空蝉 (うつせみ)
10.
───人気がない。
地面一杯の蝉の抜け殻を蹴散らしながら、清四郎とともに台所に駆け込んだ魅録が思ったのはその一言だった。
蛇口の下に置かれた金盥も、そこに浸された手ぬぐいもそのままなのに。
屋外と比べて暗い室内に慣れた彼らの眼に映る風景は、つい先ほどまでと寸分変わらぬのに、何かが違う。 「皆の気配がありませんね」
清四郎が低い声で言った。ざわざわと二人の胸の内が騒ぐ。嫌な予感が増す。 とにかく早く皆がいた部屋へ、と廊下をひた走り襖を開け放った。
「何だと!?」 と、二人は瞠目した。
そこはもぬけの殻だったのだ。
座卓はある。
皆が口をつけていた茶の入った湯飲みもある。 布団も、敷かれたまま。
───そこにさっきまで悠理が横たわっていた。
「まだ布団は温かい。時間は経ってないはずなんですが」 と、清四郎は悠理の気配の残滓を探るように布団に触れた。
「おい、清四郎。これを見ろ」 と、魅録が背後から清四郎に話かけた。 彼が手にしているのはそこに落ちていたとおぼしき新聞のようだった。
「昭和、拾弐年、八月・・・」 この紙面は真新しい。まるでほんの今朝がた配達されたような。
現代の紙面よりもいささか紙そのものの質が悪く暗い色合いでざらついてはいるが、インクの鮮明さが、臭いが、印刷されてからの時間の短さを語る。
ここは、七十年の昔。 「時空が歪んでいるということですか」 と、清四郎は思わず布団をぎゅっと握り締めた。
では、皆は、悠理は、いまどこに・・・?
清四郎と魅録は数秒間顔を見合わせると、ばっと弾けるようにそれぞれの視線をそらした。
部屋の中をぐるりと見渡す。 何か手がかりがあるはずだ。あってほしい。
じっとりと汗が滲む。
閉めきられた障子の向こうで、残暑の陽光がきらきらとふりそそいでいる。
ふと清四郎は目の端を白いものがよぎった気がして、障子のほうへと視線をめぐらせた。 「悠理!」 その声に魅録も庭のほうを振り返る。
障子の前には悠理が佇んでいる。その顔は恐怖のあまりか、泣きそうに歪んでいた。 だが、清四郎も魅録もその場で凍りついたように固まっていた。
悠理の向こう、障子の桟が透けて見えるのだ。明らかに彼女は実体ではなかった。 清四郎は心臓に氷を当てられたようにひやりとした。
「出して・・・」 悠理の口が動いた。その声は細々としか聞こえない。 「どこかに閉じ込められているのか!?」
清四郎が叫び返す。 彼女は生きている!生きていると信じる! 「箱から・・・出して・・・」
その後に続けられた彼女の、清四郎、という呼びかけは完全に空気に溶けてしまい、口の動きしか見ることはできなかった。
そういえば、あの千代紙の箱はどこだ?と魅録が思い出し、もとあった座卓の上を見る。
可憐が蓋を開けて野梨子に叱られていたあの箱は、いまそこから姿を消していた。 「悠理!」 という声とともに清四郎が駆け出す。
ゆらり、と彼女の姿が薄らいだのだ。たった数歩の距離を駆けた清四郎の手が届く前に、その姿はふっと消えた。
そのまま清四郎はすぱん、と障子を開け放つ。魅録もそちらへと駆け寄っていた。
ああ、そうだ、あの箱は庭に落ちていたのだ。魅録は溢れる陽光に目を眩ませながら思った。
明るさに再度目が慣れてきた二人の目の前、軒先に小さな少女が立っていた。
白地に若竹の模様の単の着物を着た、お下げ髪の女の子。赤い鼻緒の下駄を履いて、胸元に何かを大事に抱えている。 「誰だ?」
魅録が眉をひそめながら誰何する。年のころは12歳ほどか。少女の目元はどことなく悠理に似ていた。
しかし少女はその問いには答えぬままに、すっと胸の前から腕を伸ばしてきた。その手の上には件の箱が乗っていた。 「箱から出してあげて」
と、少女がそれを魅録のほうへと差し出す。 魅録は縁側に膝をつくとそれを黙って受け取る。まるで何かに操られているようだ、と思う。
今度は少女は清四郎のほうへと向き直る。 清四郎もこれまた自分の意思とは関係ない何かの力により、膝をついた。
少女は清四郎の両手を自分の両手で包み込み、彼の黒い瞳をじいっとつぶらな瞳で見上げた。 「縁を切ってあげて」
