7.

 

 

 

見事、清四郎が金鶴万太郎を破ったあと、美童が、さっそく勝利の美酒に酔い痴れようと提案した。

馬鹿騒ぎが三度の飯より好きな連中に異存などあるはずもなく、揃って手を挙げ賛成した。

 

が、清四郎は、仲間の輪から悠理を引っ張り出すやいなや、では、と短い挨拶を残して走り出した。

小脇に抱えられた悠理の、断末魔のごとき悲鳴が、長い廊下に響き渡ったが、走り去る清四郎を止めることなど誰にも出来ようはずがなかった。

 

「・・・悠理のヤツ、大丈夫と思うか?」

魅録の咥え煙草しながらの呟きに、美童が軽く肩を竦めてみせる。

「悠理も何だかんだ言いながら、いっつも清四郎の傍にいるし、大丈夫じゃない?」

それを聞いた可憐が、自慢の巻き毛を掻き揚げて、やれやれと溜息を吐いた。

「そうねぇ。清四郎のことが嫌いだったら、ああも易々と抱えられないわよね。」

そこで、僅かばかりの沈黙が流れる。

二人の姿が廊下の角に消えた。悠理のわめき声もどんどん小さくなり、やがて、消えた。

 

取り戻した静寂の中で、野梨子がぽつりと呟いた。

「清四郎が勝ち進めば、悠理もきっと自分の気持ちに気づきますわ。」

一同は、やれやれと苦笑し合い、主役不在の祝賀会を開くべく、二人とは逆の方向へ歩き出した。

 

 

悠理は焦っていた。

焦るついでに、勝ったらキス、なんて約束を交わした浅はかな自分を、奈落の底より深く呪った。

 

まあ、小脇に抱えられた時点で、ある程度の覚悟はしていた。そのはずだった。

 

が、清四郎ともつれ合うようにしてソファに座った途端、心拍数は急上昇するわ、頭もぐちゃぐちゃになるわで、すっかり動転してしまった。

 

落ち着きたくても、吐息がかかる位置に清四郎の整った顔はあるし、眼を逸らしても熱い視線からは逃げられないし、俯いたら俯いたで、彼の肩に顔を埋めてしまうことになる。

 

羽交い絞めにされているわけではない。逃げようと思えば逃げられる。なのに、身体が動かない。そうこうしているうちに、清四郎の手が悠理の手に重なり、余計に頭がぐちゃぐちゃになった。

 

「・・・悠理。」

熱を孕んだ低めの声が、耳朶にかかった。

悠理はぎゅっと眼を瞑り、身を固くした。

「約束どおり、勝ちましたよ。」

胸のどきどきが、うるさいくらい大きくなる。

「御褒美、くれますね?」

頬があたたかいものに包まれた。

それが清四郎の手だと気づくまで、そう時間はかからなかった。

悠理はそっと瞼を開けて、前を見た。

深い深い黒い瞳が、すぐそこにあった。

「・・・舌なんか入れたら、ソッコーで絶交だからな!」

この期に及んで往生際が悪いと思ったけれど、それが悠理のできる精一杯だった。

清四郎は、くすり、と笑うと、とても優しい瞳で、悠理を見つめた。

「分かりましたよ。では、眼を閉じてください。」

ゆっくりと清四郎の顔が近づいてきて、悠理は慌てて眼を閉じた。

 

くちびるが優しく重なる。

幾度も、幾度も、羽毛よりも軽いキスが繰り返される。

くちびるが触れ合うたびに、悠理の脳髄は蕩け、意識も甘く痺れていく。

うっすらと眼を開けると、清四郎も同じように眼を薄く開けて悠理を見つめていた。

ぼんやりと清四郎を見つめながら、軽いキスを繰り返す。

「悠理のくちびるは、とても柔らかいのですね・・・」

清四郎がキスをしながら呟くものだから、まるでくちびるを啄ばまれているような感触がした。だけど、嫌ではない。むしろ心地良い。悠理はうっとりとしたまま、繰り返されるキスを受け止めた。

 

 

すっかり麻痺した思考の中、ぼんやりと思う。

 

清四郎からいいようにされてるのに、どうして抵抗できないのだろう?

