3.

 

 

 

真っ赤な顔で憮然とする悠理が、左頬が腫れて人相の変わった清四郎に引き摺られながら向かった先は―― なんと、万作夫妻のプライヴェートルームだった。

 

「おじさん!おばさん!お嬢さんを僕にください!!」

 

のんびりと昆布茶を啜っていた夫妻は、顔半分が倍になった清四郎に驚く暇もなく降って湧いた許婚話に、あんぐりと口を開けたまま、フリーズした。

その間、かっきり七秒。そして八秒後、万作と百合子の金縛りは解けた。

夫婦は互いの理解力を確かめるかのように、顔を見合わせた。清四郎が、そこにずずいと進み出て、がばりと勢いをつけて土下座した。

「悠理さんが僕以外の男性と結婚するなど、パンダがユーカリの葉を食べるよりも有り得ないことです!彼女と一緒になれるのは、全宇宙の中で、僕だけです!お願いですから、今すぐ!たった今!この瞬間に!僕たちの結婚を認めてください!!」

ニュートンが発見した万有引力を超える勢いで頭を下げたため、清四郎の額は、見事、敷居と激突した。

 

茶の間に、がき、と凄い音が響き、清四郎の真後ろにいた悠理が、ぎゃあ、と踏み潰された猫のような悲鳴を上げた。

悠理は慌てて清四郎の前に回り、彼の顔を覗きこんだ。

幸いにも、血は出ていなかったものの、彼の秀麗な額には、敷居の溝の形が二本、くっきりと刻印されていた。

それを見て、悠理は思わず吹き出しかけたが、清四郎の真剣な面持ちに気圧され、すぐに笑いを引っ込めた。

 

夫妻も、清四郎の鬼気迫る形相に、嘘偽りのない本心を見抜いたのであろう。万作は、ふう、と大きく息を吐くと、大振りの湯呑を座卓に置いて、清四郎に鋭い視線を向けた。

「おめえ、本気だな。それで、もう悠理とは深い仲だべか?」

「全っ然深くない!浅すぎて、すぐにでも乾き切っちゃうくらいの仲だよ!!」

悠理が慌てて否定をしたが、誰も取り合ってはくれなかった。

それにしても、仮にも幼馴染に対して、自分とは水溜り以下の仲だと言い捨てるなど、いくら切羽詰っているとはいえ、酷い言い草である。

「はい。僕たちは、何者にも断ち切れない、深くて太い絆で結ばれています。」

清四郎が大きく頷く。そして、悠理が頭をぶんぶんと左右に振る。

「嘘つけー!!あたいと清四郎の絆なんて、切れ目が入ったトイレットペーパーよりも切れやすくて、ハゲオヤジの産毛くらい儚いじゃないかーーー!!」

どさくさに紛れて、酷い喩えを連発する悠理。

しかし、馬鹿娘の訴えなど、夫妻と清四郎の耳には、まったく届いていなかった。

 

百合子が、清四郎に鋭利な視線を向けた。流石は百合子、般若顔負けの迫力である。しかし、清四郎も負けてはいられない。真剣な面持ちで、百合子の視線を真正面から受け止めた。

ただし、額に敷居の筋がついたままなので、非常に間抜けではあったが。

 

「貴方、どうしても悠理と結婚がしたいの?」

凄味のある低い問いに対して、清四郎は大きく頷いて返した。それを見た百合子の眼が、きっかり三ミリ、細くなる。清四郎の一挙手一投足すら見逃すまいとする、観察者の眼差しである。

「何故?」

それは、大変にシンプルで、ストレートな質問だった。

しかし、単純ゆえに、頭の良い清四郎には答えられない。それ以前の問題として、自分の恋心を否定しているのだから、答えられるはずがなかった。しかも、相手は蛇や鬼に喩えられる、あの、あの、百合子である。ここで「神のお告げです」などと答えようものなら、どんな仕打ちを受けるか分かったものではない。

 

素直に好きと認めれば、この場も容易に乗り切れ、左頬に悠理の鉄拳がめり込むこともなかったろうに、つくづく恋愛に向かない男である。

 

