10.
いつの間にか、シャモニーの街も、真っ暗になっていた。 ガラス窓に銀の光が煌く。
あの日からずっと身につけていたクロスが、涙色に輝いて見えた。
食事の後シャワーを浴び、悠理は、バスローブにクロスをつけただけの姿で浅い眠りについた。
夢現の中、清四郎の言葉が蘇える。
「そろそろ、結納や結婚式の日取りを考えないといけませんね」 何の前触れもなく、清四郎は、学校の行事でも決めるかのように切り出した。
そりゃ確かに婚約したことにはなっている。 仲間にさえそれを否定していない。 だけど、互いに好きだと確認し合ったことはなかった。
「何言ってんだよ」 眉を顰めて、悠理は答えた。 “あたいだって女の子なんだぞ。ちゃんと愛してるって言われて結婚したい”
そのうち、清四郎が言ってくれるだろう、とも思っていた。
それなのに。
「偽装婚約?そんなことが、本当に通ると思っているんですか?世間には、僕達の婚約は大々的に発表されてます。今更後には退けないでしょう?」
馬鹿やろう!
やっぱりおまえの目的は剣菱かよ! 日本に帰ったら、婚約なんかすぐに解消だ。
このクロスも清四郎に返してやる!
涙の染み込む枕を、悠理は、壁に向かって投げつけた。
ベッドサイドの小さな灯りを頼りに起き上がり、バッグの中から箱を取り出す。 ずっと身につけていた為、箱を開けるのは初めてだった。
カサッと、一枚の紙切れが舞い落ちた。
・・・・・?
*****
Fiumicino Aeroporto
悠理は、アリタリア航空のカウンター前に立っていた。
慣れた様子でチェックインをする。 『 Here's your boarding pass. Please go to Gate 27 when
the flight is called 』 『 I see. Thank you 』 悠理は、差し出されたボーディングパスを手にした。
『Ciao』と挨拶をすると、人懐っこい笑顔に、カウンター向こうのイタリア男が陽気な声で叫んだ。 『 Buon viaggio 』とウィンクする。
「ったく、イタリアの男ってのは」と悠理は、苦笑いしながら振り返り『 Grazie 』と同じくらい大きな声で返した。
と、その時だった。
「痛てっ!」 振り向きざま、長身の男にぶつかった。 手に持っていた物が床に散らばる。
『 Pardon
、Mademoiselle 』 「えっ?あ、ごめんなさい」 突然のことに、思わず日本語が飛び出した。
手伝ってもらいながら落とした物を拾うと、ペコリ、と頭を下げる。 男が、サングラス越しににっこりと笑った。 つられて悠理も笑顔を返す。
「いけね」 時計を見ると、悠理はゲートへと走り出した。 出発時刻が迫っていた。
飛行機に乗ってしまえば約4時間でニューヨークへ到着する。 悠理は、逸る気持ちを抑えながら空港内を走った。
捕まるならニューヨークで。
不器用な男を思い、笑みが零れた。
悠理へ
僕達の新しい未来をこの街から始めよう
誰よりも、おまえを大切に思っている
ニューヨークにて 清四郎
シャモニーのホテルで見つけた一枚のカード。 この気持ちをちゃんと伝えてくれたら良かったのに。
あたいも誰よりおまえが大事だ。 だけど、それを伝える前に、あのプロポーズは不誠実だって文句を言わせてもらおう。
すべてはニューヨークで。
悠理は先を急いだ。
―――
その背を、青い瞳が追っていることに気づかず。
*****
事件発覚直後、魅録もニューヨークへと駆けつけてくれていた。 彼は、到着するなり「これを着ろ」と清四郎に防弾チョッキを投げつけた。
「どこで手に入れたんです?こんなもの・・・・」 「それなりのショップならどこにでも置いてあるさ」
魅録が持ってきた物は、FBIのジャケットと防弾チョッキ、それにレモン・スクイザーと呼ばれる銃だった。
FBIから、悠理の居場所が掴めたと連絡があったのは、つい先程だ。 これから周到に準備をして踏み込む、任せてくれ、という電話だった。
金の引渡しについては、これまで二度ほど要求があった。 だが、いずれもこちらの動きを見ているのか、取引中止を言い渡されていた。
苛立ちも頂点に達する頃、三度目の取引前に、アジト発見の知らせが入った。
「FBIに任せておくつもりはないだろ?」
魅録が、清四郎の腕を支えながら言った。 「もちろんです」 照準を合わせながら清四郎は答えた。
「ここを出るまで、もう少し時間がある。少し休め。FBIの特殊部隊に紛れ込むからな。へまするなよ」
銃のレクチャーが終わると、魅録は清四郎に向かって片目を閉じた。 「お互い様」 清四郎も片目を閉じて応じる。
銃をテーブルに置くと、清四郎は、どさりとソファに倒れこんだ。 ここ3日ほど、心労のあまり、睡眠さえロクにとっていない。
親友を気遣いつつ、明るく接してくれる魅録に、清四郎は感謝をすると同時に心強さを感じていた。
やがて、浅い眠りが訪れた。
『GO,GO,GO!』 合図とともに、建物内にFBIが踏み込む。
清四郎と魅録も、ベライヒが匿われていると思われる、イタリア系マフィアの本拠地へと来ていた。
次々と襲い掛かってくる下っ端を十数人倒し、建物の奥へと進む。 FBIが、ボスの部屋へ乗り込んだ。
だが、予想通り、そこにベライヒの姿はなかった。 ボスへの対応はFBIに任せ、清四郎と魅録は、悠理を探しにかかる。
「たぶん、あそこです」 ドアの前に二人の見張りが立っていた。 「騒ぎに気づいて動揺しているな。一人づつ接近戦でいくか?」
「ええ」 「行くぞ!」
魅録の掛け声と共に、清四郎は銃を構えながら敵に向かって突進した。
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