一瞬何が起きたのか、彼にはわからなかった。
彼の顔から髪へと、雫が滴り落ちている。
濡れた髪をかきあげながら、彼は視線をあげた。

目の前に、空になったティーカップが見えていた。
そこで初めて、彼は、彼女に紅茶を浴びせ掛けられたのだ、と気付いたのだった。

カフェの中にいる者の殆どの視線が、二人に集中していた。
彼の目の前に立ち上がっている彼女が、ゆっくりと口を開いた。

「言ってる意味が、わからないわ」
「可憐より大事な人がいる。だから、もう、付き合えない」
彼も、彼女も、二人とも泣き出しそうな顔になっている。
暫くの間、沈黙が続いた。

その場の雰囲気に堪えられなくなったのは、彼の方が先だった。

「ゴメン」

ただそれだけを告げて、彼は立ち去っていく。
下を向いて俯いている彼女には、彼が、どんな顔をしてその台詞を口に出したのかまでは、わからなかった。
だが、何かまだ言いたげにも聞こえる、彼のかすれた声だけは、彼女の印象に深く刻みついていた。

「ホント、自分勝手なんだから」
いつの間にか、テーブル上で握り締めていた拳を緩めながら、彼女が呟く。
一呼吸の間を置いて、彼女が席を立った。
伝票を探すが、どこにも見当たらない。

「伝票でしたら、先ほどお連れ様がお持ちになりましたが」
左手に掲げたトレイの上にカップを重ね持ったギャルソンが一人、彼女の後ろに立っていた。
彼女の口元に笑みが浮かぶ。
「莫迦なやつ」
彼女が小さく呟いた。

そして彼女は、側に立ったままでいるギャルソンへと笑いかけた。
「ごめんなさい。騒いだ上にテーブルまで汚しちゃって」
「たいしたことじゃないから」
ギャルソンが微笑した。
彼のピンクの髪の色が、彼女には柔らかく映った。

再度、彼女はギャルソンに笑顔を返し、カフェのドアに向かった。
「ありがとうございました」と、頭を下げるピンクの髪のギャルソンの、胸元で揺れるロザリオを目の端で捕らえながら、彼女はドアを開ける。
ドアに付けられた、ソリを引くトナカイの飾りに付いた鈴が鳴る。
鈴の音色に合わせてドアは閉まり、彼女が出て行った店内は、すでに、先程の余韻を、何も残してはいなかった。
まるで、今、何事も起こらなかったの如く、店内は落ち着き払っていた。

 

 

 

ノエルの恋人  

       BY 千尋様 

 

 




せわしなく行き交う人の波。
綺麗にデコレーションされた街路樹。
ゆっくりと日が落ちるにつれて、きらめきを増していく、街のイルミネーション。

そんな風景に包まれたクリスマスイブの雑踏の中を、あたしは歩いていた。
ブーツのヒールの音が高く響くように、背を伸ばして歩く。
左手に抱えたシャンパンが少し重たかったけど、そんなことは表情には出さない。
あたしの部屋へと続いていく、その無機質な光の洪水は、徐々に後へと遠ざかっていく。
自宅のあるビルに入って、エレベーターで上階へと上る。
その頃にはもう、聖夜の街のざわめきが、あたしの耳に届かなくなっている。

エレベーターの中で、あたしは今日あった事を思い出していた。

「可憐より大事な人がいる。だから、もう、付き合えない」

今から数時間前、彼と待ち合わせたカフェで、あたしは、彼に別れを告げられた。
世間にありふれた言葉だった。

彼が何を言っているのか、あたしにはわからなかった。
わかりたくも、なかった。
あたしには、何も考えることなど出来なかった。
あたし自身、哀しいのか、腹立たしいのか、そんな自分の感情さえ、掴めなかった。

ふと気付いた時には、あたしがオーダーした紅茶を、あたしは、彼に浴びせ掛けていた。
あたしが口を開く前に、彼は去っていった。
「ゴメン」、と、一言の台詞を残して。

それが、あたしと彼との関係の終わりだった。

 

少しだけ憂鬱な気分で、あたしはエレベーターを降りる。
誰もいない家の、玄関の鍵を開けて中に入り、部屋の明かりをつける。
リビングのソファの上に、バックとワインを無造作に置く。
コートも手袋も身に着けたまま、あたしは、キッチンの棚からシャンパングラスを一つだけ、リビングへと持って行った。
ソファの前にある、小さなガラスの天板のサイドテーブルに、グラスを置く。
コートは着たまま、手袋だけを外して暖房を付けると、あたしはカーペットの上に座った。

