大江戸有閑倶楽部事件帖
~刹那の恋・淡雪~ かめお様作

序章

 

 

 

「いつものでよろしいですね」

花屋の親父が、野梨子に淡い色の菊を差し出した。

白、淡い紫、薄い桃色…

艶やかな色は、あの人には似合わないと、野梨子は切れ長の目の男を思い浮かべる。

 

手おけに水を汲み、線香と花を手に、寺の中をすすむ。

紅葉が色づいて美しい季節だ。

ああ、あれから、一年が経ってしまう。

野梨子は、秋の気配が濃くなった空を見上げた。

 

祐也の墓の前に、見慣れた男が佇んでいた。

江戸一番の異形の役者。

じっと手を合わせ、花を手向けると、美童は踵を返した。

 

野梨子と目が合うと、彼は一瞬顔を顰めたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、

「やあ、来たね」

と言った。

「美童も参ってくださって、祐也さんも喜んでいますわ」

野梨子はそう言うと、花を手向け、手を合わせた。

野梨子の背中で、息を殺す美童を感じる。

熱い、熱い、吐息のような気配。

 

「これから根津へ参りますけど」

「あ、ごめん。僕は用事があって…」

「逢引でしょう」

「ふふっ。わかる?」

言葉が空に浮く。

美童と野梨子は一瞬、黙りこくり、お互いの眼を合わせた。

 

男の目の中には、押し殺した感情が揺らぎ、

女の目の中には、己の心を持て余す不安が浮かぶ。

 

じゃあね、と、美童は野梨子に背を向け、歩きだした。

野梨子は凛と背を伸ばし、それを見送ると、踵を返す。

 

「不二の雪さえとけるというに、心ひとつが、とけぬとは…か」

美童は振り返り、野梨子の姿を追った。

彼女は振り返らない。

まっすぐ前を向いていく。

欲しい、欲しいという想いを封じ込るように、美童は足を速めた。

 

野梨子は、振り返った。

美童は足早に道を行く。

それほど会いたい人なのか…

野梨子は、胸に痛みを感じた。

はらりと涙が零れる。

「なぜ、泣くのかしら…」

野梨子は、微かに頭を左右に振ると、指で滴をぬぐい、また前を見て歩み始めた。

 

 

 

 

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