麗作

空蝉 (うつせみ)

5.

 

「清四郎…」
野梨子は、今自分が見たものと、そこから頭に浮かんだ考えを告げたくて、幼馴染の名を呼んだ。
だが、彼には野梨子の声が聞こえなかったようだ。
その時、急に悠理が苦しそうに呻き声を上げ始めたからだ。

「悠理!」
清四郎は悠理に向き直り、彼女の額に手をやった。
悠理は荒い息を吐きながら、胸に掛けられていた布団をうるさそうに手で押しのけた。
先ほどよりも熱が上がってきている。額も、胸元も、汗でぐっしょりと濡れていた。


「…熱が上がってきたみたいだね。冷やしてやった方がいいんじゃないか?」
男が、淡々とした声で言った。
「ええ。すみませんが、水とタオルをお借りできますか?」
「いいよ。こっち」
男は後ろの引き戸に顎をしゃくってみせ、立ち上がると引き戸を開けて廊下に出て行った。
清四郎も立ち上がり、野梨子と魅録に頷いてみせると、男について部屋を出た。



「どうぞ」

板の間の廊下を抜けて、台所と思しきところに案内された清四郎は、わずかに目を見開いた。
廊下より一段下ったところが土間になっており、片隅にかまどが据えられている。かまどの上には羽釜が置かれ、脇には薪が積まれていた。
かまどから少し離れたところには黒い石造りの流しがあり、漆喰の壁からにゅっと真鍮の蛇口が突き出ている。水が漏れるのだろうか、蛇口の根元にはボロ布が巻いてあった。

ここは、いったい―――
いくら田舎の家とはいえ、あまりにも古めかしい造りの台所に、清四郎は激しい違和感を覚えた。

「ほら、これを濡らして… あれも使うといい」
男は手ぬぐいを差し出し、流しに置かれた金だらいを指差していた。
「すみません…」
清四郎は礼を述べながら手ぬぐいを受け取り、土間に下りるとそこにあった履物を履いて、流しへ向かった。

流しの上に切られた窓から、まだ雨が激しく降り続いているのが見える。
真鍮の小さな蛇口をひねると、澄んだ水がほとばしり出た。当たり前のことなのに、なぜか清四郎はほっとした。
金だらいに水を受け、手ぬぐいを浸す。水がたらいに溜まっていく様子を見つめながら、考えに耽った。
この家は一体何なのか? 祠での、空気が歪んだような感覚は? あの、白い手は? そして、あの男は―――?


ジャジャジャジャジャ―――
いきなり、うるさく鳴きだした蝉の声に、清四郎は驚いて顔を上げた。とたんに、窓から差し込んできた日の光が目を射す。
清四郎は反射的に目を閉じて顔をそらし、しばらくして、手をかざしつつ目を細く開いて外を見た。

いつの間にか、すっかり雨が上がっている。
夏特有の強い日差しが照り付け、濡れた草や地面から、ゆらゆらと蒸気が上がっているように見える。
清四郎は、無意識のうちにあの祠を探した。
視界の右端に小さく見えるのがそうだと気付いた時、ムッとするような草いきれの匂いを感じた。

「このあたりは天気がすぐに変わる」と男が言っていたが、それにしてもずいぶん急に晴れたものだ。
―――また降ってこないうちに、この家を辞した方がいい。
そう考え、蛇口をひねって水を止め、金だらいに溢れる水を少し流そうとしたとき、窓の前をすっと人影が横切った。

「?」
清四郎は反射的に顔を上げ、窓の外を見た。
むき出しの土で固められた敷地を外れたところ、雑草がぼうぼうと茂る場所を、誰かが祠に向かって歩いていく。
白っぽい夏の着物を着た、髪の長い女だ。

「…悠理?」
そんなはずは無いと知りながら、清四郎は友人の名を呼んだ。
ほっそりとした肩の線、長い手足。その後姿が、あまりにも彼女に似ていたから。

 

女の姿を追うために、清四郎は勝手口の扉を開けて外に出た。
蝉がうるさく鳴き、強い日差しに白くかすんで見える風景。その中を、女がゆらゆらと歩いていく。
さほどの距離ではないのに、その姿がひどくおぼろげに見え、清四郎はわけのわからぬ焦燥感に駆られた。

「悠理!」
友の名を叫び、清四郎は後を追って駆け出した。
白い風景。白い着物。それが、不吉な思いを起こさせた。
悠理は、座敷で眠っているはず。熱に浮かされて――― それが、どこに行く?

前を行く女との間は、それほど開いてはいないのに、足が重くて思うように近づけない。
ようやく女に追いつくと、清四郎は女の細い肩を掴んだ。

「悠理…」
急に後ろから肩を掴まれて、女は驚いたようだ。振り返り、見開かれた瞳に怯えの色を浮かべ、顔を強張らせていた。
だが清四郎の姿を見ると、その表情は見る間に安心したように緩み、唇には笑みが浮かんだ。

「清冶さん」
真っ直ぐに呼びかけられて、清四郎はうろたえた。
長い髪、白っぽく見えた着物はごく薄い紫で、涼しげな秋草の柄が裾に向かって流れている。
すっきりと、艶な風情の女だ。彼が知っている、大食らいで騒々しい友人とは、似ても似つかない。
けれど、彼に向かって微笑むその顔は、間違いなく悠理のものだった。


「良かった、ここで会えて。あの人は今日、親戚の法事で町に出かけていて夜まで帰らないの。さぁ…」
清四郎の戸惑いなど気付かないように、女は彼の手をやんわりと掴むと、祠に向かって歩き始めた。
女の正体を訝りながらも、清四郎は手を引かれるままに後をついていった。

祠の前まで来ると、女は清四郎を振り返って微笑み、白木の扉をそっと押して中へと清四郎を誘った。
外の明るさに慣れていたために、薄暗い祠の中では一瞬目の前が真っ暗になる。しかし、次第に目が慣れてくると祠の中がよく見えるようになった。
「……?」
先ほど清四郎達が逃げ込んだのは、荒れた古い祠だった。
なのに、今二人がいる祠は、古びてはいるが手入れがきちんとされた祠だ。
床に埃もなく、奥に下げられた注連縄の紙垂も真新しい。

女は御神体と思しきものの前にしゃがみ、手を合わせていた。
―――「縁切りの神だよ」
清四郎は男の言葉を思い出した。

「何を、祈っているんですか?」
妙に口の中が乾き、女に尋ねる声がひどくかすれた。
振り向いた女は答えずに、立ち上がると清四郎の首にやんわりと腕を回した。

「わかっているでしょう? 私の願いは…」
そう言うと、女は柔らかい唇を清四郎の唇に押し付けた。


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