第七話
自慢の息子に、眩暈を起こしそうなほど下手糞な字で「ゆうり せんよう」と描かれた僕は、密かに復讐を決意していた。 描かれた直後、大急ぎでシャワールームに飛び込み、石鹸をたっぷり泡立てたスポンジを使い、必死になって息子を洗ったものの、皺の内部にまで入り込んだ油性ペンは、なかなか落ちず、結局、諦めざるを得なかった。 しかも、悪いことに、ごしごし洗われた息子は薄皮が擦り剥け、ひりひりと痛む。ここでタ@ガーバームでも塗ろうものなら、地獄の責め苦に似た苦痛を味わうだろう。 これで落としきれなかった油性ペンにかぶれたら、泣くに泣けない。 悠理は、文字を消されたことが許せなかったらしく、僕が息子に傷薬を塗る様子を見ながら、不満げに頬を膨らませていた。 その、身勝手で自己中心的な姿を見て、僕は復讐を決心したのだった。 夕食後、ある程度まで痛みが治まると、僕は即効で悠理を押し倒し、敏感な部分に、執拗な愛撫を施した。復讐目的+個人的嗜好の相乗効果で、普段よりも激しい愛の営みが繰り広げられ、悠理は何度も達し、やがて意識が朦朧としはじめた。もう、僕にされるがままの状態である。 悠理の名を呼んでみて、半ば意識がないのを確かめる。 そして―― 僕は、ぐったりとした悠理をうつ伏せにし、油性ペンを手に取った。 キャップを噛んで外し、書道よろしくペンを悠理の背に走らせる。 大胆かつ流麗に、白く滑らかなキャンパスに文字を描いてゆく。 そして、完成品を前に、僕は満足の息を吐いた。 生涯 夫一筋 生涯 夫一本 ざまあみろ、だ。 まるで子供のような復讐を遣り遂げ、満足した僕は、そのままベッドに引っ繰り返って、健やかなる眠りへと落ちていった。 朝である。 僕は、背中にむず痒さを感じ、極上の眠りから醒めた。 腰のあたりが重い。使いすぎで重いのではない。物質的に重いのだ。そして、その重みには覚えがあった。 悠理が、うつ伏せの僕の上に乗っかっているのだ。 僕は、はっとした。 昨夜、復讐を遂げた際、悠理は半ば気を飛ばしていたものの、失神はしていなかった。 それに気づいて、慌てて悠理を振り落としたときには、既に遅かった。 「な、なんですか!?これはっ!!」 合わせ鏡で、背中に描かれた文字を見て、僕は卒倒しそうになった。 ゆうりに ゾッコンLAVE 今どき、ゾッコン。 しかも、小学生ですら知ってるスペルを間違えている。 LAVEではない。LOVEだろうが! いくら愛する妻とはいえ、地球の裏側まで届きそうな馬鹿っぷりに、不覚にも涙が溢れそうになった。 悠理の脳味噌は、マントルを突き破って、ブラジルまで抜けている。 彼女を愛したときから、覚悟はしていたつもりだが、夫の背に「ゾッコンLAVE」なんて、いくらなんでも酷すぎるだろう。 この時点で、僕は自分の行動を思いっきり棚の上に上げている。 悠理に言わせれば、新婚ほやほやの妻の背中に「生涯 夫一筋 生涯 夫一本」と描く夫のほうこそ、極悪人であろう。 罵りあう気力もなく、僕はがっくりと項垂れたまま、ベッドを這い出た。 ふと見れば、主は項垂れているのに、息子は元気いっぱいに顔を上げて、存在を主張していた。心配していた皮膚のかぶれもないようだ。 だが、今は、そんな息子が恨めしくて仕方なかった。 とりあえず振り返り、ベッドの上で、してやったり、と言わんばかりに笑っている悠理と向かい合う。 「悠理・・・ひとつ提案です。」 「何だよ?」 「言いたいことは山のようにあるでしょうが、ここは一時休戦して、互いの背中を洗い合いませんか?」 悠理は歯を剥き出しにして、顔を顰めた。 「やだっ!誰がお前の背中なんて洗ってやるもんか!」 不貞腐れたようにベッドを転がり、こちらに背を向ける。 白い背中いっぱいに描かれた「生涯 夫一筋 生涯 夫一本」の文字が、この喧嘩の馬鹿馬鹿しさを象徴していた。 そう思う僕の背中には「ゆうりにゾッコンLAVE」。 どっちもどっちというか、どっちも最低である。 僕は深々と溜息を吐き、両手を腰に当てた。 制服を着ていれば決まるポーズだが、素っ裸でやると、恐ろしく情けなくもあり、かつ、息子が元気なので変態っぽいと思ったが、習慣というものはなかなか抜け切れぬ。悠理を叱るときは、いつもこのポーズなのだ。 「今日、悠理のクラスは体育の授業がありますね?その背中のままで着替えるつもりですか?」 悠理の肩がびくりと揺れる。 