どうして―― 清四郎のキスが、こんなに心地よいのだろう、と。

 

いくら考えても答は出ない。

だから、今は何も考えず、清四郎から与えられる心地良さに、このまま身を委ねることにした。

 

 

くちびるが離れ、清四郎が身を起こす。

気がつけば、悠理はソファに寝そべっていた。清四郎にされるがまま、横たわってしまったらしい。この上なく無防備な格好をしているにも関わらず、悠理にはその実感がない。何だか夢の中にいるみたいな、ふわふわした気分なのだ。

 

とろんとした瞳で、清四郎を見上げると、彼は少し照れたように微笑んだ。

「大人のキスは、次に勝つまで取っておきましょうか。」

ふたたび、清四郎の顔が近づいてくる。

ちゅ、と音を立てながらのキス。

「それまでは、こちらのキスで我慢しておきますよ。」

くすくす笑う声が、鼻の頭ににかかる。くすぐったさに顔を顰めたら、そこにまたキスの雨が降ってきた。今度はくちびるにだけでなく、額や頬、そして、瞼にまで。

「・・・悠理・・悠理、悠理・・・悠理。」

まるで呪文のように繰り返される、自分の名。

自分の名前が、こんなに心地良く耳に響くなんて、生まれてはじめての経験だった。

 

悠理は、無意識のうちに清四郎の背中に手を回し、降り落ちるキスを受け止めた。

 

 

 

その日から、清四郎のキス攻撃がはじまった。

学校だろうが、剣菱邸だろうが、関係ない。二人きりになったら、すぐくちびるを突き出してくるのだから、場所などお構いなしである。最初こそ嫌がって逃げ回っていた悠理だったが、やがて彼の執拗さに負け、どうしようもないことなのだと運命に甘んじることにした。

 

―― まあ、清四郎の喜ぶ顔を見るのは、嫌いじゃないし。

 

悠理は言い訳めいたことを考えながら、目の前でニコニコ笑う清四郎を見つめた。

 

悠理と清四郎がいるのは、学園の生徒会室である。

今は倶楽部の面子六人が顔を揃えているが、数十分前までは二人きりだった。その間、清四郎は悠理の隣に陣取り、三度も不意打ちでキスをした。悠理はそのたびに怒ったが、清四郎は何処吹く風であり、しまいには怒るのにも疲れてきた。

悠理が怒らないためか、清四郎は至極ご機嫌で、福々しい恵比須顔になっている。が、清四郎が恵比須顔など、似合わないことこの上なく、そこはかとない不気味さを漂わせていた。

 

「ホットドッグの早食いに、お子さま向けゲームのおしゃれ対決って、どうして普通じゃない対戦方法ばかりなのかしら?女の一生を賭けるんだから、もっとスマートな方法で戦って欲しいわよね。」

華奢なティーポットに湯を注ぎ、紅茶を蒸らしている間に、可憐が皆に話しかけてきた。

ギターを爪弾いていた魅録が顔を上げ、鼻の頭に薄く皺を寄せた。

「類は友を呼ぶの言葉どおり、悠理にゃ変なヤツばかりが寄ってくるだけだろ。」

「あたいは水木し@るでも、ハイパーオタクでもないぞ!」

心外な、といったふうに悠理が口を挟む。

その隣で日本茶を飲んでいた野梨子が、表情ひとつ動かさずに言い放った。

 

「頭脳戦や武道で、清四郎に勝利するのは至難の業ですわ。本気で勝ちたいのなら、いくら恥ずかしい手段であれ、清四郎に不利な対決方法を選んで当然です。」

 

言われてみれば、その通りである。

「だからって、アレはねえ・・・」

美童が苦笑し、悠理を見た。

「いくらなんでも、あの相手は酷すぎない?」

紅茶をカップに注ぎ分けながら、可憐が深い溜息を吐く。

「万作おじさまの選考基準の中に、容貌は入っていなかったんでしょうね。」

「性格も基準から外れてるんじゃねえか?そうじゃなきゃ、普通、娘婿にロリコンオタクは選らばねえだろ。」

可憐の言葉を、魅録が苦笑しながら引き継ぐ。電源を入れていないエレキギターは、かちゃかちゃと間抜けな音しか出さないが、お茶の時間にギターを唸らせると、可憐から酷く怒られるので、仕方がない。

「次の対戦相手も、凄いのがきそうで怖いなあ。」

古代ギリシャの彫像を思わせる、見事なラインの顎に曲げた指を当てて、何もない空間に視線を投げる美童。さり気なくも完璧なポーズは、さすがは世界の恋人である。

 

「どんな対戦相手が来たって、お前らには関係ないじゃんか!あたいは、そいつらの中の一人と結婚しなきゃいけないんだぞ!」

選考基準に容貌や性格が入っていないだの、酷すぎるだの、凄すぎるだの、婿候補たちをケチョンケチョンにこき下ろされ、悠理は半分泣き顔だ。

 