清四郎は、ぐっと詰まったまま、腫れ上がった左頬をさらに赤くし、百合子から眼を逸らした。

そこに、悠理がトドメを刺した。

 

「清四郎ってばさあ、あたいのこと好きなんだよ。だからって、いきなりプロポーズなんて、普通はあり得ないぞ!」

 

ぼん!と、火を噴く音が、本当に聞こえそうだった。

清四郎の顔、手、首、露出した部分のすべてが、一瞬にして真っ赤になった。尋常でない赤面具合に、額に刻まれた敷居の痕も目立たなくなっている。

 

もの言わずとも、その激変っぷりが、すべてを物語っていた。

「あらまあ、そうなの!清四郎ちゃんってば、うちの悠理が好きだったのねえ。」

百合子が、ほほほ、と高らかに笑う。

「違います!僕は・・・」

「恥ずかしがらなくてもいいのよ!まあまあ、そうなのねえ。清四郎ちゃん、色恋に興味なんてないとばかり思っていたけど、やっぱり普通の男の子だったのね。」

百合子の笑声がいっそう高くなり、清四郎のか細い否定は見事に掻き消されてしまった。

 

笑声が止んだところで、今度は万作が難しい顔で、うーん、と唸った。

「清四郎くんの気持ちはよく分かったがや。でもなあ、悠理の婿候補は、もう五人まで絞り込んどるだ。彼らにも、そのことを伝えとるし、今さら清四郎くんを加えるのもなあ・・・」

「五人〜!?」

万作の呟きに、いち早く反応したのは、悠理であった。

「そんな!この前の婿選びパーティとは違うじゃん!!あのときは選び放題だったぶん、まだマシだけど、今度はそれもナシ!?どうして父ちゃんと母ちゃんが選んだ相手と結婚しなきゃいけないんだよ!?」

「一山幾らの中から選ぶより、選りすぐった中から選ぶのが、貴女も眼が疲れずに済むでしょう?」

「一山幾らって、あたいの結婚相手は、ジャガイモか何かかよ!?」

 

この母にして、この娘あり、である。

そして、父も、無論のこと、只者ではない。

 

「ジャガイモを馬鹿にするでねえ!!ホクホクしてうめえだけでなく、栄養もたっぷり、ドイツじゃ主食の偉い野菜だがや!そこらの役立たずより、よっぽど役に立つだ!」

 

剣菱一家は、清四郎の求婚を、ジャガイモ賛美に変えられる、もの凄い家族だった。

 

が、理不尽街道を一直線に突き進む清四郎も、彼らに負けず劣らず、凄かった。

 

「ジャガイモを主食にしているのは、ドイツだけではありません!アンデス地方でも古くから主食とされてきましたし、ジャガイモを主食とする国は、米を主食とする国の数を抜いて、第一位です!しかも、カテゴリーを「芋類」とすれば、その主食圏は、全世界に広がります!役に立つといえば、ジャガイモのビタミンCは熱に強く、加熱調理しても壊れにくいという、素晴らしい特製を持っています!」

「おお!そうだがや!!ジャガイモは素晴らしい!」

「加えて、ジャガイモは成長が早く、気候が温暖な長崎では、一年に三度も収穫ができます!こんな作物、他に例があったでしょうか!?」

「むっ!さすがはジャガイモ!只者じゃねえだがや!」

「ええ!日本では古来からサトイモが栽培されていましたが、江戸時代にジャガイモが伝わってからは、荒地でも育ち易いという特性が功を奏して、各地で栽培されるようになりました!もともと芋は、地下茎や根のデンプンが肥大したもので、世界では千種以上も存在します!その中で、ジャガイモは素晴らしき特長が評価され、現在の確固たる地位を獲得したのです!」

「むむっ!たかがジャガイモ、されどジャガイモ!なかなか侮れねえヤツだがや!!」

気がつけば、ジャガイモ談義に花が咲いていた。

 

 

その、予測不可能な展開に、不満を覚えたのは、他の誰でもない、悠理だった。

 

(著しくおかしいとはいえ)真正面から悠理に求婚した男が、舌の根も乾かぬうちに、ジャガイモについて熱弁を振るっているのだ。いけ好かないというか、もの凄く気分が悪い。何だか、異様に腹が立つ。

