ゴンドラがゆっくりと下り始める。
月明かりに照らされていた彼女の顔に、影が落ちる。
「悠理・・・」
握られた手のぬくもり。
清四郎は、思わず抱き寄せたくなる衝動をこらえた。
あるいは、こらえなくて良かったのかもしれない。
このまま、彼女を抱きしめて、唇を奪っても。
――――昨夜のように。
「たしかに、僕はおまえをよく知らなかったようだな」
知っていると思っていた、無邪気な友人とは違う表情。
告げられた言葉。甘い唇。
「どうせ、あたいのことなんか、ドーブツ程度にしか思ってなかったんだろ?」
拗ねた口調で小首を傾げる悠理の顔には、笑みが浮かんでいる。
白い顔に落ちた影がゆっくりと動く。
世界最大級の観覧車の一周は、ふたりにまだ時間をあたえた。
清四郎は悠理の頬に手を添えた。輪郭を指で辿り、顎を軽く持ち上げる。
そうすると、身長差のあるふたりの目線が絡んだ。
きらめく星を映したような瞳。
見つめると、笑みの向こうに、不安げな本当の顔が見える。
清四郎の心を振り回し翻弄した魅惑的な女と、別の顔。
子供のように真っ直ぐで大胆で、そしてほんの少し泣き虫で脆い、彼の知る悠理の表情だ。
「昨夜のことを憶えているなら・・・」
清四郎はゆっくりと、ふたりの距離を縮めた。
「僕からのキスも?」
悠理の目が、わずかに見開かれる。
かまわず、清四郎はついばむように悠理の唇に触れた。
すぐに離れた唇。
悠理は驚いたように絶句している。
「やっぱり、憶えていないんですね?」
芳醇なワインに煽られ、悠理からのキスに酔わされ。
月明かりの中、ひそやかに交わした口付け。
寝息をたてていた悠理が憶えているはずがない。
「人工呼吸じゃなくって?」
「・・・バカ」
思わず清四郎は苦笑した。
「おまえが風邪をひかないよう、あのまま部屋に寝かせに入っただけだとでも思っているんですか?」
「え・・・」
悠理の顔色が変わった。
昨晩、悠理は清四郎に口付けたあと、膝の上に崩れるように寝入ってしまった。
驚きのあまり、悠理を抱きしめたまま内心の葛藤に息も出来なかった清四郎の気持ちなど知りもせず。
「今朝の大寝坊をどうしてだと?僕だって、男なんだ」
わずかに身を強張らせた悠理の背に、清四郎は片手を回した。
座ったまま、華奢な体を引き寄せる。
片方の手をもう一度顎に添える。
少し怯えたような悠理の表情に、微笑んで見せた。
「理性が強すぎる自分を、呪いましたよ」
そう言って、再び唇を奪った。
今度は、深く。
上唇を甘く噛み、下唇を舌でなぞり、歯列を割った。
逃げる舌を捕らえ、吐息をすべて奪いつくした。
「ん・・・」
口付けたまま、目を閉じた悠理の頭の後ろを抱き寄せる。
膝の上に抱き込むように、清四郎は悠理を腕の中に拘束した。
悠理も、清四郎の背におずおずと手を回す。
隣り合わせに座っていたふたりの体は、重なってしまっていた。
ゆっくりと、地上の星が近づいてくる。
長いランデブーが終わる。
清四郎は悠理を口付けから解放した。
しかし、うっとりと目を閉じた悠理の体から力が抜けたまま。
「悠理、悠理?」
ゴンドラが地面に降り立っても、彼女の心はなかなか戻っては来ないようだった。
************
清四郎は悠理の手を引き観覧車から降りた。
ライトアップされ、昼とは様変わりした万作ランドを歩く。
繋いだ手のぬくもりに、思わず微笑が浮かんだ。
「なかなか、夜になればここもムードがありますね」
なにしろ、昼日中では万作氏の顔や周知の鶏や猫がキャラクター化されている遊園地だ。
一般の客ならともかく、本物を知っている彼らには、思わず脱力の笑いをもたらす。
しかし、老若男女でにぎわうこの場所も、ドーム状の屋根を開け美しくライトアップされている夜は、
