11.
突入した小さな部屋。 清四郎はその姿を見たとたんにぴたりと立ち止まった。 「利口だね。そうだ、止まるんだ」 冷たい声がイタリア語を奏でる。
清四郎と魅録が銃口を向けた先には、ベライヒが悠理の喉元にナイフをつきつけて立っていた。
「ちょうどいいよ。お前たち3人が揃ってくれて」 ベライヒは酷薄そうな笑みを浮かべる。清四郎が短く魅録にそのセリフを訳してやった。 ───その声は清四郎か? 目隠しをされた悠理はほんの小さな囁き声が、清四郎のものであると悟る。 「俺たち3人を揃えてどうしようってんだ?」 と、続けて魅録が英語で問うたので、後ろ手に縛られ拘束されている悠理にも侵入者が魅録と清四郎であることがはっきりわかった。
ベライヒの狙いなどは訊かなくてもわかっている。 あわよくば悠理を楯に再度の逃亡。その上で彼女を生かして帰すつもりなど微塵もないのだ。 微塵も。 そう、願わくばあのときベライヒの邪魔をした3人の雁首を並べてすべて切り落としたいのだ、ベライヒは。
「悠理を……放せ……」 清四郎の喉から搾り出すように低い声が出た。 「悠理を殺してみろ、僕が貴様を殺してやる……!」 その言葉はイタリア語だったが、魅録には清四郎が何を言っているのかわかるような気がした。
それは悠理にも同様だった。
部屋に満ちるのは溢れんばかりの殺気。 清四郎がこんなに殺気を飛ばすのを魅録も悠理も今まで見たことがなかった。
清四郎が来てくれた。 そして、悠理を全力で守ろうとしてくれている。
どうしよう、それだけで泣きそうに嬉しい───
悠理は思わず口元を綻ばせた。 そうしてそのまま彼女の唇が正面の清四郎と魅録にだけ見えるように動いた。
ア・イ・シ・テ・ル・ヨ。
その言葉の意味を二人が認識するよりも先に、悠理は動いていた。 ベライヒの腕を潜り抜けるように体を低くしようとする。 しかしベライヒはそれを許すような男ではない。 実際には彼女の抵抗は予想外だったが、少しだけ眉根を寄せつつ悠理を拘束する腕に力をこめると、ナイフを持つ手を動かした。
ドウッドウッ
二丁のレモン・スクイザーが火を噴くのと、悠理の首筋に赤い線が引かれるのはほぼ同時だった。
一文字に滲む赤。 見る間に盛り上がると、重力に従って溢れるように零れ落ちた。 すべてはスローモーションのようで。 音もなく、漂っているはずの硝煙の臭いもなく、温度もなかった。 どちらが上でどちらが下なのか、己がどこに立っているのかすら、清四郎にはわからなくなった。 薄暗い部屋には色はない。 ただ赤だけが鮮やかで、鮮やかで。
両肩に一発ずつ銃弾を受けた男が血を噴出しながらもんどりうつのに弾かれたように悠理の体が自由になる。 静かに清四郎のほうへと崩れ落ちてきた。 いや、知らず清四郎も駆け寄っていたのだろう。
彼女の血の温みを膝に感じたとき、やっと清四郎に感覚が戻ってきた。
「ゆうり!!」
『Call an ambulance!』 『We've arrested the man!』 マフィアのボスを確保してようやく駆けつけてきたFBIの捜査官たちが慌しく叫ぶ声が、聞こえた。
*****
───Emergency Room
なだれ込むようにストレッチャーに乗せられた悠理が運び込まれる。 救急車の中ですでに点滴を打たれ始め酸素マスクが当てられていた悠理だが、その顔は真っ白だった。出血が、多いから。 『GCS7!E1V2M4!』 『Let's put it in a central line!』 『2 units of trauma blood!』 清四郎はどこか遠くでそれらの会話がなされているような感覚にとらわれていた。 ただひたすら、心の中で悠理を呼び続けながら。
目の前にすいっと紙コップに入ったコーヒーが差し出された。 いつの間にか清四郎は手術室の前のソファに座り込んでいたらしい。差し出した手の主を見ると、魅録だった。 「よかったな。血管外科の権威が来たそうじゃないか」 言われて、清四郎は今の今まで自分の意識が半分ほど飛んでいたことに気づく。 そういえばそんな説明を先ほど受けた。どこか冷静な自分もいて、内容は把握していたようだ。 「ええ、今ニューヨークでもっとも信頼できるドクターですよ」 弱弱しく笑もうとしたのか、しかし清四郎の唇はひくり、と痙攣したようにゆがんだだけだった。