彼と別れた後に買ったシャンパンを開けようと、あたしは右手だけをソファの上に伸ばす。
右手がシャンパンの瓶に触れる前に、何か小さなものにあたった。
取りあえずそれを掴んで、あたしは手元に引き寄せてみる。

「無駄に、なっちゃったわね」
彼に渡す筈だったプレゼントの箱を見て、あたしは自然と笑っていた。
きっとバックを置いた時に転がり落ちたにちがいない。
ソファの上で横に倒れているバックを見て、あたしはそう思った。

手元に残ったプレゼントのラッピングを、あたしは丁寧に解いていく。

プレゼントの腕時計を取り出して、あたしは目の前にそれをぶら下げて見た。
時計の針が、午後9時を回っている。
「キリストの誕生日なんて、キリストの身内だけが祝えばいいのよ。クリスマスなんて、あたしには関係ないわ」

サイドテーブルの上に腕時計を投げ出すように置くと、あたしはシャンペンを手に取って勢いよく開けた。
グラスにシャンペンを注いで、一気にそれを飲みほす。
空になったグラスを再びシャンペンで満たして、今度は一口だけ飲む。
「…自棄酒なんて、あたしも莫迦ね」

自嘲するように、あたしは微笑していた。

グラスを片手に持ったまま、あたしはリビングからベランダへ出る。
イルミネーションで輝く夜景が見える。
冷たい夜風と、張り詰めた空気が肌に心地良い。

ベランダに背を預けるように、あたしは体を反らしてみる。
そのまま何気なく、顔を横に向けた、その時だった。
あたしの目に、有り得ない光景が映り込んできたのは。

―…灰色がかった鹿…、じゃなくて、多分トナカイなんだと思う。
よくはわからないけど、とにかく、トナカイがあたしの方へ向かって空から降りてくる。
気のせいか、鈴の音まで聞こえるような…。

シャンパンの一気飲みが、きっと悪かったのだ。
あたしは、酔って幻覚を見てるに決まってる。
一度目を閉じて、それから目をもう一度開けば、何て事のないただの夜空が見える筈だ。

そう信じて、あたしは一旦瞼を伏せ、また再び、開けたのだけれど。
トナカイは消えるどころか、あたしの顔の前で立ち止まったのだ。
そして立ち止まっただけでなく、あろう事か、シャンパングラスに舌を入れて呑もうとしてるらしい。

「―…男山? ―…あぁっ! ダメだって!!」
ただ、トナカイを見詰めるだけだったあたしの耳に、突然、若々しい男の人の声が聞こえた。
声のした方向に、あたしは体を向ける。
トナカイがソリを引いていて、その上でサンタクロースが手綱を握っていた。
どう見ても老人には見えない、20代の、青年の男の人だ。

自分が今見ている光景を信じられなくて、あたしは恐々と、トナカイに触ようと試みた。
トナカイの首筋に手を伸ばすと、そこには、しっかりとした動物の毛並みの感触がある。

あたしは、思わず叫んでしまった。
「何で生きたトナカイが、こんな高いトコにいるのよおおぉっ!!」

あたしの声で、トナカイが一瞬、その身を縮ませる。
サンタの男の人がトナカイを前進させて、ソリがあたしの正面にくるように止める。
「ゴメン。ビックリしたよな」
そう言いながら、サンタさんは、ベランダの手摺りに足をかけて上がると、そのまましゃがみ込む。

あたしはサンタさんの顔を少し見上げるように見て、取り敢えず頷いた。
「―…サンタさん…と、トナカイ…さん?」

あたしの困惑が伝わったんだと思う。
サンタさんがベランダの中へと下りてきたのだ。
彼がベランダに下りてくる瞬間、彼の首にかかっているロザリオが、大きく揺れていた。

あたしは、それをどこかで見たことがあるような気持ちになっていた。

サンタさんが、一歩後に下がるようにして、あたしの正面に立つ。
「ああ、その通りだよ。そうは見えないかもしれないけど、一応本物だからな」

「サンタクロースは、絵本だけのお話じゃないの?」

サンタさんが笑った。

「サンタが実在することに、世間が気付いてないだけさ。第一、こいつらの姿が

見える人間は、滅多にいないしな」

トナカイの背中を、サンタさんがなでる。

 

