〜幕末有閑時代劇・番外編〜 

桜、ゆれて咲き、風に舞う

                  さり様作

 

 

 

  明治4年の春。

 剣菱屋の広大な庭で、盛大な花見が催されていた。

 皆が集まる桜の木は、まだ細く若い。空に向かってぐいと伸ばす枝の先には、かすかに紅をはいた花がそこここに咲いている。

 葉は、まだない。

 この桜の若木、名を「染井吉野」という。

 まだこの東京が「江戸」と言い、髷を結い両刀を差した侍が諸藩から集まっていた時代に、清四郎が江戸の西にある染井村から取り寄せたものである。植木商が集まる染井村で作られたこの桜は、桜を好む江戸者の間でたちまち大人気となった。

 

 

********

 

 

 剣菱屋の庭に植えられた染井吉野は、今年初めて花をつけた。

 満開、というにはまだまだ心許ない若木ではあるが、これは花見をせねばなるまいと、悠理が友人たちを呼び寄せたのである。

 緋毛氈の上にはお重が所狭しと並べられている。今まで幾度となく催した花見にも負けぬ、豪勢な料理である。

 日本国を統べる者が、徳川将軍から薩摩や長州者を主とする新政府に取って替わられても、剣菱屋の隆盛は変わりない。いや、抜け目なく新政府に取り入った剣菱屋万作は、益々剣菱屋を大きくした。

 阿蘭陀(オランダ)や、清国だけが相手であった外国との取引は、大きな海を越え欧羅巴(ヨーロッパ)の諸国や亜米利加(アメリカ)を相手にしているのだから。

 その、剣菱屋令嬢の悠理は、桜には目もくれない。半分以上お重を空にしてようやく料理に満足したのか、次は菓子よとばかりに、山と積まれた向島長命寺のさくら餅に手を伸ばした。

 清四郎はその横で杯を傾け、口に入りきらないほどに頬張る、悠理の顔についたあんこを取ってあげたりしている。この二人、まだ祝言はあげてはおらぬが、清四郎の父が興した病院が軌道に乗れば、清四郎が剣菱屋に入り婿する約束となっていた。

 野梨子は、薄紅色の振り袖に桜と流水が染められた友禅を身につけ、うっとりと桜の花を見上げている。

 野梨子の父白鹿清州は、あいも変わらずの人気絵師。長州や薩摩の田舎からでてきた新政府の高官が、教養を見せつけようとこぞって清州の絵を買い求め、中でも野梨子を描いた「白鹿小町」と名付けられた連作が、一番の人気だと言う。

 それ故に、野梨子のもとに押し寄せる縁談は引きも切らないが、野梨子はけっしてうんとはうなずかないのであった。

 清州と野梨子の母は、時として非常に頑固となる娘に頭を悩ませていると聞くが、大事な一人娘を野暮な薩長者の元へなどやれぬ、と思っているに違いない。

 その傍らで、またもや約束の時間に遅れた美童が、急いで料理を口に運んでいるところであった。 

 江戸の頃は、女形役者の決まりとして紫帽子をつけていたが、今日の美童は長い髪を風に弄ばれるままにしている。

 西洋の後を追うべく、政府高官の中には西洋人をきどって髷を落とした者がいるが、まだまだ市井の人々は髷を結っている。西洋人の血が入った美童は、わざわざ横浜までゆき、彼ら6人の先陣を切って髷を落とした。

 黄金色に輝く髪は長く伸び、風にそよげば薫香が匂うほどである。

 それが美童にはよく似合った。芝居小屋に足を運ぶ女どもが「この世のものとは思えぬ美しさ」ともてはやしているのだから、時代は変わるものだ。

 江戸から明治へと、時代が変わろうと、美童の人気もまた衰えはしなかった。そればかりか、薩長の田舎から出てきた政府高官の妻や娘が、物珍しそうに芝居小屋にゆき、一目で美童の美しさに惑わされたという。美童の人気はうなぎ上りで、今や誰もが認める「当代一の人気役者」であった。