駆けつけてきたドクターは血管外科の世界的権威だった。 清四郎の父である菊正宗修平とは心臓外科学会でたびたび顔を合わせ、そのたびに喧々諤々の言い争いになっているらしい。 要するに似たもの同士なのだ。 「シューヘイの息子の嫁?俺が手術してやるよ!シューヘイに腕前を見せ付けてやるさ」 そう言うと彼はにやりと笑んで手術室へと向かっていった。
「僕にもわかってはいるんです。あの出血の仕方からしたら傷は頸動脈まで達していません。静脈が切れただけなら圧迫止血だけで出血はとまるほどなんです」 とはいえ、ベライヒはプロである。ましてやあの出血量だ。頸静脈はかなりの損傷を受けているのだろう。 「しかしあの時お前さん、本当に奴の頭をぶちぬくんじゃないかとひやひやしたぜ」 ベライヒは逮捕された。今頃は肩の傷の応急処置だけ受けて拘置されているはずだ。 悠理の首が切りつけられた後の発砲だったから、たとえ殺したとしても罪には問われなかっただろうが、やはり自分たちは素人である。人殺しなどをすることはない。 「そうですね。あれだけで済ませたのは、奴の動きは見切っていたからですよ」 冷酷なプロだが、清四郎たちと比べるとベライヒは致命的に動きが遅かった。だから以前の法王暗殺未遂の時だって魅録の発砲のほうが早くて手を撃ちぬくことができたのだ。 だから、たとえあいつの得物がナイフだったとしても悠理は逃げ切れるだろう、と。
「清四郎!」 「清四郎!魅録!」 「悠理はどうですの?!」 清四郎はびくりと身を震わせて声のほうを見た。どうやら魅録とは遅れて美童、可憐、野梨子の3人も日本から駆けつけてくれたらしかった。 「あ、無事ですよ。手術中です」 立ち上がって仲間たちを迎える清四郎の声は存外にしっかりしていた。魅録との会話のおかげでだいぶ自分を取り戻せていたから。 「ちょっとその血!大丈夫なの?」 可憐が清四郎のズボンにべっとりと染み込んだ血に気づいて悲鳴混じりの声を上げた。 魅録は「ああ」と思った。清四郎が穿いているズボンは暗い色だったから気づいていなかったのだ。 「悠理の血ですよ。出血が、多かったので……」 言ったとたんに清四郎の顔がさっと真っ青になった。 がくがくと顎が震え、膝からも力が抜けたように、つい今まで腰掛けていたソファに崩れ落ちるように座り込んだ。 「おい!」 「ちょっと大丈夫?」 清四郎は体を折り曲げ口に手を当てている。 まるで嗚咽を耐えるかのように。 「すいません……あなたたちの姿を見たら……力が、抜けて……」 清四郎の目に浮かぶのは、悠理の青白い顔。青白い……。
*****
清四郎の膝に倒れこんだ悠理の血が、彼の衣服をどんどん濡らす。 彼はポケットの中からハンカチを取り出すと悠理の首に強く押し当てた。 見たこともない、彼女の顔。 こんな生気のない顔は、幽霊事件のときですら見たことがなくて。
こんな、顔が見たかったわけじゃない。
見たかったのはあの笑顔。 そしてニューヨークでの雪の夜、彼に見せてくれたあのはにかむような彼女の顔。
誰も知らない、清四郎だけが見ることができる顔を、たくさん知りたい。
ある時、英会話を教えるために彼女の部屋へ行くと、その膝の上で彼女の愛猫タマが寝ていた。 彼の顔はとても安らかで、悠理の膝は己(と相棒フク)のものだと誇示しているようで。 清四郎は軽い嫉妬心を感じながら、悠理の横に座ってタマの頭を撫でた。 「悠理に全部預けきってるって感じですね」 「なんだあ?清四郎もフクを膝の上で寝かせてみる?」 悠理の言葉に清四郎はぷ、と軽く笑う。 「そうですね、できれば猫よりも悠理を抱っこするほうがいいですけどね」 すると悠理の頬が見る見る赤く染まった。 「ば、バカ!なに言ってんだ」 ぷい、と彼女がそっぽを向くと、ほんの少し膝の角度が変わって寝心地が悪くなったのか、タマが目を覚まして降りてしまった。 それを合図にいつもの英会話の授業が始まった───。
あんな風に僕に彼女がすべてを預けてくれる日は来るのだろうか? あんな風に僕が彼女にすべてを預けることを彼女は許してくれるのだろうか?