「姿が見えない。だから、何をやっても構わない、なんて理由はないからな。男

山…、いや、トナカイの暴走、制御出来なくて、ホント、悪かったな」

 

そう言って、再び謝るサンタさんの態度に、あたしはいつの間にか、心を緩めて

いた。

「サンタさん」

「どうした?」

「あたしを驚かせて、悪かった、ってホントに?」

「ああ。ホントだ」

「だったら、ホントに少しの間でいいの。ほんのお詫びだと思って、あたしと一

緒にいてよ? ―…一人きりのイブなの」

 

少しの沈黙が降りる。

サンタさんが、微笑した。

「そうだな。驚かせたお詫びはしなきゃな」

 

そう言って、サンタさんは、高く口笛を鳴らした。

男山という名前らしいトナカイが、サンタさんの立っている場所にソリが止まる

よう、移動する。

ベランダを乗り越えて、ソリの上に戻ったサンタさんが、あたしに向かって、右

手を伸ばしてきた。

 

「サンタクロースのソリに、乗ってみないか?」

 

サンタさんが、どこか懐かしい顔で破顔した。

 

男の人に気遣ってもらうことになんて、とっくの昔に慣れてしまっていた筈だった。
それなのに、サンタさんがあたしの腕に触れた時、あたしの心は騒いでいた。

「かなり寒いけど、それは我慢してくれよな」
あたしをソリの一番前に立たせて、サンタさんが、あたしの顔を見下ろすように見る。
手綱を握る彼の腕の中に、あたしは、いつの間にか、立っていた。
何か言わなきゃ、と、あたしは返事をしようとしたんだけれど。
結局あたしは、彼を見上げて、ただ頷く事しか出来なかった。

頷くあたしを見て、彼は、あたしが寒さを堪えているのだと思ったんだろう、と思う。
だけどホントは、寒さを堪える必要なんてなかった。
あたしの背中から伝わってくる彼の気配に、あたしは苦しいくらいに胸を高鳴らせて、頬をほてらせていたのだから。

「下、見てみろよ。夜空見るより綺麗だぜ?」
ソリを走らせながら、彼が言った。
あたしは言われた通りに下を見る。
眠らない街のイルミネーションが、ソリの遥か下の方できらめいていた。
まるで、夜空の星が水面に映って、お互いに反射しあって光っているみたいに、それはキラキラと揺れている。

「きゃああぁ! すご〜い! 綺麗〜!」
あたしは、思わず彼の腕を掴むと、自分の身をソリの外へと乗り出した。
「うわっ! ―…おい、落ちんなよ」
「―…ゴメン、ありがとう」
彼があたしを、片手で彼の胸元へと引き寄せる。
彼に寄り添いながら、あたしの胸はまた、息も出来ないくらいに高鳴り始める。
彼に、この動悸が伝わっていたら…。
そう思いながら、あたしは彼の袖を引っ張った。

「…ねぇ」
「どうした?」
「サンタさんの本名、教えて? あたし、サンタさんのこと、ちゃんとサンタさんの名前で呼びたいの」
「俺の名前? ―…ミロク。魅録だよ。…それより、あんたの名前は? あんたの方こそ、あんた呼ばわりされるのなんて嫌だろ?」
彼はソリを止めると、あたしの顔を見た。
「あ、あたしは可憐よ。可憐って、呼び捨てでいいわ」
自分の中ではクールに答えるつもりだった。
だけど、あたしの口から発せられたその声は、あたしが予想していたものよりも、ほんの少しだけ高い声だった。

「―…OK。可憐、でいいんだな?」
ゆっくりと、彼が、またソリを走らせ始める。
あたしは彼の服を掴んで、そのまま寄り添う。
彼が身に着けているロザリオが、あたしの髪に絡んでいく。

「やっぱ寒いよな? そろそろ、戻るか?」
少しだけ顔を下に向けて、彼があたしに尋ねてくる。
「ううん。大丈夫。寒くないわ」
あたしは、彼を見上げるようにして、その顔を見詰めた。
「―…戻らなきゃ、ダメよね?」
「…これ以上外にいたら、可憐が風邪をひいちまうからな」

