12. いつもの夢の中で。 清四郎は、当然の如く、悠理と乳繰り合っていた。 しつこいほど繰り返される愛撫によって、悠理の肌は艶やかな薄桃色に染まり、清四郎が愛して止まない乳首は、色も、形も、食べ頃のサクランボのように、赤く、丸く、思わず齧りつきたくなるほど美味しそうに熟れていた。 清四郎が無我夢中で弾力に富んだ果実を味わっていると、突然、悠理が身体を離した。 何ごとかと思う間もなく、悠理が一糸纏わぬ裸形のまま駆け出して、暗闇の中に、忽然と出現した人物に抱きついた。 その人物は、悠理をしっかりと抱きとめて、柔らかな猫っ毛に顔を埋め、愛しげに頬擦りをした。 清四郎は、男の顔を見て、あっと声を上げた。 男は、なんと七賢尚也だったのだ。 尚也も二人と同じく全裸である。そして、裸の悠理を、余すことなく両手で弄っている。 悠理は尚也に乳房を揉まれながら、清四郎を振り返って、言い放った。 「じゃあね、清四郎。これからは、お前じゃなくて、尚也に可愛がってもらうよ。」 尚也の手が、清四郎の執着の源である、白くてむっちりした乳房を、ゆっくりと揉む。 悠理は、尚也の手に自分の手を添え、ああん、と甘い声を漏らしながら、腰をくねらせている。 ―― 駄目です!悠理!お前は、僕のものです!戻ってきなさい!! しかし、悠理は戻らない。尚也に乳房を揉ませながら、恍惚とした表情で、清四郎を見つめているだけだ。 尚也の手が、滑らかな腹を滑り、女の聖域へと伸びる。 まだ、清四郎でさえ触れたことのない、未開の処女地へ。 「止めなさいっ!!悠理のクリ@リ@をクニクニできるのは、この菊正宗清四郎だけしかませんっ!!」 清四郎の大絶叫が、爽やかな朝を迎えていた、菊正宗家のダイニングにまで響き渡り、コーヒーを飲んでいた家族たちは、揃って褐色の液体を噴出した。 いよいよ最終決戦というのに、夢見が著しく悪かったせいで、気分は最低の最悪だった。 朝食の際も、自分でない男に抱かれて喘ぐ悠理と、勝ち誇ったような尚也の姿が、脳裏にありありと甦り、怒りのあまり何も咽喉を通らない。が、朝食は一日の要である。頭の回転も、朝食を摂る摂らないで、ずいぶん違う。万全の体調で勝負に挑むため、頑張って食物を口に詰め込み、ミルクで咽喉の奥に流し込んだ。 歯を磨き、ぴしっとスーツを着て、完璧に準備を整える。 それから、家族とともに車へ乗り込むと、革張りのシートに身を預け、精神を統一するために、眼を閉じた。 この一週間、プロの棋士について基礎から習い直し、勝利するためのノウハウを頭に叩き込んできた。野梨子にも手伝ってもらい、七賢尚也が過去に対戦した棋譜から、彼の癖や弱点を割り出して、徹底的に研究もした。しかし、尚也とて、この七日間、ぼんやりとしているわけがない。向こうも清四郎を研究しているだろうから、条件は同じである。 分析の結果、腕は互角。勝負の行方は、分からない。 あとは、どちらが先に勝利の女神を振り向かせるかにかかっていた。 対戦会場となる、剣菱邸の純和風離れに着く。 が、離れといっても、そこは剣菱。ちょっとした旅館以上の広さはある。 両親は、万作夫妻のところへ挨拶に行っている。ゆえに、清四郎はひとりだった。 玄関の引き戸を開け、中へ入ろうとしたところ、正面の襖がすっと開いて、そこから仁王立ちした悠理が現れた。 「ゆう・・・って、何ですか!?」 悠理は、清四郎の襟を掴むと、問答無用の勢いで、襖の奥へと引っ張り込んだ。 ぴしゃん!と、鋭い音を立てて閉まる襖の前で、黒い革靴が所在なげに転がり、上がり框から、ぽとりと落ちた。 清四郎が引っ張り込まれたのは、三畳ほどの小さな和室だった。 明かりは点いておらず、直前まで明るい場所にいた清四郎の眼には、闇しか映らない。 訳は分からないが、悠理相手に手荒な真似も出来ず、清四郎は戸惑いながらも彼女に声をかけようとした。 口を開きかけた、まさにその瞬間。 清四郎のくちびるに、柔らかいものが押し当てられた。 見えなくても、感触に覚えがあった。 反射的に悠理を抱きしめ、清四郎のくちびるを塞ぐ、彼女のくちびるを割って、舌を挿し入れた。 「ん・・・」 悠理が小さな声を漏らし、口腔を嬲る男の舌に、自分の舌を絡めてきた。 くちづけは、さらに深くなり、二人は貪るように舌を絡めあった。 一週間ぶりのキスが、ようやく終わる。 その頃には、清四郎の眼も、すっかり闇に慣れていた。 悠理は、清四郎の背中に両手を回して、胸に頬を寄せている。清四郎は、ふわふわの髪に顔を埋めて、懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 「・・・清四郎、お前、絶対に勝てよ。」 