大江戸有閑倶楽部事件帖
~刹那の恋・淡雪~ かめお様作

 

 

 

胸に重しが乗ったように、苦しい。

時折、鋭い痛みが僕を刺す。

そう、あれ以来、ずっと感じる胸の痛みだ。

汚したくない。

汚したい。

相反する想いで、僕は窒息しそうだった。

 

 

『 刹那の恋・淡雪 』

     前編

 

 

はらりと葉が落ちる。

色づいた木々は艶やかで、凍える冬の前に一時の楽しみを与えてくれる。

春は花見。

秋は紅葉狩り。

日本人とは風流なものだと、白鹿野梨子は降るような落ち葉の下で思った。

「ひゃ〜、奇麗だなあ」

日本橋の小間物問屋、安芸屋に足を踏み入れた途端、剣菱悠理の嬌声が野梨子を迎えてくれた。

「まあ、賑やかですこと」

野梨子が手代や番頭らに、丁寧に挨拶をしながら店を通り抜ける。

「まあ、人形のような…」

と、野梨子の背中で、客の誰かの感嘆の声が聞こえた。

「野梨子、見てみろよ、ほら」

悠理が、居間に入っていった野梨子に声をかけた。

白無垢が、まるで鶴が羽を広げたように、掛けられていた。

「まあ、素晴らしいですわ」

「千秋さんが京都で誂えたんだ。可憐のために」

野梨子は、黄桜可憐の前に両手をつき、

「可憐、この度はおめでとうございます」

と、頭を下げた。

「ありがとう…みんな、あんたたちのおかげよ」

可憐は涙ぐみながらも、華のように笑った。

大身旗本であり、南町奉行所の嫡男、松竹梅魅録とこの秋、可憐は夫婦となる。

身分違いと一度は諦めた恋だが、仲間の執り成しもあり、また、何より魅録の気持ちが揺るがず、それが可憐の背を押した。

可憐が守り役をしていた結城藩の殿さま、水野の力添えで、可憐は結城藩の江戸家老の養女として嫁入りする。

国元の改革が終わった水野にも、来春、正室が迎え入れられるはずだ。

高明も、この半年でずいぶんと成長し、可憐の暇願いも聞き入れられた。

ただし、高明は可憐の花嫁姿を見せろと、守り役のまつや、水野に駄々をこねたらしいが。

「よかった…ほんとうに、よかったですわ」

「野梨子…」

万感の思いこもる野梨子の言葉に、可憐も悠理も、胸の奥が痛んだ。

二人とも、愛しい男は生きている。

だが、野梨子の初恋は悲劇的な別れで終わった。

自分なら耐えられないだろうと、可憐も悠理も思う。

野梨子だから耐えられたのだ。

日本人形のような姿からは想像も出来ないほど、野梨子は凛として強かった。

強くて、悲しかった…

 

「ああ、奇麗だね」

美童グランマニエが声をかけた時、野梨子の愁眉が動いた。

「上品な打ち掛けじゃないか。それでいて華やか、可憐に似合いそうだよ」

「ええ、本当に」

美童の言葉に、野梨子も相づちを打った。

「花婿と清四郎は?」

「道場で一汗かいてから来るよ」

「悠理は行かなかったの?」

「へへ、だって早く見たかったんだもん、可憐の打ち掛け」

「近い将来のためにかい」

「ばっ…」

悠理がみるみる赤くなり、

「あ、あたいらは、その、まだ、そういうのは…」

「何言ってるんだよ。はやく夫婦になった方がいいよ。清四郎だってその方が安心だろ」

「な、なんだよ、安心って」

美童はくすくす笑いながら、

「だって、すぐ家出したり、危ない真似をするもんなあ。清四郎は気が気じゃないよ」

「そうですわ。清四郎の眉間に皺が増えたのは、悠理のせいですわよ」

「そうだよ、ねえ」

「な、なんだよ!お前らこそ…」

美童と野梨子の息の合った問い詰めに、思わずむきになった悠理は、言いさしてはっと口を押さえた。

「…意地悪ばっか言うな…」

悠理が消え入りそうな声でそう呟くと、困ったような顔をした美童が悠理の頭を撫でた。

 

美童は野梨子に惚れている。

だが、野梨子には決してそれを口にしない。

異人の血が流れていることを、美童は酷く負い目に感じている。

その負い目を野梨子には背負わせたくない。

それが美童の愛なのだ。

 

だが、野梨子の悲恋のあと、美童も野梨子もどこか変わった。

切なげに、野梨子を見つめる美童。

頼りなげに、美童を求める野梨子。

仲間たちは、変化に気がついていた。

だが、口に出してはいけないのだ。

彼ら二人が、お互いを求めあっていることを、自覚するまでは。

 