誰も知らない、悠理の顔を、知りたい。
なのに……。
*****
2日が経っていた。悠理の右頸静脈再建手術は大成功だったが、いかんせん出血量が多すぎた。 悠理の目が覚めないままに日が過ぎていた。窓の外は快晴のニューヨークである。 仲間たちは交代で剣菱が用意した近くの高級アパルトマンに寝泊りし、病院へ通ってきてくれていた。清四郎だけはずっと悠理のそばにいたけれど。 食事もベッドの脇で取り、トイレに立ったり仲間たちにせっつかれてシャワーを浴びたりする他はそこを離れることはなかった。
清四郎はこんこんと眠り続ける悠理の手を握っていた。
ずっと考えていた。この2日は彼自身の黙示録を読んでいるようだった。 あの時、素直になれていたら。素直に愛を伝えていたらどうなっていたのか。 あの時、どうして悠理は自らの命を危険にさらすような抵抗をしたのか。 あの時、悠理が「あいしてるよ」と伝えてきた真意は……?
いつものような、いつも彼女がそうしていたような、感謝の印として「魅録ちゃん、愛してるよ〜」と抱きついていたような。 ただそれだけの意味の「あいしてるよ」? 彼らへの全幅の信頼を表すための「あいしてるよ」?
それとも、文字どおり、清四郎の望みどおりの、「あいしてるよ」?
けれどそれを問おうにも、その問いは悠理には届くはずもなくて。 「悠理。皆があなたを待っています。僕も、訊きたいことが……あるんですよ」 何度も何度も彼女の頬を撫でながら彼は囁きつづけた。
悠理の枕の脇にはクロスのネックレス。そのチェーンは途中で切れている。 「これが彼女の命を守ったのかもしれないわね」 ナーススタッフが処置のために切り裂かれた彼女の服と一緒に、小さなポリ袋に入ったこれを渡してくれたのだ。 ずっと悠理が身に着けていてくれた。清四郎が贈ったネックレスを。 清四郎はその事実に泣きそうになった。 ベライヒのナイフを直接止めたのは清四郎と魅録が放った銃弾。けれど、これもナイフが刺さる最初の衝撃をやわらげてくれていた。
いま一緒に付き添ってくれている美童と野梨子がそれぞれの用事で席をはずした隙に、清四郎は悠理の首筋に指で触れた。 血管形成が終わる頃に剣菱の肝いりで派遣されてきた凄腕の美容形成外科医の手で傷口は見事な埋没縫合をされていた。 数日の間はテープで上から固定されているが、悠理ほど健康な若い者であれば1週間か10日ほどで皮膚はくっついてしまうだろう。 傷の向きも右寄りに横一文字。いずれ傷跡は首の皺と同化してわからなくなるに違いない。 「プロの切れ味鋭いナイフなのも不幸中の幸いでしたね」 清四郎は呟きながら指を這わせ、傷口にそっと己の唇を寄せた。
すると、 「ん……」 という小さなうめき声とともに、悠理の眉が寄った。 「悠理?」 清四郎が彼女の顔のほうを見上げると、眩しそうにうっすらと、彼女の瞼が開く。 そして彼女の色素の薄い茶色の瞳が彼の黒い瞳を捉えた。 声は出さずに唇がゆっくり動く。 「せいしろう」 と。
それだけで清四郎には十分だった。 彼は彼女の頬を己の両手で挟むように覆うと、ずっとずっと彼女に伝えたかったのに伝えることができなかったただ一言を告げた。
「愛してる。悠理」
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