 

―― 好きなら、ずっとこちらを見ていればいいのに。

 

悠理は、眉根に深い皺を二本ばかり刻んで、清四郎を睨みつけた。

「おいこら!お前、あたいと結婚したくてここにいるんじゃないのかよ?なのに、なんでジャガイモについて熱く語ってんだ?いい加減にしておけよ!」

悠理の怒声に、清四郎が首を捻じ曲げて、振り返った。そして、くちびるを歪めて清四郎を睨む悠理を見て、ぽかん、と口を開けた。

 

その瞬間、清四郎の瞳孔がだらしなく開いたことなど、誰も知る由はなかった。

 

 

「いい加減にして・・・」

肘掛を掴む悠理の手が、小さく震えている。

その微かな動きすら可愛くて、清四郎の胸は大きく震えた。

煌く陽光も、レースのカーテンに濾過され、柔らかく乱反射しながら室内を照らしている。昼下がりの、穏やかな静けさを、庭を渡る風がさらに引き立てていた。

柔らかな光の中、悠理は、窓辺の椅子に裸体を預け、恥辱に耐えていた。

彼女は、清四郎に向かって、大きく足を開いている。普段は淡い繁みに隠れて見えない部分が、午後の光に照らし出され、妖しく光っていた。

「いい加減?何を言っているのですか?見られているだけで、こんなに蜜を溢れさせているくせ・・・本当は、もっと見て欲しいのでしょう?」

言葉に反応したのか、悠理の体内から、とろり、と蜜が溢れてきた。

清四郎は、くっと咽喉を鳴らして笑った。

「見られるだけで感じてしまうとは・・・いやらしい身体だ。」

悠理が顔を背ける。きつく瞑った眼の端に光るのは、何ゆえの涙か。

「早く触って欲しいのですか?それとも、もっと見ていて欲しい?」

清四郎がからかうと、悠理は涙をいっぱいに溜めた瞳で、こちらを睨みつけた。

「・・・意地悪!清四郎なんか、大嫌い・・・!!」

 

 

はっ。

覚醒した。

清四郎は、愕然としながら、眼前の悠理を見た。

悠理は、怒りMAXの真っ赤な顔をして、清四郎を睨みつけている。仁王立ちした足の横では握った拳が震え、よほど興奮しているのか、大きな瞳には涙まで浮かんでいた。

そんな悠理の姿に、清四郎の胸中が騒ぎ出す。

清四郎が、見て見ぬ振りをしてきた現実が、目の前にある気がした。

「・・・悠理・・・」

「何だよ!?」

清四郎は、縋るように悠理を見つめながら、震える声で、尋ねた。

 

「悠理は・・・僕のことが嫌いですか?」

 

「え!?」

それは、通常の場合、プロポーズをする前に確かめておくべき最重要課題であったが、我が道を突き進む清四郎の前では、順序など何の意味も持たないらしい。

それはともかくとして、花も恥らう乙女の気持ちを、いきなり、しかも両親の前で尋ねられ、悠理は慌てた。慌てすぎて、一気にのぼせた。のぼせて火照る頬をどうすることもできず、ひたすらにうろたえた。

「え、えっと、その、嫌いとか、そういうんじゃなくて、そばにいるのが当たり前だから、そういうふうに考えたことないし、でも、その、前の婚約のときは、ちょっと考えてみたりしたけど、あのときは好きとか嫌いとかなくって、その・・・」

何を言っているのか、自分でも分からない。支離滅裂とは、まさしくこのことだ。

 

慌てふためく悠理を、清四郎が哀しげに見つめている。まるで、ドナドナと歌に合わせて運ばれていく、一頭の小牛のような眼だ、と、悠理は思った。

そんな眼をされたら、「嫌い」なんて言えないではないか。

 

悠理は、清四郎から顔を逸らし、ぶっきらぼうな声で呟いた。

「・・・清四郎のこと・・・嫌いじゃ・・・ない。」

「嫌いじゃない?はっきり言わないということは、好きではないのですね?」

顰められた、秀麗な眉。不安げに、翳る瞳。別人のような、細い声。

 