 そして、可憐の隣に座る魅録は──

 可憐は手を伸ばし、魅録のために、お重から錦糸卵が散らされた押し寿司を取り分ける。小皿を魅録に手渡そうとして、ひらり、と桜の花びらがひとひら舞い落ちた。

 風情を感じる間もなく、ざわわ──と風が鳴り、枝がしなって花吹雪がわき起こった。

 美童の輝く髪が風にながれる。緋毛氈がめくれ上がり、悠理の草履が草の上を滑ってゆく。それを、清四郎が素早く手を伸ばして捉えた。

 悠理は風が起こったと気づくや、まだ食べ終えてないさくら餅の山を、突っ伏した身体で覆い隠した。

 野梨子がか細い悲鳴をあげ、細い身体を風に抗うように小さくこごめる。美童が風に震える振り袖の袖ごと、野梨子の身体を支える。

 可憐は頬を叩く髪を押さえ、目を瞬きながら桜の木を見上げた。

 せっかく、花が咲いたところなのに──

 空には、いくつもの桜の花が風の中舞い踊っていた。東京のいたるところで、桜が強風に鳴り、花びらを散らしてゆく。

 その先に、魅録の尖った顎があった。可憐は頭を巡らせて、魅録を見る。

 魅録の目は、染井吉野から逃れてゆく花びらの行方を追っていた。

 ふわりと舞い上がり、風に運ばれ遠くへ、遠くへ──

 その視線の先には──かつて、魅録が命を賭けた上野の山があった。

 

 

「すごい風でしたね。今の風で、あらかた散ってしまった桜も多かったんじゃないでしょうか」

 肩や頭に降り積もった桜の花びらをはたき落としながら、清四郎が言った。

「あー、せっかくの料理がぁ」

 さくら餅だけは死守したが、まだお重に残っていた料理は花びらや砂まみれとなっている。悠理は悲痛な声を上げた。

「せっかくの花見ですのに……本当に、残念ですわね」

 野梨子は乱れてしまった髪を整えながら、あっという間に花を散らせてしまった染井吉野を見上げた。まだ若い木は、今の風に耐えられなかったようである。枝に残っているのは、まだ開花にこぎつけていなかった、ふくらんだ蕾ばかりである。視線を落とせば、剣菱屋の庭は桜の花びらに埋もれるかのようであった。

「僕、まだ食べてる途中だったのに……」

「うっさい。遅れてくる方が悪いんだじょ」

 悠理はがっくりと肩を落とした美童に、花びらを取りのけたお重を突きつけ、「ほら、これ食え」と言った。

「じょ、冗談じゃないよ。悠理と一緒にしないでよ」

 美童はぶるぶるっと首を振った。

「いらないってんなら、あたいが食べるじょ」

 懲りずに手づかみで巻き寿司を口にいれようとした悠理を、落ち着いた清四郎の手が遮った。どうやったのか、今にも口に入る寸前であった巻き寿司を横から取り上げ、

「やめなさい。見苦しいですね」

 と、苦い声で言う。

 ぶーっとふくれっ面で恨めしげに清四郎を睨み上げた悠理であったが、清四郎にはとても勝てぬと、長い時をかけて悟ったのであるから、おとなしくさくら餅に照準を合わせたようである。塩漬けの桜の葉ごと、ぽいぽいと口に投げ込んでゆく。多少の砂埃など、気にもとめぬその食欲は、まったくいくつになっても変わらず、逆に微笑ましいくらいである。

 可憐はくすりと笑って、頭にも、肩にも膝にも落ちた桜の花びらを払った。花びらがひらひらと円を描きながら落ちてゆくのを無意識のうちに追い、隣の魅録が、未だ視線を虚空に向けたままなのに気づいた。

「魅録? どうしたの」

「いや……」

 魅録は力なく首を振ったが、それでも視線は定まらない。

 あたしには見えない何かを見ているのでは──と可憐は不吉な思いに囚われた。

「ほら、見てよ。悠理ったら、あっという間にさくら餅、食べ終わっちゃったわよ」

 魅録の気をひこうと、わざとはしゃいでみせる。だが、魅録は「ああ」とか「うん」とか、気のない返事をしただけだった。

「魅録、何かあるの?」

 縋りつくように魅録の視線の先を追い、可憐は恐る恐る尋ねた。

 また、花びらが舞う。一体いつ風が吹いたのか──白い花びらと戯れるが如く、ツバメの黒い流形が空を横切る。

 不自由な右手を伸ばした魅録の掌に、その花びらは誘われるように滑り込んだ。

「上野にも、今頃桜が咲いてるだろうな、と思ってさ」

「そうね」

 相づちを打ったが、上野、と聞くたびに可憐は身震いがする。上野に籠もり、京から押し寄せた薩長軍に戦いを挑む彰義隊に、侍としての意地を賭けて身を投じた魅録の無事を、ただ祈るしかなかった長い月日を思い出すからだった。

