。
清四郎が帰ってきた。 悠理はポットの紅茶をふたつのカップに注ぎ分け、片方を、清四郎に差し出した。 「まだ夜は長いんだろ?ほら、これでも飲めよ。」 「悠理にしては、気が利きますね。」 いつもの皮肉も、今は耳に入らない。 清四郎がカップの中身を飲み干すのを確かめてから、悠理も琥珀色の液体を飲み干した。
このあと、訪れるであろう狂乱を予想し、密かに身を震わせながら。
悠理の胸元で、ペンダントが微かな音を立てた。
悠理は、清四郎への募る想いをどうすることも出来ず、ひとりで思い悩んでいた。 友人に相談してみようかとも思ったけれど、それは、できなかった。
友人のひとりは、明晰な頭脳を誇る、美少女。 もうひとりは、社交的で妖艶な色気を漂わせる、美女だ。 悠理は、彼女たちのように、女らしくも、女っぽくもない。 比較するまでもなく、悠理は、女として、彼女たちに完璧に負けていた。 彼女たちに相談するのは、それを自ら認めるような気がした。
男に間違えられる、丸みに欠けた身体。 頭の中は空っぽで、喧嘩っ早くて、大飯喰らいで、そのうえ泣き虫。 金はあるけれど、それ以外に、魅力はない。 そんな女が清四郎に恋をしているなんて、まるで太陽に焦がれる毛虫のようなもの。 差がありすぎて、笑い話にもなりはしない。 だから、ふたりに結婚の話が持ち上がったとき、悠理は天を突く勢いで怒って、全力で嫌がった。 清四郎が、自分ではなく、剣菱の財力と結婚しようとしているのが、分かっていたから。 そうしないと、あまりにも自分が惨めだったから。
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放課後の雑踏。 悠理は暇潰しに、ひとりで街をうろついていた。 お洒落と恋に忙しいOL。仕事に追われ、疲れた顔のサラリーマン。夢も、希望も、絶望もなく、ただ街を徘徊する 同年代の若者たち。 様々な事情を抱えた人たちが行き交う街角で、それを見つけたのは、本当に偶然だった。 いや―― もしかしたら、悠理は呼ばれたのかもしれない。
そのペンダントを、手にするために。
通りから空を見上げてみる。 街路樹が枝を張り出していて、空が見えない。 視線を通りに戻す。 目の前に、アクセサリーを売る露天商があった。 黒い服を着た若い男が、黒いビロードの上に、色んなアクセサリーを並べている。 さっきまで、そんな店はなかったような気がしたけれど、単なる見間違いかもしれない。 悠理は大して気にもせず、そのまま露天商を通り過ぎようとした。
「―― どんな願いでも叶えてくれる魔法がありますよ。」
黒衣の男の呼びかけに、自然と足が止まった。
男が差し出したペンダントを、手にとって眺めてみる。 無骨な楕円形をしたシルバーのペンダントトップに、奇妙な紋様が刻まれていた。 「これ、なあに?」 「猿の手だよ。」 言われてみれば、彫刻は確かに手の形のようだった。 腕というには、細すぎて、しかも醜く歪んでいたけれど。 「猿の手、という物語を聞いたことがあるだろう?どんな願いでも、みっつだけ叶えてくれる、魔法の道具の話さ。」 その話なら、悠理も知っていた。 「それって、結局は不幸になる話じゃん。そんな魔法グッズなんて、気持ちが悪くて使えないよ。」 顔を顰める悠理に、男はにやりと笑いかけた。 「物語の夫婦は、使い方を誤っただけさ。正しく使いさえすれば―― ちゃんと幸せになれる。」 ただし―― と、男は続けた。 「素人が魔法を使うには、何らかの代償が必要だ。」 「やだよ。代償って、あとで命をくれ、とか言うんだろ?それじゃ、願いを叶えても、意味ないじゃん。」 「命を貰うなんて、そんなことは言わないさ。」 男はくすくす笑いながら、自分の胸を指差した。 「代償は、ほんの少しの良心さ。」 「良心?」 「そう、ほんの少し、良心に蓋をして、切っ掛けを作るんだ。そうすれば、あとは勝手に猿の手が 願いを叶えてくれる。」 男の眼が、黒い帽子の下で、妖しく輝いた。 「どうしても彼が欲しいのなら―― そのくらい、お安い御用だろ?」 男の言葉に、悠理はごくりと息を呑んだ。
「・・・君は、彼が作った薬を持っているね?赤い薬包紙に入った、白い粉薬だ。」 男の言葉が何を差しているのか、すぐに分かった。 「ど、どうして、それを・・・」 確かに、悠理の手元には、とある一件で使った薬が残っていた。 彼に飲ませ損ねた薬を、冗談半分で、こっそり持ち帰っていたのだ。 でも、そのことは、仲間たちにすら教えていなかった。 「僕は魔法使いだからね。何でもお見通しさ。」 男がくちびるを歪めて笑う。 「その薬を、彼に飲ませる。勇気がないなら、自分も一緒に飲んでも構わない。それが、代償として払う、ほんの 少しの良心さ。」 薬を飲んだ結果がどうなるか、考えるまでもなかった。 淫靡な想像に、眩暈がした。 「君は、何かに薬を忍ばせるだけ。それだけで良いんだ。それだけで、彼は君のものになる。あとは―― このペ ンダントに任せておけば、すべてが上手くいく。」
すべてが、望みどおり―― 繰り返される男の言葉に、悠理は徐々に惑わされていった。
気がつけば、ペンダントを握り締めて、街を歩いていた。
それでも八日間、悩んだ。 何度もペンダントを捨てようと思った。
でも、九日目の昼休み、清四郎が女子生徒から告白される場面に遭遇して、心を決めた。 野梨子や可憐ほどではないが、とても可愛い娘だった。 清四郎はその場で断ったけれど、彼に想いを寄せる娘は、他にもたくさんいる。 その中のひとりが、清四郎の心を射抜く可能性は、ゼロじゃない。 何もしないで失恋を待つより、卑怯な手段を使っても、彼を自分のものにしたかった。
そして、十日目。 以前からの約束だった勉強会を、清四郎の家から、自分の家へと変更した。 清四郎は、急な変更など大して気にもしない様子で、悠理の部屋を訪れた。
まさか、自分が調合した催淫剤を盛られるとは、予想もしていなかったに違いない。
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