悠理を胸に抱きしめたまま、清四郎は困惑していた。
規則正しい寝息。満腹時の子供のような穏やかな顔。
だけど、さきほど触れた唇は紅く艶めき、甘く誘う。
「・・・反則ですよ」
ひどく酔っての悠理の行為だとは、清四郎も理性ではわかっていた。
月明かりに照らされたテラス。
豊潤な色を湛えたグラス。
肌寒いはずの秋の夜長。
だけど、まったく寒さを感じなかった。
かわりに、胸の中にやけつくような熱を感じる。
抱きしめた悠理の肌に残る夏の残照。
香る髪に顔を埋めると、真夏の匂いがした。
清四郎も酔っていた。
月しか、見ている者はない。
このまま、抱き上げて連れ去ってしまいたい。
深い森のなかへ。
月さえその目を閉じる奥深くへ。
それは、自分の心の森だ。
触れた唇が、清四郎の心の扉を押し開いた。
自分でも知らなかった、激しい欲望。
もしも目覚めた悠理が、なにも憶えていなかったら?
唇に感じた想いが、酔いが見せた錯覚だったら?
「これくらいは、許してくださいね」
誘う唇に、清四郎は顔を寄せた。
眠るひとを起こさぬよう、深く合わせることはせず。
ただ、唇の甘さを味わい、触れ合わせただけのくちづけ。
それでも、意識は酩酊する。
夜風の中、悠理を膝に抱きくちづけたまま。
風邪をひかせてはいけないと思いながらも、清四郎は動くことができなかった。
時間の止まった深い森のなか、まだ真夏の夢を見ている。
************
真夏の夜。
皆で行った海辺の町で、夜の海に飛び込んだとき。
まさか、あんな光景を目にするとは、思ってもいなかった。
海風に吹かれ、魅録の操縦する小型船の上で、仲間たちと夜の海を楽しんでいた。
月明かりと岸辺の灯だけが黒い海を照らしていた。
静かな波の内海。
静寂を切り裂いたのは、悲鳴だった。
可憐と美童の悲鳴に、清四郎は一瞬の躊躇もしなかった。
だけど、まさか溺れたのが悠理だとは思わなかった。
海ボタルを見るんだと、はりきって乗り込んでいた船上から、たしかに悠理の姿は消えていたのだけど。
けれど、いつでも彼女は誰よりも軽やかに自由に泳いでみせたから。
月明かりしか差さない暗い海の中で、意識を失った悠理を見出したときは、心臓が止まるかと思った。
波のない海の中で。
悠理は青白く照らされた人形のように浮かんでいた。
とても、生あるもののようには見えなかった。
常が、誰より生き生きと弾けるような活力に満ちた彼女だからこそ、よけいに。
魅録と二人がかりで甲板に引き上げたとき、悠理の呼吸は止まっていた。
野梨子が詰まった悲鳴をあげる。
船を岸へと急がせながら、清四郎は懸命に人工呼吸を繰り返した。
水に落ちたショックで気を失っていただけなのだろう。悠理は水を吐き出し、すぐに息を吹き返した。
野梨子に肺を押させ、唇をふさいでいた清四郎は、悠理から身を離した。
激しく咳き込みながら、悠理は至近距離の清四郎の顔を、驚いたように見つめていた。
意識を失っていたときの、彫像のような面影は消えている。
涙と海水でぐちゃぐちゃの顔。いつもの、悠理だ。
清四郎はようやく安堵することができた。
「…ふう」
清四郎は安堵と疲れで、悠理の体の上に突っ伏した。
「わぁ!な、なにすんだっ」
ぐったりとした濡れた男の体にのしかかられ、悠理は抗議の声を上げたが、清四郎は無視を決めた。
本当に、心臓が痛んで苦しかったのだ。
「あんた、清四郎に感謝しなさいよ!息が止まってたんだから、死んじゃってるかと思ったわよ!」
可憐がまだ涙声で、悠理を怒鳴りつけている。
「そうですわ。清四郎が人工呼吸しなければ、危なかったですわ」
「じ、人工呼吸ぅ〜?」
悠理の裏がえった声に、清四郎は顔を上げた。
悠理は自分の口を押さえ、清四郎を凝視している。
血の気の失せていた悠理の顔に、ゆっくりと色が戻ってきた。
真っ赤に。
嘘のように凪いだ海面。
月光の反射に浮かび上がる、悠理の顔がはっきり見える。
さきほどとは違い、感情豊かな生気あふれる表情。
清四郎は微笑した。
「言っときますが、あの状況ではおまえに拒否権はないぞ。野梨子でも可憐でも、美童にだって、同じ扱いしますからね」
「わ、わかってるよ!」
悠理はまだ赤らんだ顔のまま、ぷいと横を向いた。
濡れた髪が頬に張り付いている。
尖らせた赤い唇。
やわらかなその感触を、たしかに清四郎は感じていたけれど。
「…サンキュ」
小さく告げられた礼の言葉に、胸の奥があたたかくなった。
あのとき触れた唇は、なんの意図もない。
甘やかな思い出ではない。
悠理を失ったかもと思った瞬間の、焼け付くような胸の痛みだけが残る思い出。
だけど、清四郎は気づいていた。
人形のように生気を失ったあの海中で、厭わしいはずの悠理の姿が、ひどく美しく見えたことを。
あの一瞬、彼女は彼だけのものだった。
どこかで、甘美な陶酔を感じていた。
意識のない悠理を抱きかかえ、恐怖さえ感じながら。
いつも通りの悠理に、心の底から安堵しながら。
月光の下で、頬を染めた悠理の横顔を、いつまでも眺めていたいと思った。
少し、息苦しさを感じながら。
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