「松美屋のお饅頭、買ってきたんだよ。みんなで食べよう」

「うん」

美童の言葉に、悠理は満面の笑みで応えた。

「お茶をいれますわ」

「あ、あたしが…」

「可憐は打ち掛けを眺めていなさいな」

野梨子は笑うと、台所へ向う。

一瞬、美童が何とも言えぬ視線を野梨子に向けた。

「美童、まだ温かいぞ」

「蒸かしたてを買ってきたんだよ。悠理のために」

「へへ、嬉しいぞ」

悠理と美童の他愛のないやり取りを横目で見ながら、可憐は白無垢を眺めていた。

 

六人で深川に行き、飲めや歌えで騒いだ後、野梨子の寮に清四郎と悠理は泊まり、美童はご贔屓巡り、そして、可憐と魅録は喜千の一室にいた。

婚姻前ゆえ、別々の部屋に泊まる。

それがけじめと可憐が譲らなかった。

魅録は、

「なら、俺たちも野梨子のところに泊まればよかったじゃないか」

と言って苦笑した。

可憐の顔が曇るのを見て、

「どうした?」

と、魅録が可憐の顔をのぞき込んだ。

「苦しくなってくるの…」

「何が?」

「野梨子と美童を見ていると…」

可憐の目から、はらりと涙が零れた。

魅録は、それを指でそっとぬぐうと、

「こういうことは、友達だってどうにもならない」

「ええ…分かってるわ。分かっているけど…」

可憐は魅録の手に、自分の手を添えると、

「あたしは、こんなに幸せで…何だか、野梨子にも美童にも申し訳なくて…」

「…そんなこと言うな」

「だって…」

「そんなこと言ったら、野梨子も美童も心外だというぜ。あいつらは、お前が幸せになるのを心から祈ってる。だから、俺も、あいつらの心に応えて、お前を幸せにする」

「魅録…」

魅録は、可憐を抱き寄せると、

「こうやって、互いを慈しんで抱きあえる相手だと、あいつらも気がつくさ…」

「…そうね…きっと、そうね」

可憐は、魅録の胸に顔をうずめながら、

「みんな、みんな、幸せになるわよね…」

と、擦れた声で呟いた。

 

静かに、静かに時は流れ、可憐と魅録の婚礼の日となった。

前日、安芸屋から結城藩下屋敷に移った可憐は、高明とその夜を過ごし、朝、下屋敷から松竹梅邸へと向った。

粛々と式は進み、二人は晴れて夫婦となった。

松竹梅邸から日本橋の剣菱屋に場所を移した悠理ら四人は、離れで杯を上げ、魅録と可憐の門出を祝った

「よいお式でしたわ」

野梨子が、嬉しげに呟いた。

「可憐、ずっと泣いていたな」

「嬉しい涙は見ていてもいいもんだよ」

美童は、にっと笑うと、

「次は悠理たちだね」

と、悠理の顔をのぞき込んだ。

可憐に負けないくらい嬉し涙を流し、目が腫れている悠理は、

「馬鹿」

と言うと、赤くなって清四郎の背中に隠れてしまった。

野梨子と、美童の顔を見ていたら、また余計なことを言いそうだからだ。

「まあ、悠理が恥ずかしがるなんて…可愛いですわね」

野梨子は、楽しげに笑った。

 

野梨子は、剣菱屋から駕籠で木挽町の自宅へ戻った。

家に戻ると、どことなくみなの様子がおかしい。

訝しげに思いながら、野梨子は両親の待つ居間へと入っていった。

「ただいま戻りました」

礼をして、顔を上げると、母が目を真っ赤にして泣きはらしている。

「お母様、どうなさいましたの」

見れば、父の顔も酷く切なそうだ。

「野梨子、ここへ」

父に促され、野梨子は父母の前に座った。

「先ほど、尾張様よりお使いがあった」

父、清州は尾張家に出入りしている。

野梨子は、父と尾張家との間に何か諍いがあったのでは…と思い、顔色が変わった。

「お父様、尾張様と何がございましたの」

清州は、何とも言えぬ顔で野梨子を見ると、

「尾張様のご嫡男より、お前を側室にもらい受けたいと…」

そこまで言うと、清州は言葉に詰まった。

絵師の娘である野梨子が御三家の側室とは、考え方によっては誉れである。

が、また、武家の嗜みがあるとはいえ、そのような大名家に入るとなると苦労が多いに違いない。

父母はそれを知るがゆえに、苦悩しているのだ。

まして一人娘を側女になどとは、野心がない親ならば苦痛の種であろう。

「ご嫡男というのは…先日お上屋敷にお招きされた時、お目にかかった…」

野梨子が舞を披露した時、食い入るように見ていた若さまであろう。

「否やはございませんわね…尾張様がお相手では…お返事はすぐに差し上げなければなりませんのかしら」

「…しばしのご猶予はいただいている…」

「わたくしにも、少しお時間をくださいましね」

野梨子は微笑むと、部屋を出た。

背後で、

「わたしが野梨子を連れていかなければ…」

と、父、清州の悔いるような嗚咽が聞こえてきた。

 

