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空蝉 (うつせみ)

4.

 

 男の家は、本当に祠の真裏にあった。
「こんな家、ありましたかしら?」
野梨子の言うとおり、祠に駆け込んだときは、この家の存在にまったく気づかなかった。もちろん先ほどは急いでいたし、木立の中に建つ家に気づかなくても当然だったが、何故だか全員が違和感に苛まれていた。
何が原因なのかは分からない。とにかく嫌な感じがして堪らないのだ。誰もはっきりとは言わないが、首の後ろがぞくぞくして、どうにも落ち着かないのを感じていた。

発熱している悠理は、濡れた衣服を着替えさせてから、男が準備した布団に寝かせた。意識は戻ったものの、何度話しかけても答えようとしない。熱のせいで意識が朦朧としているのだ。
しかし、それでも必死に助けを求めているのだろう。苦しげな息を吐きながら、時折、虚ろな眼を清四郎に向ける姿が、哀れでならなかった。

「それにしても、立派だけど古い家だね」
ざあざあと雨音が響く中、美童が泣き顔で笑う。それを見た魅録が、片頬だけを吊り上げて、無骨に笑った。
「ああ。世話になっている身で言いたくはないが、長居はしたくないな」
男の家は、築数百年は経っていそうな屋敷であった。古色蒼然と言えば聞こえは良いが、日本家屋独特の湿っぽい暗さが、皆の不安を余計に掻き立てていた。

皆が通された部屋は、十畳ほどの座敷だった。女性が住んでいるのか、部屋の隅には、立派な桐箪笥と、小さな鏡台が置いてあり、さらに不気味さを醸し出している。鏡が布で覆われているのが、せめてもの救いであった。
可憐が何気なく座卓に置かれた小箱を手に取った。綺麗な千代紙が貼り付けられた、手作りの箱だ。振ってみると、かさかさと小さな音がする。
「可憐。人様のものを無断で弄るなんて、失礼ですわよ」
野梨子が諌めるのも聞かず、可憐は小箱の蓋に手をかけた。
「別に盗ろうとしている訳じゃないし、良いじゃない。中はなに・・・きゃあっ!!」
蓋を開けた途端、可憐が悲鳴を上げて小箱を放り出した。

転がった小箱から、幾十匹もの蝉の抜け殻が溢れる。
「うわ!」
「きゃあ!」
思いもよらぬものの出現に、皆、一斉に腰を上げて、後ろに飛び退った。

畳の上に散らばった蝉の抜け殻を見て、清四郎が呻くように呟いた。
「・・・空蝉・・・」
清四郎の低い声が、雨音の支配する部屋に響いた。悠理は虚ろなまま、布団に横たわっている。
蝉の抜け殻など、別に恐れるものではない。しかし、幾十も集まれば話は別だ。しかも、綺麗な小箱に仕舞われていたとなれば、余計である。空蝉は、生命の残骸だ。それを収集して、いったい何をするというのか。
「な、なんなのよ、いったい!?」
泣き声で叫ぶ可憐の肩を、魅録が抱く。落ち着かせようとしているのだ。清四郎はそれを横目に見ながら、黙って空蝉を拾い集め、ふたたび小箱に仕舞った。

箱の蓋を閉めるとき、清四郎は悠理をちらりと見て、忌々しげに呟いた。
「嫌な符号だ」
空蝉とは、蝉の抜け殻だけを表す言葉ではない。虚脱した様子を表す言葉でもある。まさに今の悠理を表す言葉だ。
まさか悠理が抜け殻とは思わないが、それにしても嫌な合致である。
清四郎は、小箱を座卓に戻すと、悠理の額に手を置いて、濡れた前髪をそっと掻き揚げた。

