さかのぼること1ヶ月ほど前。 「結婚しましょう、悠理」 突然、清四郎が言い出した。
確かに。 大学時代からつきあい始め、卒業して既に3年。 あたしの部屋に入り浸っている清四郎と結婚なんて、今さらだ。どうせ結婚したって、今と大して変わらないし。 だけど、あんまりじゃないか。 夜中にお腹が空いたからと、二人でカップ麺をすすっている時に言うなんて。 いくら何でもひどすぎる。 こいつ・・・、だから情緒障害だって言われるんだ。 「悠理、返事は?」 小学生じゃないんだ。言われなくても返事くらいするわい。 この時あたしは、ぷるぷると震えていたかもしんない。思いっきりでかい声で叫んだ。 「い・や・だ!」 予想外だったのか、清四郎はぽかんと口を開けたまま、しばらく放心していた。 「な・・・な・・んで・・・?」 「こんな状況でプロポーズされて喜ぶわけないだろ!結婚して欲しかったら、あたしが唸るようなプロポーズを考えてみろ!」 あたしは、びしっと指を立てて言ってやった。 一瞬の躊躇の後、清四郎の目が細まり、額には青筋が立った。 その迫力にほんの少したじろいだけれど、あたしは両手を腰に当てた姿勢で清四郎を睨みつけていた。 「悠理が納得するようなプロポーズなら、OKするんですね」 「お・・・おう。できるもんならやってみろ」 清四郎の目がきらりと光り、口の端が上がったような気がした。 「わかりました。この菊正宗清四郎、必ずや悠理を唸らせる“おいしいプロポーズ”をしてみせましょう!」 清四郎の不敵な笑みが浮かぶ。経験上、いや本能的に悟った。 この笑みが浮かぶとロクなことがない。早まったかもしれない。だけど言ってしまったからには後には引けない。あたしはやると言ったらやる女だ。 「よ、よし、わかった。そうまで言うなら、受けて立つ。あたしが納得するような“おいしいプロポーズ”だったら、OKしてやるよ!」 そして。 清四郎はあたしを見て、再びにやり笑った・・・。 ぞくぞくとあたしの背中に寒気が襲ったのは言うまでもない。
その1、清四郎お手製料理。
「わぁい、チーズハンバーグだぁ」 清四郎の手料理は、素直に嬉しかった。いい匂い、おいしそう! 鉄板の上でジュージューと音を立てながら運ばれてきたハンバーグに、あたしは手拍子を打って喜んだ。 濃厚な肉の味と上に乗ったチーズの香り、そしてデミグラスソースの味に頬がとろけそう。 「どうですか?」 「うまい!」 そしてもう一口。だが口に入れた瞬間、ゴリっという嫌な音。
「あぢぃ!何だよこれ!!!」 「指輪です。結婚してくれますか?悠理」 このときのあたしはぷるぷる震えながら、拳を握り締め、それでも顔は笑っていた。もしかしたら目は笑ってなかったかもしんないけど。 ニコニコと満面の笑みを浮かべた清四郎に、あたしは無言で蹴りを入れた。器用によけながら、こめかみをぴくぴくと震わせた清四郎が言った。 「な、何が気に入らなかったんですか?」 「・・・何でハンバーグの中に指輪?思いっきり噛んだぞ。しかも鉄板のおかげで、ものすごく熱かったんだぞ。火傷したじゃないか!!!」 あたしは血管が切れるかと思うくらいの勢いで叫んでいた。 無残にも挽肉の中に閉じ込められた指輪は、何だか生臭そう。 これで喜ぶ女がいるか! なのに、清四郎は首を捻るばかりだった。
その2、日本酒。
