9.
「清四郎なんか、大ッキライだ!」
衝動的に日本を去ってから2週間が経とうとしていた。
清四郎の先回りを避ける為、悠理は、足早に各地を移動した。 捕まりたくない、というより、清四郎の顔を見たくなかったのだ。
今は。
絶対に。
けれど、気づいてみれば、二人で旅をしたばかりの思い出の地を回っていた。
ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、パリ、ジュネーブ。 そして、ジュネーブからミラノへ行く途中、寄り道をしたシャモニーへと。
「あたい、あいつに騙されていたのかな・・・」 悠理は、ホテルの窓辺に立ち、夕闇が迫る蒼く幻想的なシャモニーの街を見下ろした。
ぽつり、と落ちた涙が、降り続ける雪と共に麓へと吸い込まれていった。
“偽の婚約者になりましょうか?”
そんな清四郎の提案に乗ったのは、いつもの悪知恵を働かせ、彼が助けてくれると信じていたからだ。
だが、数ヶ月経っても、清四郎に“何かを計画する”素振は見られなかった。
ただ、“婚約者”と周囲に偽っている間に、共に過ごす時間だけが、自然と増えていった。
一緒に登校をし、一緒に帰る。
試験に落ちないよう、つきっきりで勉強を見てもらい、時々、将来の為にと英会話を覚えさせられる、といったように。
悠理にとっては、単調で、ちょっぴり苦痛な毎日。
だけど、いつの間にか苦痛は楽しみに変わっていった。
二人でいる時間は、思いの他楽しかったからだ。 気づけば、いつも時間を忘れて二人でしゃべっていた。
一緒に学級委員をした時の話や、清四郎が道場に通い始めた理由。なんでもできるあの男が、コンプレックスを抱く人間が世の中に三人いて、それが、魅録とじっちゃん、そして家の父ちゃんであること、なんかを。
いっぱいしゃべって、いっぱい笑って。
喧嘩をした後は、ムっとしながらも、揃って東村寺で汗を流すとすぐに元の二人に戻った。
そうして、数ヶ月経ったある日。 「そろそろ、清四郎君を、跡継ぎとして剣菱支社に紹介したいだよ」 と万作が提案した。
答えに窮する悠理に対し、清四郎は、「ええ、わかりました」とあっさり応じた。
二人だけになると、悠理は「そんなことをしたら、後でどうやってごまかすんだ!」と清四郎を責めた。 偽の婚約者なのに、と。
けれど、「それくらしておいた方が、周りを信用させられます。それに、二人で世界中へ遊びに行けるようなものじゃないですか」と軽く諭され、悠理は納得した。
何より、清四郎と一緒に出かけられると聞き、嬉しくて仕方がなかった。 大学に入ると彼はますます多忙になり、二人で過ごす時間は激減していたからだ。
この頃、悠理は、清四郎と二人でいることを強く望むようになっていた。 ずっと一緒にいたい。 漠然とだが、微かに抱く、特別な感情。
その特別な感情を、清四郎も持っていてくれるのだと、いつから思い込むようになっていたのだろう?
