7.
悠理誘拐の報告を受けてから数時間後、清四郎はアメリカ政府の高官と共にFBIにいた。
剣菱は、ホワイトハウスに出入りしているほどの財閥だ。アメリカ国内においてもVIP扱いされているおかげで、CIA、FBI双方の協力が得られ、犯人の特定は比較的短時間で容易にできた。
「どうやら、イタリアから後を付けられていたようですな。この男に心あたりは?」
FBI長官から一枚の写真を見せられ、清四郎の体に戦慄が走った。
営利目的の誘拐であれば悠理を助けられる望みは高い、清四郎はここに来るまでそう確信していた。金の要求ならいくらでも呑める。万作がスイス銀行に連絡を入れ、24時間いつでも引き出せるように手配をしてくれていたからだ。交換条件を提示しながら、悠理を探し出す時間稼ぎをすればいい。例え銃を平気で発砲する相手であろうと、金の引渡しまでは殺すはずがない、そう思っていた。
だが、そんな思惑は、男の写真を見せられた時点で消えた。
「見覚えがあるようですな」 感情など一切抑えた、低い声が清四郎に響く。
「ベライヒという男です。・・・・・・数年前、バチカンでローマ法王の暗殺に失敗した男です」
やはりご存知でしたか、と長官が長い息を吐きながら言った。
「確か、日本の警視総監がこの男を逮捕されたのでしたね。それと貴方の婚約者との間に何か関係が?」
あの時世界に配信されたニュースは日本の警視総監の栄誉だけだ。裏で修学旅行中の高校生が動いていたことなど誰も知らない。FBIとて、なぜ悠理がこの男に狙われるのか想像もつかないに違いない。
経緯を説明すると、長官は再び深い溜息をついた。
「アメリカ合衆国において、腕に覚えがある、ということは、時としていらぬ危険を招くことがあります。ミス剣菱が無事だといいのですが」
それを聞いた清四郎の顔色が、さらに蒼白となった。 考えたくもない現実が目の前に突きつけられる。
「長官、この男がどうして・・・・・・」 清四郎はきつく拳を握り締め、鉛のように重い言葉を吐き出した。
ベライヒはイタリア警察によって捕まり、刑務所に収監された。法王暗殺未遂はかなりの重罪だ。そんな男がなぜ再び悠理の前に現れたのか・・・・・
「賄賂ですよ」 吐き捨てるように、長官が答えた。
「イタリアの刑務所で賄賂など日常茶飯事です。法王暗殺未遂のような重大事件でもそれは例外ではない。脱獄を助けた者がいるらしい」
マフィアの力は警察にまで伸びていますよ、嘆かわしいことだが。と長官は付け加えた。
「脱獄したのは、いつですか?」
「ちょうど、一週間前です。情報によれば、脱獄する前から高飛びを準備していたらしい。恐らく、アメリカへ向かおうとしていた所、空港でミス剣菱を見かけたのでしょう。目に留まった瞬間、逃走資金を巻き上げることを思いついた。まさに、獲物が目の前を通り過ぎたわけです」
長官が、シュッと手で横切る仕草をした。
それを見た瞬間、清四郎はあの男の目を思い出した。
獲物を前にした時の、何の感情も示さない、氷のようなブルーの瞳。
――― “殺し”など何とも思っていないプロの目。
当面の目的は金だろうが、あの時のことを恨んでいないはずがない。ベライヒの犯行であるならば、金の引渡しに関係なく、悠理の身の保障はどこにもなかった。
バンッ! 激しい音を立て、清四郎は机に拳をぶつけた。
――― なぜ、よりによってこんな時に悠理を手放してしまったのか。
素直に「愛している」と告げていれば、彼女は今頃、この腕の中にいただろうか。 それとも。
剣菱目当てに婚約をしたと誤解したまま、やはり拒絶をされていただろうか。
どちらでもいい!
悠理がこの手に戻るのであれば、どんな仕打ちを受けようと構わない。
――― 生きて戻ってさえくれれば。
「・・・・・・悠理!」
溜め込んでいた思いが、慟哭となって、涙と共に溢れ出た。
――― 愛していたんだ!
おまえを、愛していたんですよ。
ずっと前から・・・・・・
震える肩に、ポンと手が置かれる。
「まだ事件は何も動いていません。気を強くお持ちなさい。彼女は貴方が助けに来てくれるのを待っている」 長官が、清四郎に一枚の紙切れを渡した。
そこには、見覚えのある汚い字で、 「せいしろう イタリアの おとこ たすけて 」 と書かれていた。
「恐らく、運転手が襲われている時、咄嗟に書いてシートポケットに入れたのでしょう。タクシーの中から見つかりました。勇敢なお嬢さんだ」
――― 清四郎!
悠理の悲痛な叫び声が聞こえた気がした。
悠理、必ず助けに行きます。
それまで、何があっても生きていて下さい!
祈るような気持ちで、清四郎は思いの込められた紙を強く握り締めた。
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