「さ、悠理、ぐーっと飲んで」 枡の底面には光り輝く指輪。 ・・・何で酒漬けになってるんだよぉ! だけど、怒るのはまだ早い。きっと清四郎は色々考えたに違いないのだ。うん、そうだ。抑えろ、抑えるんだ。言葉くらい聞いてやらないとな。とりあえず枡に注がれた日本酒を飲み干した。 残るのは底面の指輪だけ。さあ、どうする清四郎? おもむろに、あいつは指を突っ込んで(!)指輪を取り出す。 「悠理、結婚しましょうか?」 この時のあたしはぷるぷると震えて、血管が切れかけていたかもしんない。 「・・・いやだ!何で日本酒なんだよ!指輪が臭いじゃないかぁ!」 「でもお酒好きでしょ?悠理の好きな日本酒ですよ」 「そういう問題じゃないやい!大体、普通はワイングラスに入れるだろ!美童が言ってたぞ!」 日本酒臭い婚約指輪を、誰が喜ぶってんだ。しかもニオイ取れなさそうだし。 「・・・ふむ。そうでしたか。悠理はワインより日本酒の方が好きだと思ったんですがねぇ」 あたしは再び無言で蹴りを入れた。 あたしの怒りにも気づかず、器用に蹴りをよけた清四郎は、再び首を捻った。
その3、韓流ブーム。
「何それ?」 差し出されたのは、小さな蓋つきの壷。 清四郎は胸を張って答えた。 「キムチ壷です!キムチ、好きでしょ?」 「・・・好きだけど」 「じゃ、ご飯食べましょうか」 一食分食べれば、底が見えそうな小さなキムチ壷。黙々とキムチと白米を食べていると、壷の底が見えてきた。そして、箸でつまみあげたものは・・・。 あたしは怒りで体が震えた。 「清四郎・・・」 「はい」 満面の笑みのあいつは、得意気に口を開いた。 「キムチ壷の底に指輪を隠すのが、韓国で今いちばんお洒落でロマンチックなプロポーズの仕方なんですよ!世間は韓流ブームですからね。どうです?“おいしいプロポーズ”でしょ。悠理、結婚しましょう!」 あたしは眩暈がした。キムチは好きだ。だけど、どうして指輪をキムチ漬けにする?ニオうじゃないか!本当に韓国人は喜んでるのか?大体あたしは日本人だ。・・・ということは、日本式にしたら糠床に指輪が埋まってるようなもんじゃないか!!! 「悠理、返事は?」 清四郎は目をきらきらさせて、こちらを見ている。あたしはその顔に拳を上げる。 清四郎はその拳をよけながら、呆然として言った。 「な・・・な・・んで?」 「指輪をキムチ漬けにされて喜ぶ奴がいるはずないだろ!」 この時、あたしの中で何かがぷつんと切れた。 「もういい・・・。清四郎に期待したあたしが馬鹿だった。お前なんか大っ嫌いだー!!!」 「馬鹿?悠理に言われると腹が立ちますねぇ」 ぶつぶつ言っている清四郎に背を向けて、あたしは部屋を飛び出した。 そして。 1週間は口を聞かなかった。
その4・最後のチャンス。
「今夜、時間ありますか?」 「うん。大丈夫だけど?」 「じゃあ、一緒に食事しましょう。今度こそ“おいしいプロポーズ”をしてみせますから」 「やだ。もう信じないぞ」 「今度こそ大丈夫ですよ。取っておきのところに連れて行きますから、ドレスアップしてくださいね」 こっちが答える間も無く、電話は切れた。あれから1週間。あたしは清四郎からの電話には一切出なかった。だけどさすがにこれ以上無視するのも気が引けるので、電話に出てみたらこの調子だ。 何だよ、あたしたちは目下喧嘩中じゃないか。何がドレスアップだ。知るもんか。いつでも思い通りになると思ったら、大間違いだ。大体あたしはドレスアップするなんて一言も言ってないぞ。 ・・・行かない。もう絶対に行かないぞ!
なのに。 約束の時間が近づくと、あたしは落ち着かなくなる。動物園の熊みたいに、部屋の中をうろうろと歩き回っていた。 ・・・ドレスアップって言ってたな。ということは、フレンチ?それなら安全かな・・・。いやいやいや、ダメだ。ここで折れたら、清四郎の思う壺だ!