「あの時かもしれない」
降りつづける雪を見ながら、悠理は振り返った。
*****
“清四郎を悠理の婚約者として剣菱支社に紹介する” そんな目的の下に、二人でアメリカ・ヨーロッパを旅した最初の訪問地でのことだ。
「悠理、一緒に買い物へ行きましょう」 現地へ到着するなり、清四郎に誘われた。
「うわっ!寒い!」
初冬のニューヨークは震えるほどに寒く、外へ出た途端、悠理はコートの襟を握り締めた。 「清四郎、走ろう!ゆっくり歩いていたら凍っちゃうよ」
駆け出そうとすると清四郎にぐいっと腕を捕まれた。
「ほら、こうして歩いた方が暖かいでしょう?」
清四郎が、悠理の腕を自分の腰に巻きつけさせ、片方の手で肩を抱き寄せた。
日頃、ずっと一緒にいるからって、こんなに密着して歩いたことはない。 なんだか緊張して、ドキドキしていた。
「・・・・・・そりゃ、暖かいけど。何か・・・変じゃない?」 真っ赤な顔で問いかけると、清四郎はクスクスと笑った。 「変、とは?」
「だってこんなの・・・・何か、その・・・・恋人、みたいじゃん」 「いいじゃないですか。今は本当に婚約者なんだから」 「そっかな?」
「そうですよ」 優しく微笑む清四郎を見ていると、身体だけじゃなく心まで暖かくなっていく気がしていた。
彼に連れられて入ったのは、小さなアクセサリーショップだった。 「悠理、英会話の実践をしましょう」
「はぁ?遊びに来たんじゃないのかよっ!」 ウキウキとついて来た悠理は、途端にふくれっつらになった。
「好きな物を選んで自分で買ってみろ。ちゃんとできたらご褒美をあげますよ。ほら、向かいにあるステーキ屋さん、見えます?」
清四郎が悠理の頭を両手で挟み、グイッと顔を窓の外へ向けさせた。
目に入ったのは、日本を出発する前から悠理が「行きたい」と喚いていたステーキハウスだった。
「……お前、やっぱりいじわるだな」
頬を挟む手を払いのけ、ニヤニヤ笑う清四郎を睨みつける。 「やるんですか?やらないんですか?」
この悪魔の笑みに逆らうことができた試しはない。 「鬼!」 悠理は、精一杯嫌味をこめて叫ぶと、渋々店員に英語で話しかけた。
結局、時間はかかったが、清四郎に見守られながら、悠理は小さなクロスのネックレスを手に入れた。
支払いは清四郎がすると言うので、その間、悠理は、外を見ながら不貞腐れていた。
もっとも、約束通り“ご褒美”と称して念願のステーキハウスへ連れて行ってもらったので、すぐに機嫌は直ったのだが。
英会話の実践などと言いつつ、清四郎が支払いをした理由がわかったのは、屋敷に戻ってからだ。
部屋に入るなり、清四郎に、ネックレスの入った箱を渡すように促され、悠理は急に哀しい気分になった。 ―――
そうだよな、清四郎があたいにくれる訳ないよな。 「それ、どうするの?まさかお前の彼女にあげるとか?」
悠理は、歪む顔を必死で隠し、明るく振舞いながら彼に自分の選んだネックレスを渡した。 清四郎は偽の婚約者なのだから、誰と付き合おうと彼の自由だ。
だけど・・・・・・・
我儘で矛盾した思いに、悠理は泣きたくなる。
涙の浮かぶ瞳を見られたくなくて「じゃな・・・」と自分の部屋へ戻ろうとした時だった。
「・・・・・馬鹿。これはお前が選んだのでしょう」
清四郎が箱からネックレスを取り出し、悠理の背後へと回った。 「お前にしてはいい選択だ」 そっと髪を掻きあげ、留め金を止めてくれる。
そして、肩を掴んで向きを変えされられた。 「よく似合う。これは、僕からのプレゼントですよ。明日のパーティーにつけていくといい」 「へ?」
悠理はクロスを掴み、じっと見つめると、今度はマジマジと清四郎の顔を見た。 凝視された清四郎の頬が、仄かに赤く染まる。
それを見て、悠理は、先ほどまで感じていた胸の痛みが嘘のように治まった。 代わりに、どうしようもなく嬉しくなる。
「お前、もしかして照れてる?」 「え?」 「だって、顔、真っ赤」 クスクス笑う悠理に、清四郎の頬がさらに赤く染まった。
「お前がじろじろ見るからです!」
偽の婚約者とか、本物とか。 そんなことはもうどうでも良かった。
悠理には、二人でいる時間がとても大切だって、わかったから。
――― 清四郎の気持ちがわかったような気がしたから。
「本当は、最初からあたいに買ってくれるつもりで店に行ったんだろ?」
――― ありがと。
ぎこちながらも微笑むと、広い胸の中に引き寄せられた。 清四郎の心音が、ドクンドクンと聞こえる。 そっと背中に添えられる大きな手。
暖かくて、心地よくて、ふわふわする。
ずっと、ここに。 清四郎の傍にいたい、って思った。
「こういうのも悪くないでしょう?」 清四郎が、頭のてっぺんに顔を埋めながら聞く。
「うん。悪くない」
悠理は答えていた。
窓の外では、灰色のビルの谷間を、粉雪が舞っていた。
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