腕の中で、悠理が、ぶっきらぼうに呟く。 「それで、勝ったら・・・あたいに、ちゃんと言えよ。」 何を言っているのか分からず、え?と聞き返すと、悠理は清四郎の胸を、どん、と叩いて、頬をぶう、と膨らませた。 「ちゃんと「好き」って言ってくれなきゃ、えっちどころか、指一本も触らせてやらないからな!」 そう。 神の啓示とか、天が決めた運命とか、曲げてはならぬ摂理とか、色んな理由をつけて、悠理は自分のものだと公言してきたけれど、結局、清四郎は悠理に恋をしているのだ。 自信過多で、恋愛を馬鹿にしていた。そのくせ、独占欲に踊らされ、あらぬ妄想を繰り返してきた。帰結するのは、可笑しくなるくらい悠理を愛してしまっているという、シンプルな理由だったのに、それを認めたら負けるような気がして、今まで必死に否定してきた。だが、それもそろそろ限界のようだ。 清四郎は、悠理の頬を両手で挟み、そっと上を向かせた。 「悠理、僕は―― 」 言いかけたとき、襖の向こうで、玄関の引き戸が開いた。 隠れる必要はないような気もしたが、場の空気で、思わず黙り込む。 二、三人が、玄関に入ってくる気配がして、その中の一人が、おや、と声を上げた。 「どうして片方だけ靴が転がっているんでしょうね?」 「剣菱のお嬢さんは猫を飼っているそうだし、そいつらが悪戯をしたんじゃないか?」 腕の中で、悠理がむっとする。 『タマとフクは、悪戯なんかしないやい!』 発声せずに、息だけで文句を言って、歯を剥く。 もちろん、襖の向こうにいる相手は、気づいていない。 「まあ、いい。早く中に入ろう、尚也。」 「はい。」 「!!」 最後の対戦相手と、襖一倍隔てた場所で、清四郎と悠理はひしと抱き合い、ともに息を殺した。勝負の前に、挑戦者である清四郎と、戦利品である悠理が、暗い密室に二人きりでいると知れたら、さすがに具合が悪い。 尚也と、尚也の両親らしき一行は、二人に気づくことなく、和やかに言葉を交わしながら靴を脱ぎ、廊下の奥へ向かおうとしている。 清四郎は、彼らの様子を窺おうと、襖の僅かな隙間に、顔を寄せた。 その瞬間。 酸っぱいような、甘いような、苦いような、辛いような、とにかく鼻が曲がりそうな匂いが、鼻腔の粘膜を直撃した。 『どわああっ!!』 清四郎は、声なき悲鳴を上げて、もんどりうった。 七賢一家は、鼻を押さえて悶え苦しむ清四郎に気づかず、離れと奥へと去っていく。 『清四郎!?どうしたんだよ!?』 悠理が声を殺したまま、清四郎を抱き寄せた。 その、決して豊かではないが、むっちりとした乳房に顔を埋め、必死に悠理の匂いを嗅いで、深呼吸する。しかし、石鹸の匂いと、女性独特の妙香が、強烈な悪臭にひん曲がった鼻腔に届くまで、けっこうな時間がかかった。 しばらくして、何とか落ち着いたが、清四郎の顔からは完全に血の気が引いていた。 ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、清四郎は、慄きの声を漏らした。 「あれは・・・殺人兵器です・・・!!」 対戦会場である、奥の間に入る前から、色がついていそうな空気を感じていた。 その色を、喩えて言うなら、ドドメ色。それも、通常の空気より、重量と粘り気がある。 悠理や百合子もそれに気づいているのか、眉間に深い皺が刻まれている。後ろに続く修平たちも、顔色が著しく悪い。唯一、気にしていないのは、肥え溜めに慣れ親しんでいる万作だけだ。 が、その万作も、奥の間の襖に手をかけたとき、うっ、と短く呻いて、そのまま動かなくなった。見れば、少しばかり生え際の後退した額から、脂汗が垂れている。 固まった夫の代わりに、意を決した百合子が、青白い顔を正面に向けて、襖に手をかけた。そして、一気に、襖を左右に押し開いた。 それは、ぷ〜〜ん、などという、生易しい表現ではとうてい表せない。 どどーん、というか、だばーん、というか、とにかく憂鬱なドドメ色が、東@映画のオープニング映像の白波よろしく、一斉に押し寄せてきたような、そんな光景が臭気になったと思っていただきたい。 「あぐうっ!!!」 悠理が、臭気から逃れようと、仰け反って後ろを向く。が、すぐに百合子の手が伸び、悠理は無理矢理に正面を向かされた。 「対局を前に、失礼ですよ。」 さすがは世界の剣菱。百合子と万作は、蒼白になりながらも、平静を保っている。清四郎も、ここで負けてなるかと必死に表情を作っているが、本当は、今すぐにでも逃げ出したかった。 臭気の源―― 七賢親子は、三人並んで正座をし、恭しく一礼をしてから、立ち尽くしたままの剣菱親子と菊正宗親子を見上げた。 「はじめまして。七賢幸之助と申します。これは妻の安喜子、そして、これが息子の尚也です。」 