翌日、野梨子は芝居小屋で美童の舞を見ていた。

美童の姿を追い、その美しさ、儚さに涙した。

舞台が跳ねた後、野梨子は美童の楽屋へ寄った。

化粧も落としていない美童が、野梨子の顔を見るなり、

「何かあった?」

と、心配げに尋ねた。

ああ、なんで、美童には分かってしまうのかしら。

野梨子は苦笑を浮かべると、青い瞳でじっと己を見つめる美童に近づいた。

下から美童を見上げると、美童の瞳に吸い込まれそうになる。

「野梨子?」

「美童…わたくし…」

野梨子が言いさした時、どやどやと人が楽屋に入ってきた。

「太夫、素晴らしかったわ」

「ええ、ほんとうにお奇麗でしたわ」

幾人かの、大店の娘であろう、華やかな若い女たちが、嫉妬交じりに野梨子を睨んだ。

「…美童、わたくし、今日は失礼いたしますわ」

野梨子は、娘たちに一礼すると、逃げるように楽屋から出た。

「野梨子、待って…」

後を追おうとした美童は、唇を噛みしめたが、すぐに笑を浮かべ、

「お嬢様方、本日はありがとうございます。お楽しみいただけましたか」

と、太夫の顔になり微笑んだ。

 

美童は娘たちを適当にあしらうと、夜の舞台の前に根津の寮へ向った。

寮には清四郎と悠理がいた。

汗にまみれた姿で出てきた二人を見て、

「ごめん、お邪魔だった?」

美童の言葉に、悠理は真っ赤になり、

「馬鹿。あたいたちはな、いま剣術の修業をしてたんだぞ」

と、竹刀を差し出した。

「あたい、湯を浴びてくる」

悠理が湯殿へ行った後、

「何かあったのですか」

と、清四郎が美童に問うた。

「今日、野梨子が小屋に来てね」

「一人でですか?珍しい」

「うん。それで、なにか様子が変だったから…気になって…」

清四郎は微笑むと、

「明日にでも木挽町の家に寄りますよ」

「頼むよ」

清四郎は、じっと美童を見ると、何か言いたそうに口を開いた。

「何も言わないでよ、清四郎」

美童はそれを遮ると、悲しげに微笑み、

「頑固だと思われても、僕は僕の道を行くよ」

美童のきっぱりとした物言いに、清四郎は苦笑を浮かべ、口を閉ざした。

 

清四郎は翌朝、木挽町の白鹿邸を訪れた。

(…妙だな)

家全体が、どことなく沈んでいる。

顔なじみの若者が出てくると、清四郎に礼儀正しく挨拶し、居間に通してくれた。

「…おじさん…何かあったのですか」

窶れた面差しの清州は、頭を振ると、

「困ったことになった」

と呟き、溜め息をついた。

 

「なんだって!」

日本橋の剣菱屋で、清四郎から話を聞いた悠理は、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「尾張だか、御三家だか知らないが、無体なことを言うな〜」

「清州おじさんは、尾張様からのお話なら断れませんからねえ。昔、売れない絵師で暮らしも困窮していた時、尾張様のお目に留まり今の地位を築いたんですよ。いわば、尾張様には恩がありますから…」

「だからって、側室なんて…娘を差し出せってことだろ」

悠理は、さっと懐剣を抜くと、

「わかった。じいちゃんに頼んで、断りを入れてもらうよ」

清四郎は、眉間に皺を寄せ、

「それは駄目ですよ、悠理」

「なんでだよ!」

「尾張家は吉宗さまの時より、将軍家とはいろいろとあります。まして、剣菱屋、縁の者だと知れれば、尾張様は頑なになりますよ」

「なんで、剣菱屋だと…」

悠理ははっとすると、

「兼六屋…?」

「ええ。剣菱屋の商売敵である兼六屋は、尾張家と深いつながりがあります。剣菱屋を親の敵のように嫌っている兼六屋と、将軍家になみなみならぬ敵愾心を持った尾張家…考えられる最悪の組み合わせです…」

