4.
「悠理…」 囁いて、いっそう強く悠理を抱きしめた。 腰を抱いていた片手を離し、悠理の柔らかな頬に滑らせると、自分の方に向けさせた。
唇が、触れ合う。 微かな吐息。 触れるだけのキスのつもりだったのに、思いがけなく悠理が清四郎の唇をついばんだ。
「ん……」 何度も、お互いの唇をついばむ。 愛しさに眩みそうになりながら、清四郎はあの日のことを思い出していた。
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「お前、またあたいのこと騙したのかよ!清四郎なんか大ッキライだ!」
顔も見たくない――― あの時、そんな言葉を残して、悠理は清四郎の前から消えたのだ。
「また、悠理がいなくなったんだって?」 「あの子ったら、相変わらずトラブル・メーカーなんだから…今度は何よ?」 悠理失踪の知らせを受けて集まった仲間達のうち、美童と可憐はそう言って苦笑した。
「まぁ、悠理が行方不明になるのはよくあることですけれど…」 野梨子が、ちらりとソファに腰掛けて俯いたままの清四郎を、横目で見ながら気遣わしげに答える。 彼女は幼馴染の憔悴した姿に、いつもとは違う何かを感じ取っていた。 それは、魅録にも同じことだったらしい。
「…いったい、何があったんだ?清四郎さんよ」 冷ややかにそう言うと、魅録はタバコを口に咥えた。 シュボッ… Zippoのライターで火をつけ、大きく息を吸い込む。 魅録が煙を吐き出すまで、清四郎は無言でそれを見つめていた。
「…僕が、悪いんです」 清四郎が、掠れた声で話し始めた。
今回の婚約は、自分の下心から出た話であったこと。 10ヶ月間、思いを隠しながらも悠理の側に婚約者としてい続け、それが彼には楽しかったこと。 最近では悠理もまた、自分に恋心を抱いてくれているのではないかとさえ、思うようになっていたこと。 そしてそれを頼みに、悠理には内緒で剣菱夫妻との間で結納、及び挙式まで話が進んでいたこと。 そして―――
「2週間前、悠理にプロポーズしました」
清四郎の言葉に、そこにいた皆ははっと息を飲んだ。
「で?悠理はなんて答えたの?」 可憐が、清四郎をひたと見つめて聞いた。 「何言ってんだよ、です」 くすりと、清四郎は笑った。そのときの情景を思い出したかのように。
眉を顰めて、清四郎の本意がわからないと言う風な悠理に、清四郎は穏やかに話した。 「おや、僕達は婚約して10ヶ月も経つんですよ。そろそろ、具体的な話を進めてもいい頃ではないですか?」 「ふざけんなよ。だって、あたいらの婚約は…」 「偽装婚約?そんなことが、本当に通ると思っているんですか?世間には、僕達の婚約は大々的に発表されてますし、僕も剣菱の後継者として、あちらこちらのお偉方に紹介もされているんですよ?今更後には退けないでしょう?」 「そんな……」
悠理は言葉を失い呆然としていたが、やがて瞳を怒りに光らせて清四郎を睨み付けた。 「お前、またあたいのこと騙したのかよ…」 ゆっくりと、言葉を切るように清四郎を詰問する。 「騙したと言うわけでは…」 その時に、言えばよかったのだ。素直な気持ちを。悠理を、愛していると。
「だって、そうだろ。お前はいつでもあたいのこと騙してばっかで!清四郎なんか大ッキライだ!」 叩きつけるように言われた言葉に、意固地になった。 「僕が悠理を騙すのなんか、いつものことでしょ。気付かなかったなんて、相変わらず馬鹿だな」
……言ってしまってから、しまった、と思った。そんなことを言うつもりはなかったのに、と。
「ひどっ…」 ぼろぼろと、悠理の瞳から涙が零れ落ち、その反応に清四郎は目を見開いた。 「ひど…いよ。清四郎…あたい、結構楽しかったんだぞ。お前との、この10ヶ月間…だから、あたいは……」 「悠理…」 零れ落ちる涙を拭ってやろうと伸ばした手を、悠理は力いっぱい撥ね除けた。
「大ッキライ!もう、顔も見たくない!!」 「悠理っ!」 抱きとめようとした清四郎の腕をすり抜け、悠理は真っ直ぐに部屋の外に駆け出していった。 その時になって、清四郎は悠理に誤解を与えたことを知ったのだ。 彼が、剣菱目当てに悠理と婚約したのだと、彼女が誤解したことを。
「ちょっと、何よそれっ!」 「悠理がかわいそうですわっ!」 清四郎の話が終わりきらないうちに、可憐と野梨子が叫んだ。 二人とも怒りのあまり顔を赤くして、野梨子は握り締めた拳が震えている。 「二人とも落ち着けよ。清四郎は反省してるだろう?」 今にも殴りかかっていきそうな二人の剣幕に、美童が諌める様に言葉をはさんだ。
「で、悠理は今どこにいるんだ?全くわからないのか?」 魅録が納得がいかないような口調で聞いた。 悠理の行くあてなど、剣菱関連の所しかないことはわかっている。それなのに、まだ見つからないと言うのか。 「最初にニューヨークに行ったことはすぐにわかったんです。百合子おばさんがちょうどあちらに行っていたので、事情を話して悠理を捕まえてくれるようにお願いしてあったんですが…」 「捕まらなかったのか?」 「ええ。ニューヨークからすぐにロスに飛んで、そこからヨーロッパです。どの場所にも1〜2日しかいない。イタチごっこですよ」 「悠理が、お前さんの裏を掻いているのか?」 疲れたように頭を振る清四郎を眺めながら、魅録は腑に落ちない表情で呟いた。
「あの悠理が、一人でアメリカからヨーロッパを転々としていますの?信じられませんわ」 「そうよぉ。あの子英語も喋れないのに!」 野梨子と可憐の疑問は、清四郎によって打ち消された。 「悠理には、この10ヶ月の間に僕が英語の日常会話は教え込んだんですよ。航空券を取ったり、ホテルに宿泊するくらいは一人で出来ます…」 そう、悠理にレディ教育を課したかつての婚約の時とは違い、今の清四郎が望んだのは英会話だけ。それも、悠理の為を思ってのことだった。
「とにかく、ヨーロッパなら僕が知り合いに声を掛けて当たってみるよ。それで、もし日本に戻ってきたら…」 「ああ、俺に任せろ」 「……頼みます」
友人達に向かって、清四郎は深々と頭を下げた。
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背景:アトリエ夏夢色様