父の幸之助と、息子の尚也は、あまり似ていない。どちらかといえば、尚也は安喜子に面差しが似ている。体型にいたっては、細身の尚也は、肥えた両親のどちらにも似ていなかった。 だが。 この親子三人には、決定的な共通点があった。 父、母、息子。 三人が三人、強烈なワキガだったのだ。 清四郎は、脂汗をかきながら、七賢親子を見た。 そして、毛利元就の、有名な教えを思い出す。 ―― 一人のワキガは我慢できても、三人のワキガが揃うと、洒落にならないくらい強烈になって、我慢できなくなる。 明らかに、教えも、意味も、違う。 まあ、三矢の教えは置いておいて、七賢親子三人のワキガは、相乗効果のせいで、とんでもなく臭くなり、刺激臭のレベルを超えて、毒ガスの域に達していた。鼻腔をつんつん突くだけでなく、眼まで痛くなって、さらには意識まで霞んでしまうのだ。人体が放つことのできる悪臭の中でも、彼らのワキガが最高レベルであるのは確実だった。 七賢親子は、さすがに慣れているのか、それとも発生源ゆえにまったく気づいていないのか、けろりとしている。 だが、清四郎をはじめ、剣菱と菊正宗の家族や、対局の記録係は、全員が全員、額から脂汗を流して、失神せぬよう必死に意識を維持していた。 勝負の前に、ニギリで先手を決める。 棋力は互角であるから、置き碁などのハンデは一切ない。 あまりの臭気に意識が遠のいていた清四郎は、ニギリを当てられず、白番になってしまった。囲碁は先に打ったほうが有利になるため、後手の白番は不利である。心の中で舌打ちしながらも、表面では平然とした態度を装い、いざ勝負に挑む。 囲碁とは、陣地を取り合うゲームである。 白黒の石を、縦19路、横19路の碁盤の目に、交互に打ち合い、領地を増やしていくのだ。主な戦略は、自分の陣地を広げることで相手の陣地を縮めるか、または相手の領域を侵略していく方法のどちらかだ。清四郎は前者の手法をよく使うが、野梨子が得意とするのは後者で、手堅く守っていると見せかけながら、涼しい顔で、巧妙に相手を追い詰めていく。 しかし、尚也は、そのどちらでもない。 尚也の必殺技は―― 強烈なワキガで、相手を朦朧とさせるという、反則スレスレの卑怯なものだ。 しかし、まあ、囲碁のルールブックに、ワキガ技に対する記載などありはしないだろうから、反則に当たるのかは不明であった。
ぱちり、ぱちり、と、石が碁盤を打つ音が、座敷の空気を静かに震わせる。 その、石を置くだけの、微かな空気の流れで、強烈な臭気が薄くなったり、濃くなったりするのだから、堪らない。 開始早々、修平たちが消え、五分後、後を追うように和子が消えた。万作と百合子は必死に我慢をしていたが、三十分後、とうとうギブアップして、這うようにしながら退出した。 残されたのは、何が何でも退出できない記録係と清四郎、そして七賢親子と、悠理だけとなった。 勝負のほうは、清四郎がじりじりと追い詰められていた。 しかし、それも致し方ない。何しろ、こってりと濃厚なワキガのせいで、まったく集中できないのだ。 ぱちり、と尚也が黒石を置き、清四郎を見て、にやりと笑った。 その一手は、清四郎にとって、とてつもなく苦しい展開を齎すものだった。 だが、いくら対抗策を考えようとしても、ワキガのせいで意識が眩み、集中できない。 ここまでか―― 諦めかけた清四郎の脳裏に、ふっと名案が浮かんだ。 「済みませんっ!トイレに行かせてください!」 清四郎は、すっくと立ち上がると、何故か悠理の手を掴んで、座敷を飛び出した。 そして、先程の小部屋へ悠理を連れ込み、後ろ手で襖を閉めるなり、低い声で命令した。 「悠理・・・ブラジャーを外しなさい。」 「はあ?」 頓狂な声を上げる悠理。清四郎はその肩をがっしと掴み、顔を接近させて、もう一度、ブラジャーを外すよう命令した。 「いやだよ!なんであたいがブラを外さなきゃいけないんだよ!?」 「僕に勝って欲しいのでしょう!?ならば、今すぐブラジャーを寄越しなさいっ!」 「いやだってば!この、究極の変態っ!」 「その変態に乳首を舐められて喘いでいたのは、どこの誰ですか!?」 「それを今言うなああああっ!!」 「いいから、ほらっ!」 「何すんだよ!?えっち!変態っ!あっ、そんなとこ触ったら・・・ああんっ・・・」 そして―― 対戦会場に戻った清四郎を見て、七賢親子は僅かに眉を顰めた。 清四郎の口元が、一昔前の銀行強盗よろしく、三角折りのハンカチで覆われていたのだ。 が、彼らは知らない。 ハンカチの中に、悠理の外したてブラジャーが仕込まれていることを。
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素材:イラそよ様