 あの日々の、淋しさ心許なさ──ただ魅録を信じるしかなかった女の身を、何度嘆いたことか。

 またあたしの元から去ってゆくのではないか──と、可憐は不安になって、魅録の痩身に身を寄せる。

「なんだ。みんなが見てるぜ」

 魅録が笑い含みに言う。可憐は首を振った。

 そんなの構わない。みんなに見られたって……あんたをまた失うくらいなら。

「この桜みたいに、潔く散りたかったなんて言わないでよ」

 命を惜しむことなく、死に花を咲かせるのが侍としての誉れと言うが、そんなの、残された者の気持ちを考えぬ、独りよがりの駄言でしかない。

 どんな姿になったって、生きて戻ってきてくれることが一番なんだから。

 魅録は答えなかった。左手で、杯を口に運びながら、眇で可憐を見てほんのわずか、目尻に笑みを刻んだだけだった。

 悠理が灘から取り寄せた、生酒の上に桜の花びらがはらりと舞い降りる。

「上野の桜も、今頃満開なんだろうな」

 魅録の何気ない呟きに、可憐はぶるりと身を震わせた。

 明治初年の5月、寛永寺の伽藍までもが火に包まれた上野の山は、徳川家に命を捧げた男達の血が夥しい量流された。

 数年の時をかけて、山は東京の礎となった無念の思いを飲み込んだ。江戸の時代となんら変わることなく、春になれば上野に植えられた桜の木によって、薄紅色に姿を変える。

 浄化されたはずの怨念に、今も魅録は取り憑かれているのかしら。

 風に流されながらも、細い枝にかろうじて残った幾輪かの桜の花に、自らを重ね合わせているのだろうか。

 死に遅れてしまったと。

「上野の話はしないで」

 可憐は呟いて、魅録の右腕に縋りついた。細くなってしまったこの腕は、可憐のために魅録が残してくれたものである。

 頬を寄せる。刀も握れなくなった腕だが、可憐に触れ、抱き寄せてくれる。それだけで十分だと思うのは、女の身勝手だろうか。

「桜ってのは、散り際が美しいっていうが、本当だな」

 魅録が桜の木を見上げながら、ぽつりと言った。

 可憐も空を見上げる。霞がかった春空に、ほんの少し前まで満開の花を咲かせていた桜は、花を落とした細い枝を風に揺らしていた。

「花がない桜なんて──悲しいばかりよ」

 染井吉野の蕾は、陽光が暖かみを増すごとに紅色を増し、春の盛りを人々に告げるが如く可憐な花を咲かせる。

 混じりけのない薄紅色に、桜を取り巻く空間すべてが染まる。

 花の命は短く、若草色の芽が吹く頃には、潔く春の風に散る。

 決して人々は口にしないが、江戸の町に生まれ明治を生きる者の目には、染井吉野の散りざまは、上野の山で、新しき力に敗れ去った侍たちの最期の姿を蘇らせるに違いない。

「心配するな」

 魅録は可憐の耳に囁きかけ、左手を伸ばして頬に優しく触れた。

「俺は死よりも──どんな姿になっても生きることを選んだんだ。風に吹かれても散らない、あの花のようにな」

 視線の先には、枝の先端にしがみつくようにして咲いている、花が一輪あった。その廻りには、ふくらんだ蕾がひとつふたつ、みっつ。

「おまえや……あいつらがいるんだからな。死んじまったら、あいつらとおもしろいことができなくなるじゃないか」

 顎をしゃくる。さくら餅を食べ終えた悠理が、清四郎の前に置かれた銚子に手を伸ばしているところだった。清四郎はその手をぴしゃりと叩き、だだっ子を叱るような悪戯っぽい目で悠理を睨んでいる。

 野梨子と美童は、それを笑いながら眺めている。

 時代が、江戸から明治に変わっても。これから先もずっと、決して変わることのない光景だった。

「そうね……」

 ようよう、可憐はうなずいた。

 安堵のため息が漏れ、思わず目頭が熱くなる。

 流れ落ちる涙の雫を見られないよう、可憐は魅録の頼もしい胸に顔を埋めた。

 

 

 

 

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