そこに、茶を持った男が現れた。
男は座卓に茶を置くと、皆に飲むよう勧めた。あまり気は進まなかったが、好意を無下にすることも出来ず、皆、渋々ながらも湯呑みに口をつけた。
「そういえば、僕たちが雨宿りしていた祠は、何を祀っているのですか?」
場を持たせるために、清四郎が男に聞く。男は、ああ、と呟いてから、清四郎を見た。
「何が祀っているのかは知らない。でも、どんなご利益を授けてくれるかは知っている」
男が薄く笑う。その向こう側で、雷鳴が轟いた。
「どんなご利益があるんですか?」
ふたたび雷鳴が轟き、褪色した障子に雷光が映る。

「縁切りだよ」

雨音がいっそう酷くなり、辺りはさらに薄暗くなった。
男は清四郎を見つめたまま、低い声で話し出した。
「あの祠におわしまする神の名は知らねど、霊験あらたかな縁切りの神なのは確かさ」
油障子の向こう側で、滝のような雨垂れが大きな音を立てて地面を叩く。座敷の中は黄昏時のように暗く、波立つ不安をさらに掻き立てた。
「僕の妻は、毎日、夜が更けると、あの祠へ行って、お参りをしていた。妻は、夫である僕と縁を切りたがっていたんだ。僕に非がある訳じゃない。妻には、筒井筒の仲だった幼馴染がいて、どうしてもその男を忘れられなかったんだ」
唐突な打ち明け話に、皆、戸惑った。困惑を露わにし、顔を見合わせる。その様子が見えているはずなのに、男は話を止めようとしない。
「親が決めた相手とはいえ、僕は妻に愛情を抱いていたし、妻もそうだと信じていた。だけど、妻は違った。僕が眠ったのを見計らってから、毎日、毎日・・・僕と縁を切りたいと、祠に手を合わせていた。妻は最初から僕のことを見てはいなかった。僕と一緒にいながら、心はずっと別の男と共にいた。僕と結婚する前から、妻はずっと他人のものだった」
淡々と話す男の顔を、一瞬の雷光が照らし出す。その顔に、感情らしきものは欠片も浮かんでいなかった。

「僕が妻だと信じていたのは、妻の抜け殻―― 空蝉だったんだ」

美童が座卓の下で、二つ折りの携帯電話を開く。圏外だ。電波は届かない。
いくら田舎町とはいえ、駅からの道筋には民家もあったし、途中までは確かに電波が届いていた。第一、剣菱の別荘が傍にあるのに、圏外のはずがないではないか。

「妻が失踪したとき、近所の者は皆、妻が男と駆け落ちしたのだと噂した。噂がたって当然さ。失踪する直前、妻が祠の前で男と会っていたのを、近所の人間が見ていたからね。でも、いくら妻が抜け殻だからって、他の男と駆け落ちするのを、夫である僕が黙って見ていられるはずはないだろう?」
男は勝手にべらべらと喋り続けている。その姿に異様なものを感じ、野梨子と美童が立ち上がった。
「妻の想い人が誰であれ、夫は僕だ。彼女を所有しているのは、この僕なんだ」
男の眼が焦点を失う。二人に続いて、可憐と魅録も立ち上がった。
しかし、清四郎だけは、男と対峙し続けていた。

男の眼が、ふ、と動いて、座卓の上の小箱を捉えた。
蝋細工のような手が、千代紙が彩る蓋を持ち上げ、中から空蝉をひとつ、つまみ出す。

「抜け殻は、抜け殻らしく―― 大人しく箱の中に入っていればいい」

男の指が、空蝉を押し潰す。
洞になった身体は呆気なく壊れ、細い足が、ばらばらと座卓に散った。

異様な雰囲気に呑まれた野梨子が、後ずさりする。
その拍子に、肩が箪笥にぶつかった。
箪笥の上から、新聞紙が滑り落ちる。
野梨子は、畳の上に落ちた新聞紙を見て、思わず声を上げそうになった。

――――― 昭和拾二年八月拾四日。

インクの臭いがする、真新しい新聞には、そう日付が記されていた。


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