―― ああ、こいつって、本当にあたいのことが好きなんだ。

 

清四郎が見せる真実が、猜疑心のこびりついた胸に、すうっと滲みた、そのとき。

 

「 すき、かも 」

 

答が、勝手に口から飛び出した。

 

 

悠理が真ん丸に眼を見開き、自分の口を両手で押さえた。

自分の発言に、自分が一番驚いている。そんな表情だった。

 

清四郎は、びっくり眼をパチパチさせる悠理を凝視し、頭の中で、彼女の言葉を幾度も反芻した。そして、悠理が発した言葉の意味を、細かく咀嚼し、完璧に消化した。

そして、その途端に、口元がだらしなく緩んだ。

やはり、清四郎は間違っていなかった。悠理のほうも、ちゃんと清四郎が好きなのだ。

「ゆ・・・」

清四郎は、嬉しさに声を上ずらせながら、悠理の名を呼ぼうとした。

 

「まあっ!何て素敵なのっ!食欲に支配されているとばかり思っていた娘が、愛の告白をするなんてっ!!」

「これは奇跡に違いねえだ!あの悠理が、女の子らしく頬を染めて、同級生に「好き」と言うなんて、きっと観音さまの思し召しだがや!」

 

清四郎の声は、見事、狂喜乱舞する夫婦の叫びに掻き消された。

 

清四郎が、半分は怒りで、残りの半分は怖いもの見たさで、夫婦を振り返った。

案の定、万作と百合子は、手を取り合い、珍妙なダンスを踊っていた。

覚悟はしていたが、やはり恐怖を覚える光景に、声を失う。

「やはり恋は女を変えるのね!ああ、どうしましょう!本当は私、娘の恋の相談に乗る、話の分かる母親をやってみたかったの!」

「オラも、娘を貰いにきた男を一発殴って、悔し泣きしながら「娘を頼む」と言う父親をやってみたかっただ!」

残念ながら、父親が殴る前に、貰われるはずの娘から殴られているので、万作の願いは叶いそうにない。

 

「ちょっと待てーーーー!あたいは、別に清四郎と結婚したいわけじゃないぞ!好きか嫌いかって聞かれたら、どっちかといえば好きってだけだし、第一、あたいはまだ高校生だ!結婚なんて、早すぎるだろ!!」

悠理が手を振り回しながら絶叫した。そこに、万作の短い手が伸びる。

「まあまあ、照れなくてもイイだ。オクテなところは、オラに似たんだなあ。」

吼える悠理を片手で宥め、万作は大きく頷いた。が、すぐに難しい顔になり、うーむ、と大仰な唸り声を上げる。

「しかし、困った。悠理の婿候補は、剣菱のコネクションをフル活用して選んだから、今さら断るわけにもいかねえだ。」

そこで、百合子がぽんと手を叩いた。

「簡単なことよ。五人の婿候補と清四郎ちゃんを競わせて、清四郎ちゃんが勝ち抜けば、誰も文句は言えないはず。」

「おお!それは名案だがや!!」

 

 

当事者を無視して、勝手に盛り上がる二人。

しかし、清四郎には、そんなことなど、どうでもよかった。

何しろ、悠理の口から「すき」という言葉を聞けたのだ。それだけで、天にも昇る気持ちがした。だから、万作の言葉にも、自信を持って頷けた。

 

「清四郎くん!悠理を手に入れるための、試練に耐える覚悟はあるだがや!?」

清四郎は、額に敷居の筋、左頬に鉄拳の痕を残したまま、表情をきりっと引き締めた。

「はい。どんな困難が待ち受けていようと、悠理は僕のものですから!」

「それでこそ男だがや!」

「なんて素敵なの!うちの馬鹿娘を手に入れるため、男たちが戦いに挑むなんて、夢のようだわ!」

異様なほどに盛り上がる三人。その傍らで、悠理はひとり拳を震わせていた。

 

 

「おまえらーー!あたいの話を聞けーーーっ!!」

 

 

悠理の絶叫は、虚しく空に響いて、消えた。

 

 

 

 

 

 

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