少し困惑したような顔で、彼が笑った。
だから、あたしは、ただ、こう答える。
「そうね。もう戻りましょう。ゴメンね? 魅録、お仕事しなきゃいけないのにね。付き合ってくれて、ありがとうね、魅録」
そう言いながらも、あたしは、どこかに心を残したままだった。

だけど、そんな気持ちのあたしに、彼は笑ってくれた。
「いいさ。可憐が楽しかったら、それで、いい」
「…誰かを幸福にするのも、サンタクロースの仕事…、だから?」
だから、あたしも笑顔を作った。

彼が、あたしを見詰める。
「いや。サンタだからじゃないな。サンタとしての俺じゃない、単なる俺自身が、可憐を喜ばせたかったんだ」
「…ホント? ホントなの、魅録?」
「ああ。ホントだ」

彼が、はにかんだように言葉を続ける。
「でも、そんな事どうでもいいだろ? ―…あっ。空見てみろよ、可憐。綺麗だぜ?」
彼は、話をはぐらかせるために、そう言ったんだと思う。
だけど、その時あたしが見上げた空は、紛れも無く、本当に綺麗な夜空だった。

「―…き…」
「えっ?」
「―…雪…。雪が、降ってるわ! 魅録!」

 

その光景はまるで、空から白い花が流れ落ちて来るみたいだった。
よく見ると、雪の花は、ゆっくりと回転しながら空を舞っている。
雪に両手をかざしたら、掌に触れた瞬間、溶けてなくなってしまった。

「ホワイトクリスマスだな」
そう言って、彼があたしの体に回していた腕を解いた。
「この方が、濡れなくていいだろ」
あたしを上着の中に包み入れて、彼がそっけなく言った。
あたしはただ、頷く事しか出来なかった。
再び、あたしの体に回された腕が、暖かい。

彼の腕の中で、あたしは、「このまま時が止まれば…」と願っていた。
だけど、ソリはゆっくりと走る速度を落としていく。
彼と、もう一度出会えるかどうか、なんて事はわからない。
そう思ったら、すごく淋しい気持ちになってしまう。

あたしが、ふと気付いた時にはもう、ソリは、あたしの部屋のベランダの前で止まっていた。
あたしをベランダの中に降ろしてから、彼があたしを見る。
「目、閉じて」
「えっ?」
「いいから。目、閉じろよ」

彼に言われた通りに、あたしは目を閉じる。
あたしの肩に、何かが触れる感じかする。
それから、あたしの額にも、何か、柔らかくて、少し冷たい感触が…。
「―…魅録? 今、キス…」
目を閉じていろ、と彼に言われた事も忘れて、あたしは彼を見詰めてしまう。
「…それ、可憐にやるよ。ダメじゃねーか。目、閉じてろって言っただろ?」

あたしの胸元を指差して、彼が、照れたように目線をそらす。
自分の胸元へと、あたしは視線を向けた。
彼の胸元で、絶えず揺れていたロザリオが、あたしの首にかけられている。

あたしは、それを両手で包み込んで、彼を見上げた。「ありがとう…」
「クリスマスだしな。…サンタから、―…いや。俺からのプレゼントだ」
そう言いながら、彼は既にソリを走らせ始めていて。
少しずつスピードを上げていくソリの上で、彼は、被っている赤い帽子を脱いでいく。
彼の、ピンク色をした髪に、雪が降り注ぐ。

彼が、あたしを見たまま、破顔した。
「じゃあな! ―…次は、頑張れよ!!」
「って。えぇっ? うそおぉっ〜!」
もう、とっくに遠ざかってしまったソリに向かって、あたしは叫んでいた。

ピンクの髪の、ロザリオを身に着けたサンタさんの姿が、イブの夕方に入ったカフェの、ギャルソンの姿と重なる。
あたしは、首にかけられたロザリオにキスをした。
「…何よ。あたしがふられた事知ってたんじゃない」

あたしは、ベランダから空を見上げた。
夜空の星が、白く光って流れていくみたいに、白い雪が、零れ落ちていく。
少しずつ、少しずつ、周囲を白く輝かせていく雪を見詰めながら、あたしは想いを巡らせる。

プレゼントのお返しは何がいいのかしら…、と…―。

 

 

 


END


 

恋人がサンタクロース♪な話を書きたかったらしいです。
あまりにもベタラブなネタすぎて、かなりこっぱずかしいです。拙いファンタジーですが、お読み下さいましたみなさま、ありがとうございました。

作品一覧

 背景:壁紙工房ジグラット様