「なら、どうしたらいいんだよ!」

悠理は涙が零れてきた。

野梨子が好きな相手と結ばれるなら、仲間も美童とのことがあっても祝福するだろう。

だが、意に沿わぬ相手と、それも大名家の側室になるなんて…

美童はどうなるのだ。

「ともかく、僕は美童にこの話を伝えてきます。悠理は南町奉行所に行って、魅録と可憐に伝えてください。みなで知恵を働かせましょう」

「そうだな…」

清四郎は、悠理の頭を撫でた。

二人は同じ心配をしていた。

野梨子は、両親を捨てて、好きな男に走る女ではない。

となれば、後は自分を殺して側室へ上がるか…

あるいは、己の命を絶つか…

 

「尾張家のご嫡男の側室に…?」

美童は、楽屋で清四郎の話を聞き絶句した。

じっと、下を向き、何かを考えている美童を見て、清四郎の胸は痛んだ。

だが、美童の口から発せられた言葉は、清四郎の思わぬものであった。

「尾張家の跡取りの側室なんて…すごい名誉なことじゃないか」

「…美童…本気で言っているのですか」

「本気だよ。野梨子が男の子を生めば、その子が尾張家を継ぐかもしれない。そうしたら、野梨子は御三家のご当主さまのお母上だ。これほどの誉れはないじゃないか」

「美童…」

清四郎が、美童の鳩尾に拳を入れた。

ぐっとくぐもった声を出し、美童が膝から崩れた。

「顔を殴らなかったのは、今日見にいらしているお客様のためですよ」

清四郎が冷徹な声音で呟いた。

美童は、腹を押さえて、苦しげに息をしていたが、きっと顔を上げると、

「清四郎は僕にどうしろと言うんだ。一介の役者風情が、野梨子をさらって逃げろとでも言うのか」

美童は苦悩に満ちた表情で、清四郎を睨むと、

「こんな黄色い髪の青い目の男、どこへも逃げられやしない。お前に分かるか?異人の子がこの世の中で生きていくのにどれほど辛いか。好きな女を手に入れたくても、その女を幸せにしてやれないと、諦める気持ちが。お前に分かるのか」

美童が、そう口に出した時、がたんと物音がした。

楽屋の入口に野梨子が立っていた。

「…野梨子」

「…美童、あなた…」

野梨子が何かを言いさした時、美童がそれを遮るように、

「野梨子なら大名家に入ってもうまくやっていけるよ。偉くなって、僕を贔屓にしてよ。ねえ、野梨子」

「美童…」

野梨子の両目から、はらはらと涙が零れた。

野梨子は踵を返すと、駆け出した。

「野梨子」

野梨子を追おうとした清四郎を、美童が止めた。

「美童…野梨子に何かあったら、どうするつもりですか」

「その時は、僕を殺せよ」

美童は、畳みに突っ伏すと、

「僕を、殺してくれ…殺してくれよ、清四郎…」

そう何度も繰り返し、嗚咽を漏らした。

 

野梨子の姿は、その日から消えた。

深川の寮にも木挽町の自宅にも戻らない。

ただ、両親の元には、少し考える時間が欲しいと、文をよこした。

魅録が町方を使い野梨子の行方を探したが、居所はつかめなかった。

美童は、舞台以外は酒浸りで、清四郎らとも会おうとしない。

「野梨子、まさか早まったことをするんじゃないよな」

悠理が、眠れぬ夜が続いたため腫れた瞼を擦りながら、呟くと、

「馬鹿ね。あの子はそんな弱い子じゃないのよ。それはあたしたちが一番知ってるじゃない」

と、可憐が悠理の背を優しく撫でた。

「そうだよな、野梨子、戻ってくるよな」

「もちろんよ。信じて持ちましょう」

女二人が慰めあっている時、清四郎と魅録はなんとか尾張家に翻意してもらおうと、あらゆる伝手を辿っていた。

だが、嫡男である信太郎君の、野梨子に対する執着は激しく、白鹿家にも矢のような催促が続いていた。

白鹿夫人は臥せってしまい、清州も困り果てていた。

 

野梨子がいなくなって一週間経った。

 

悠理たちの元にも、野梨子から心配しないよう文が届いていた。

自分で考え、自分の悔いのないようにすると、野梨子の文にはあった。

清州と夫人も、野梨子の意思を尊重するつもりだ。

仮に、尾張家へ仇なすこととなった場合、清州は筆を折る覚悟も決めていた。

清四郎も、悠理も、魅録も、可憐も、野梨子からの連絡を待った。

そして、美童も…

酒を浴びるように飲んでいたが、さすがに舞台に立った時は役者の意地を見せた。

だが、夜ともなれば野梨子を想い、眠れぬ日々を酒でやり過ごした。

悠理や可憐が心配して様子を見にきたが、美童は会おうとはしない。

このような、惨めな自分を、仲間に見せたくはなかったのだ。






 

後編
表紙