―10分後。 あたしはクローゼットを開けていた。 悔しいから、清四郎が望むようなドレスは着ない。 大体、喧嘩の原因だって、清四郎が悪いんだ。どうしてああもデリカシーに欠ける男なんだ。あの話を聞いた可憐だって野梨子だって呆れていた。 ・・・よし来い!清四郎、勝負だ!
約束の場所に現れた清四郎は、あたしのファッションを見て笑った。 「お前らしいですな」 ジト目で見上げると、あいつはポンポンとあたしの髪に触れる。 こういうのは嫌いじゃない。 だけど、この間までのことは絶対に謝ってもらうぞ。 「さ、行きましょう」 あたしの気持ちなんてまったく気づかずに、あいつはあたしの背中に手を回す。 「何食うの?」 「秘密です」 嬉しそうに笑っちゃってさ。 ふんだ。 あたしはぶーたれたまま、清四郎に促されて席に着いた。 通されたのは個室。 初めて来た店だけど、それなりに人気の店みたいだから、予約取るの大変だったんじゃないかな。 清四郎は澄ましたまま、食前酒に口をつける。 「今日は、無口ですね」 あたしは答えない。かわいくないってわかってるけど、今は笑う気分にもなれなかった。 食前酒を一気に飲んだ。マナー違反なのは承知だ。だけど清四郎が冷静でいることに、何だか無性に腹が立ったのだ。 清四郎が大きくため息をつきながら、こめかみを押さえる。 「機嫌が悪いですねえ」 「・・・」 「まだ怒ってるんですか?」 「・・・当たり前だろ」 「そんなに気に入らなかったんですか?」 「気に入るわけないだろ!あんな指輪はめたら、指がキムチ臭くなるじゃないか!」 「悠理のリクエストに答えたつもりだったんですがね・・・」 あたしはますます仏頂面に、清四郎はこめかみに青筋を立てた。
運ばれてきた料理を、じーっと見つめた。こいつのことだ。何をするかわからない。だが清四郎はにこやかに笑った。 「大丈夫。もう何も入れてません。料理にもワインにもデザートにも、何も入れてませんから、安心して食べてください」 「本当だろうな?」 「ええ。僕が嘘ついたことがありますか?」 「・・・ある。いっぱい」 清四郎は、ジト目のあたしに咳払いをしながら、料理を勧めた。 確かに今日は何も入ってない。料理もワインも最高! 「どうですか?」 「うん、うまい」 「よかった、気に入ってもらえて」 清四郎はにこにこ顔だ。料理はどんどん運ばれてくる。デザートまで休みなく食べ続けて、あたしの胃袋は大満足だった。 「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」 「えっ?終わり?」 「ええ。デザートまで食べたでしょ?」 「だって・・・」 指輪は?そのために呼び出したんじゃないの? あたしは瞬きを繰り返した。
もしかして。 プロポーズの仕方に文句をつけたから、怒っちゃったの? もう結婚なんてしたくなくなっちゃったの? あたしがわがまま言ったから? 「ねえ、清四郎・・・」 「さあ、行きますよ」 何も言ってくれないの? ・・・急に不安になった。
清四郎に乗せられた車の窓から、外を見ていた。窓に清四郎の横顔が写っている。相変わらずのポーカーフェイスは、何を考えているんだかさっぱりわからない。不安で、無性に泣きたくなる。 今日は何のために呼び出したんだよ?食事だけ?プロポーズするんじゃないの?あたしが唸るような“おいしいプロポーズ”するって言ってたじゃんか! 窓に映るあたしは泣きそうな顔。 気づいてるくせに、知らん振りしないでよ。そうやってひとりで怒んないでよ。あたしは頭悪いから、清四郎が何考えてるのかなんてわかんないよ!