そんな彼女の頭を、清四郎がよしよしと撫でる。

「大丈夫、僕はかならず勝ち進みますから、安心してください。」

「・・・それもイヤだよう・・・」

小声で呟く悠理の顔を、清四郎が能面のごとき笑顔で、ん、と覗き込む。

「何か言いました?」

「ううん!何も!清四郎の空耳だよ!」

悠理が慌てて取り繕う。それを見て、清四郎は満足げに微笑んだ。

「悠理は大船に乗ったつもりでいれば良いのですよ。この僕が、悠理の可愛くて綺麗なピンク色をした乳首を、他の男にコリコリチュウチュ・・・ぐっ!!」

悠理必殺の肘鉄が、清四郎のみぞおちにめり込んだ。

「お前、いっぺん死ね!!」

「僕が死んだら、対戦はどうなるのです!?」

「対戦なんかどうでもいい!乳首乳首って、お前、何者だよ!?あたいはお前に乳首なんか見せたこともないのに!」

「悠理は僕に乳首を見せたあの日を忘れているのですか!?貴女の乳首は、薄闇の中でもひときわ美しく輝いていた・・・まるで花開く寸前の蕾のように可憐で、白い胸の中心に浮かぶ乳輪の色の淡さと言ったら、薄くココアパウダーをはたいたかのようにきめ細かくて初々しく、かといって、未成熟なわけではなく、ちゃんと女の華やぎを兼ね備えており、男を誘う魅力に満ち溢れて・・・」

「ワケ分からんことで、うっとりするなああああ!!」

 

何だかんだ言いながら、仲の良い二人の姿に、仲間たちは顔を見合わせて微笑んだ。

 

勝負の合間の、束の間の平穏である。

 

 

 

翌日、次の対戦方法と、対戦相手が発表された。

 

対戦相手は、まず名前からして強烈だった。

「はい?」

悠理は、はじめに相手の名前を確かめて、思い切り首を捻った。

 

―― 白馬錦七五三太。

 

「コレ、どこまでが名字で、どこからが名前?」

「普通に考えれば、白馬錦までが名字で、七五三太が名前でしょう。」

「・・・はくばにしき、しめた?」

「そう。はくばにしき、しめた、です。」

「はくばにしき、しめた。」

 

はくばにしき、しめた。

 

悠理は眉根を寄せて、墨跡麗しい釣書を睨んだ。

どう考えても、おかしい。

「世間には、四月一日と書いて「わたぬき」さんという人や、一の一文字で「にのまえ」さんと読む人もいますからね。七五三太と書いて「しめた」さんと読んでもおかしくはないでしょう。」

「・・・にほんごって、むずかしいな。」

納得がつかぬまま、添えられた見合い写真を手にとって開く。

 

 

「う゛。」

 

 

悠理が呻いたのも仕方はない。

 

白馬錦七五三太は、正面から見た鯉のような顔をしていた。

 

 

ばり。

悠理が写真を背表紙から真っ二つに引き裂いた。

両手に離れ離れとなった表紙を持ったまま、傍らにいた万作を睨む。

蛇顔負け、もとい、百合子顔負けの迫力で睨まれ、万作は震え上がる。

さすがは百合子の娘であるが、今はそんな他愛もないことで納得している場合ではない。

 

悠理は、左右の手に写真を持ったまま、冬眠前の熊のごとく、歯を剥き出しにして立ち上がった。

「父ちゃんは、あたいに人外魔境な子供を産ませたいのかああああっ!?」

「ひいいいいいいっ!」

万作が小動物のごとき悲鳴を上げる。

そこで、清四郎が、咆哮する悠理を素早く羽交い絞めにした。

 

清四郎は、肩で息をする悠理の髪に顔を埋めて、愛しげに頬擦りした。

「まあまあ、悠理は僕に似た、目元涼やかな賢い子を産むんですから、そう怒らなくてもいいですよ。」

頬擦りする清四郎に頭突きをかまし、悠理が叫ぶ。

「お前に似た意地悪で嫌みったらしいガキも、産みたかないやい!!」

清四郎は、頬骨に走る激痛に耐えながら、悠理をひしと抱き寄せた。

「イヤよイヤよも好きのうち、ですか?まったく、可愛いですねえ。」

今度は髪ではなく、悠理の可愛い右頬に自分の頬を当てて、ずりずりと頬擦りする。

「お前、マジでいっぺん死んでくれ!!」

羽交い絞めされたうえに頬擦りされて、悠理の我慢は目盛りを振り切った。

 

「離せ!変態っ!!」

悠理がそう叫んだ、瞬間。

 

「ああ、そうだ。で、次の対戦方法は何ですか?」

いきなり、清四郎が手を離した。

 

がこ。

 

見事バランスを崩した悠理は、前方にあった大理石のテーブルに額を打ちつけた。

 

 

トラブルメーカーである娘の衝突事故など、今さら気にしても仕方ないと思っているのだろう。万作は、悠理のほうなど振り返りもせず、清四郎と向き合った。

「清四郎くん、よく聞くだがや。」

万作が、らくだ色のアンダーシャツの襟を整えながら、清四郎に言った。

清四郎も背筋を伸ばし、真顔で万作と向き合う。

「いいか。次の対戦方法はな。」

「はい。次の対戦方法は。」

 

 

「ダチョウレースだがや。」

 

 

背筋を伸ばしたまま前に傾いた清四郎は、悠理と同じく、前方にあった大理石のテーブルに顔面をうちつけた。

 

 

 

  

 

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