「それに、悠理がしてくれないなら、メイドの誰かに背中を洗ってもらわなければなりません。何しろ背中に油性ペンですからね。とても自分ひとりでは落とし切れません。」 今度は、上半身ぜんたいがふるふると揺れはじめた。 「僕の入浴に、メイドをつき合わせるのは不本意ですがねえ。悠理が洗ってくれないなら、仕方ありませんよね。」 そんなことをしたら、百合子夫人の逆鱗に触れるのは眼に見えている。これは、あくまでも悠理を篭絡するための作戦である。 しかも、作戦が成功すれば、背中に描かれた馬鹿の証明が消えるだけでなく、僕の密かな野望「新妻と一緒に入浴」も同時に叶えられる。 悠理が、ぎゅ、と身を丸める。 「あたいはこのまんまでもいいもん!お前は可愛いメイドに洗ってもらえばいいじゃないか!」 声音から、涙を堪えているのだと見当がついた。 意地悪が過ぎたか?と心配になり、ベッドに身を乗り上げて、震える肩に手を置く。 「ねえ悠理?機嫌を直して、背中を洗いあいっこしましょう?ね?」 逸らされた頬に、キスを落とす。 同時に、肩に置いていた手を滑らせ、細い腰から腹部にかけてを、優しく撫でた。 「・・・お前の背中なんか、絶対に洗ってやらない・・・」 掠れた声が、情欲の熱を帯びはじめた。 僕は悠理の全身を撫でながら、耳元で、機嫌を直してください、と囁きつづけた。 悠理が変化するにつれて、さらなる元気が、息子に漲ってゆく。 女体の反応はいたって良好である。調子に乗った僕は、薄い繁みに掌を這わせ、恥丘をやわやわと揉んだ。ほぼ同時に、悠理のくちびるから、気持ち良さげな吐息が漏れる。 白い腕が、僕の頭を絡め取り、キスをねだる。 くちびるを重ね、舌を絡め、ついでに下肢も絡める。 濃厚で、ねっとりとした時間を、二人で分かち合う。 見た人間が逃げ出すほどの、熱いひとときだ。 しかし―― 二人の背には、でかでかと馬鹿な文字が刻まれているのだ。 もしも、この現場に踏み込まれたら、見た人間は、抱腹絶倒のあまり死ぬかもしれない。 まずは、背中の文字を消すのが先決である。 僕は悠理を抱き起こし、正面からぎゅっと抱きしめた。 「悠理・・・悪戯書きをして、すみません。」 そして、桃色のくちびるに、軽いキス。 「僕は、悠理の真っ白い身体の虜なんですよ?だから・・・」 今度は、鎖骨と乳房の間に、キスを落とす。 「貴女の身体を綺麗にする光栄を、僕に与えてください。」 悠理は真っ赤になりながら、こくん、と頷いた。 視線が絡む。自然と顔が近づき、舌が絡む。 そんな二人の背中には、「生涯 夫一筋 生涯 夫一本」「ゆうりにゾッコンLAVE」。 想像しただけで、情けなさのあまり涙が出そうになったが、悠理の手前、ぐっと堪えた。 機嫌が直った悠理の手を取り、ベッドから降りる。 悠理の機嫌が良いうちに、早いところ背中の文字を消さなければ。 そして、互いの背中が綺麗になったら、次は息子を満足させてやろう。 泡に塗れた身体を擦り合わせる光景を想像しただけで、背筋に甘い痺れが走る。 僕は、悠理の手を引いて、バスルームへと向かって歩き出した。 「悠理〜 清四郎く〜ん!お土産を買ってきたよ〜!」 剣菱家のあらゆるドアは、指紋認証システムを導入している。 夫婦の部屋は、ゲストルームを改装したもので、そのゲストルームのドアは、まだ認証システムを変更しておらず、家族のほかに、限られた使用人も、ドアを開けられるようになっていた。 開いたドアの向こう側から、凡々とした風貌の豊作さんが現れた。 僕と悠理は、ドアに背を向けた状態で、首だけを捻じ曲げて、豊作さんを見た。 豊作さんの手から、大きな枕が抜け落ち、絨毯の上でバウンドした。 僕は、我が目を疑った。 何しろ、豊作さんが落としたのは、絶滅危惧種・YES NO枕だったのだから。 今どき、YES NO枕!? しかも、それが土産だと!? 海外出張と聞いていたが、いったいどこへ出張していたのだ!? しかも、帰って来るのが早すぎるではないか!? 脳内に、疑問の嵐が吹き荒れた。 しかし、豊作さんのほうも、我が目を疑ったに違いない。 裸の妹夫婦の背中に記された、とんでもなく馬鹿っぽい文字を見て。 凝固した僕たちと、豊作さんの間に、鉛より重い空気が流れた。 その後、豊作さんが、僕たち夫婦の部屋に乱入することは、二度となかった。
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背景:壁紙工房ジグラット様