「悠理」 不意に呼ばれて振り向いた。 「降りますよ」 「・・・どこ行くの?」 「二次会です」 「二次会?」 相変わらず清四郎は澄ましたままで、涙目のあたしを気にも留めない。 引きずられるようにして連れて行かれたのは、剣菱グランドホテルのスイートルーム。ドアを開けた途端、山盛りのフルーツとウェディングケーキも真っ青な高さのケーキが目に入った。
「悠理」 背中越しに聞こえる声に振り向くと、あたしたちの生まれ年のワイン。 「それ・・・」 「探しましたよ。飲んでみますか?」 「うん。でも今はまだいいや」 「満腹ですか?」 「・・・うん」 さっきまで泣くのを堪えていたのに、一気に気が抜けて、へなへなと座り込んでいた。
座り込んだあたしを見つめる清四郎は、何か考え込んでいる。 「・・・ふむ。じゃあ、食前の運動をしますか」 目を見開くあたしに、歩み寄ってきた清四郎が唇を重ねる。 「なっ・・・何すんの?」 「“おいしいプロポーズ”がいいんでしょ?食べ物だと不満みたいでしたから、他の“おいしいもの”でプロポーズしますよ」 ニヤリと悪魔の笑みを浮かべた清四郎に、あたしは血の気が引いた。 「い、いい、いい!結婚します。てか、結婚して。もう“おいしいプロポーズ”じゃなくていいから、いいんだってばぁー!!!」 かくしてあたしの叫び声は、ブラックホールに吸い込まれていった。
「や・・・やだって・・・」 「そんなことないでしょ?」 「ん・・・ちょ・・・それは・・・・待てってばぁ!」
「ああんっ・・・」 「悠理、結婚しましょうか?」 「あ・・・ん・・・」 「うん?返事をしないと、やめちゃいますよ」 「ん・・・うん。する、します!・ん・・・するから・・・ああん・・・」
そして。 背中から抱きしめられながら、あたしはため息をつく。 生まれたままの姿で、左薬指に指輪をはめられるのをぼんやりと見ながら。 どうしていつも、あたしは清四郎の手のひらで転がされちゃうんだろうなぁ。 振り向かなくともわかる。清四郎はきっと満面の笑みでいるに違いない。
「・・・ねえ。この指輪、何か臭いんだけど」 「ああ。臭いが気になるようでしたから、消毒しておきましたよ」 「しょ、消毒!!!消毒したの?お前・・・」 「ええ」 にっこりと笑う清四郎に、あたしは眩暈がした。 「指輪を消毒なんて話、聞いたことないよお〜!」 「いいじゃないですか。除菌できた方が」 「・・・んんん?・・・かな〜?」 相変わらずにこやかな清四郎に、それは違うだろうと言ってやりたかったが、強烈に漂ってくる消毒薬の臭いにげんなりして、それ以上言う気がうせた。盛大なため息をつく背中から、清四郎はあたしの胸に手を這わせる。 「悠理、愛してますよ」 「ばっ・・・馬鹿!そんなこと面と向かって言うなぁ。大体どこ触ってるんだよ!」 「何度だって言いますよ。それとも言葉よりも体で言われる方がいいですか?」 「ちょっ、待って!清四郎ちゃん、待てってばぁ!」 清四郎の体温が伝わってくる。とくんとくん、と鳴る心臓の音も。そのすべてが愛しくて、あたしは心地よい海の中を漂っているみたいだった。
「悠理」 「何?」 「おいしかったでしょ?」 「・・・うるさぁい!」 くっくっく、と喉を鳴らして清四郎が笑う。 いつもこうなんだ。あたしのことをいつも手のひらで転がしてさ。あたしはいつも清四郎の思うがまま。泣いたり笑ったり、あたしだけが大騒ぎして。 なーんか“おいしいプロポーズ”って、おいしいのはあたしよか清四郎のような気がするけど。 ・・・ま、いっか。
end
|