その声は抗いがたい響きを持っていた。 年端もゆかぬ少女の声のようであり、年を経た老女の声のようであり、託宣を告げる巫女の声のようであった。
一つだけ言えることは、その声は空気を震わせて発されている声ではなかったことだ。彼らの頭の中に直接流れ込んできている。 「あの男との縁ですか?」
清四郎が小さな声で問い返すと、少女は首を横に振った。 「“うつろ”との縁を」 「“うつろ”?」
と、清四郎が繰り返すと、少女に握られた彼の手が熱くなったような気がした。 そのまま二人の繋がれた手が光を放つ。
さあああああ・・・・・
清四郎と魅録は、夏の真昼よりなお白い光の中へと放り出された。
********
「悠理!ダメ!行っちゃダメ!」 唐突に女の悲鳴が聞こえ、魅録は振り返った。
「可憐?」 その問いにぎょっとしたように、すぐそばに立っていた美童が振り返った。 「え?魅録?清四郎?」
驚いたのはこちらもだ、と魅録は思う。
気がつくといなかったはずの仲間たちが至近距離に固まっており、先ほどまであんなにも明るかった庭先ではざんざんと雨が降っているのだ。
そして、“悠理”がそこにはいなかった。 「悠理じゃないんですか?」
清四郎が、ふらふらと鎌を構える男のほうへと歩いていく女の後姿を見ながら呻く。 「彼女はいま、“有里”さんですわ!」
野梨子が震えながら有里の、可憐がすがっているのとは逆の袖を掴んだままで言う。
有里は彼女たちの最前に立って男からかばう形になっている美童のわきを今にもすり抜けて行きそうだったのだが、清四郎たちの声に引き止められたようにぴたりと足を止めていた。
「清治、貴様、殺したはずだ」 襖のそばで有里のほうへと腕を差し出す茂夫が、清四郎の方をぎろり、とにらみつけた。
その言葉に驚いた野梨子と可憐と美童の3人は思わず清四郎のほうを再度振り返り、そのシャツが黒く染まっていることに気づいた。
「僕は清治さんではありませんし、縁切りの神様のご加護があったようですよ」 清四郎は男の殺気をはたと受け止めながら低い声で返した。
そして魅録が「大丈夫だ」とでも言うように頷いて見せたし、何よりその清四郎の様子がとても大怪我をしているようには見えなかったので、3人はとりあえず小さく息をついた。
そうだ、あのとき彼女は確かに清四郎に向かって「清治さん」と言った。 筒井筒の幼馴染。それが有里と清治なのだろう。
そして二人は、この有里の夫である目の前の男に殺されたのだろう。 「ごめ・・・なさ・・・」 急に女の声がした。ぱたり、と畳が音を立てる。
有里の頬を涙がつたっていた。 「許して・・・堪忍・・・して・・・茂夫さん・・・」 「有里・・・」
くっと茂夫が顔を歪めた。憤怒の形相が一瞬緩みかけたかのように見えたが、しかしそうはならなかった。
「今更何を言う。未来永劫許さんと言ったはずだろう?」 さあ来い!と彼は再び彼女に命じた。
その怒号に5人は金縛りにあったように己らの体が重くなるのを感じた。男が何らかの呪いの力をかけているのに違いない。
固まってしまった5人とは逆に有里の足が再び動き始め、茂夫がゆっくりと鎌を振り上げた。 「悠理!」
と振り払われた可憐と野梨子が悲鳴を上げたが、茂夫と有里には聞こえないようだった。 「何度でも殺してやる!」
茂夫はすでに清四郎たちの姿など見てはおらず、有里だけを見つめていた。
なので突然彼女の姿が視界から消えたとき、それに気づくのが遅れた。
動けぬはずの清四郎が彼女に後ろから抱きついてぐいと仲間たちのほうに引きずり寄せていたのだ。 「悠理!お前は“剣菱悠理”だろう!」
清四郎は腕の中の女を抱きしめて喝を入れるように叫んだ。
同時に魅録は『箱から出してあげて』という少女の声を思い出した。そして手にあった千代紙の箱の存在も。
一か八か、と祈るような思いで彼は重い腕を無理やり動かして箱の蓋を開けると、茂夫のほうへと投げつけた。 「くらえ!」
ばしん!と箱の中の空蝉たちが、茂夫に当たって砕けるように飛び散った。
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