家族連れよりカップルの方が多く目に付くデートスポットになっていた。
「・・・・・・。」
ふらふら心もとない足取りで歩いていた悠理の足が、突然止まった。
手を繋いでいた清四郎も立ち止まる。
「どうしました?」
顔を覗きこむと、悠理は唇を引き結んで下を向いた。
「・・・あのさ」
「はい?」
繋いだ手に、ぎゅ、と力が込められた。
意を決したように、悠理は顔を上げる。
「おまえ、どう思ってんの?あたいのこと」
揺れる瞳が、清四郎を見上げていた。
それは、確かにこれまで清四郎の知らなかった悠理の表情だった。
笑った顔、怒った顔、泣き顔さえよく知っているのに。
繋いだ手を、ペットの引き綱だと言った悠理。
どうせ、ドーブツだとでも思ってんだろ、と笑った顔。
清四郎と悠理はペットと主人。孫悟空とお釈迦様。
仲間たちにはそう揶揄され、彼ら自身もそれを認めてきたはず。
「さぁ・・・どう思ってるんでしょうね」
清四郎の言葉に、悠理の瞳が曇った。
ムードに流されたのは、否定できない。
昨夜まで、今こうして手を繋ぎ歩いている自分達を想像すらできなかったから。
「悠理は、どう思ってるんですか?僕のことを」
聞かずもがなの問いを返すと、悠理は真っ赤に頬を染めた。
「あた、あた、あたいは・・・!」
焦ったようにドモって、そのまま悠理は口ごもってしまった。
手を繋いだまま、また下を向く。
苛めすぎてしまったか。清四郎は苦笑し、繋いだ手を引いた。
わずかに抱き寄せ、反対の手で悠理の髪を撫でる。
それは、いつものペット扱いと同じ仕草だったけれど。
清四郎の知らなかった悠理の一面には、驚かされた。
だけど、一方ではずっと分かっていた。
彼女の美しさを。そして、彼女から目を離せない自分を。
「悠理・・・」
清四郎はうつむいたままの悠理の耳元に口を寄せた。
「 」
あの夜、悠理からの言葉が聞こえなかった報復に。
清四郎は、小さな小さな囁きしか彼女にあたえなかった。
「・・・なに?聞こえないよ」
顔を上げた悠理に、清四郎は笑みを見せた。
「さっきの宿泊券、使おうかって言ったんです」
「へ?」
悠理はきょとんと首を傾げる。
やはり意味はわからないか、と清四郎が苦笑していると、みるみる悠理の表情が変化した。
予想される怒り顔でも赤面でもなく、眩しいほどの笑顔に。
「そうだよ、清四郎!」
悠理の目がきらきら輝いている。
「御食事券!!」
大きく叫んで、悠理はじゅるりと舌なめずり。
清四郎の肩から、ガクリと力が抜けた。
ロマンチックもときめきも、悠理の脳裏からは去ってしまったようだ。
スキップしそうな勢いで、悠理は清四郎を引っ張る。
単純で無邪気で、欲望に忠実。
お嬢様のくせに、懸賞や無料に弱い。
そこにいるのは、清四郎のよく知る悠理だ。
「ここはいい店あるんだよね〜♪清四郎おまえ、何、食いたい?」
だけど、清四郎は見上げてくる悠理のきらきらした瞳に、微笑みかけた。
もう、気づかされた自分の気持ちを抑える気はない。
「”おまえ”」
「え?」
「おまえが食べたい」
そう告げてみる。
もちろん正直な気持ちだった。
だけど、からかい半分も否定できない。
本当は、ただ、もっと見つめていたかった。
彼の良く知る、愛しい少女を。
そして、出会ったばかりの魅惑的な女を。
もっと、ゆっくり味わっていたかった。
初めて知った、この感情を。
「・・・・・・!」
ようやっと、悠理の鈍い頭も清四郎の言わんとするところを理解したらしい。
悠理は夜目にも鮮やかなほど、真っ赤に顔を染めた。
どちらも、言葉に表さないまま。
ふたりの関係がはっきりと変わった秋の夜。
あの真夏の夢から、すでにそれは始っていたにしても。
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