フロ作

空蝉 (うつせみ)

7.

 

――――まるで、嵐の前の静けさだよな。

そう言ったのは、魅録ではなかったか。
ここがどこでどうやって来たのか、清四郎は朦朧とした意識の中、記憶を手繰り寄せた。
ほんの数刻前のことがよく思い出せない。

「蝉・・・・静かになったわね」
悠理がぽつりと呟いた。
組み敷いた細い体。着物の胸元がはだけ、汗の浮いた白い胸がゆるやかに波打っている。
いまだ男の欲望を煽ろうとする妖艶な瞳が、愛しげに清四郎を見つめている。

陶酔が醒めるに従って、清四郎の汗は急速に引いていった。
彼女の着物の前をあわせ、自分も衣服を整える。

その顔も肢体も悠理そのものではあるけれど、長い髪も口調も男を受け入れることに慣れた体も、彼女が悠理であるはずはないと示していた。
「いまになって、やっと気づいたの。ずっと、あなただけを想い続けて来たと」
女は熱に浮かされたような口調で囁く。
「幼い頃からそばに居たのに、意地ばかり張って・・・私、馬鹿だった」

ひんやりと冷たい祠の空気。扉の向こうの目を焼く日差しに比例して、影は濃い。
くらりと眩暈に襲われる。
理性が機能しない。

悠理を女として見たことはなかった。見てはいけないと自分を制してきた。
そうして、彼女を欲する感情から目を逸らし続けて来た。
意地もあっただろう。
馬鹿で大食いで、およそ女らしくない悠理。
彼女はあまりに無垢で幼く、清四郎を異性としては見ていないことは明白だった。
そして彼もまた、現状の仲間の一人としての自分の立場に満足していたのだ。

「悠理・・・僕もそうだ。ずっと自分の心を騙し続けて来た」
悠理ではないと知覚しながら、悠理なのだと一方で思ってしまう。
惹きつけられるのは、顔かたちだけでなく。
目の前の女の中に、確かに悠理の一部を感じている。
幻惑に過ぎないのだとしても。
悠理だと、思いたかった。
もう、はっきりと気づいてしまった、抑え続けてきた、彼女への想いゆえに。


「おまえら、何をしている・・・!!」


突然の怒声に、清四郎は振り返った。
白木の扉を手に、男が立っていた。
裏の屋敷の男だ。
若い顔を憤怒に歪め、ひたと女と清四郎を睨みつけている。
雨の止んだ今、こうもり傘の代わりに、その手には草刈鎌を下げていた。

「あ、あんた、町へ行ったはずじゃ・・・」
悲鳴じみた声を上げ、女が清四郎にすがりつく。
華奢なその背を抱きとめながら、清四郎は愕然と男を見つめていた。
男の顔が、醜悪に変貌してゆく様を。

すべてに、現実感がなかった。
世界から音は消え、むせかえるほど鮮やかだった真夏の色彩も褪せた。
まるで、古い映画の画面を見ているようだ。

若かった男の容貌が、崩れてゆく。
貌には皺が刻まれ、黒い髪は藁のように色が抜けた。
若者は、幾星霜を経た枯れ木のような老叟に変化していた。
変わらないのは、憤怒が滾る双眸。だが、それが絶望の黒い穴に変わった時、鎌が振りかぶられた。

スローモーションのようにはっきりと、男の動きが見えた。
それなのに、清四郎は兇刃を避けることができなかった。

音の消えた世界。
自分が上げたであろう叫び声さえ、清四郎には聴こえなかった。



*****





――――― 昭和拾二年八月拾四日。

野梨子は目にした新聞の意味を考えていた。

昭和12年8月。第一次近衛文麿内閣。盧溝橋事件で日中戦争に突入。
そんな知識を手繰ってみても、意味がないかもしれないが。この屋敷の陰惨な空気に、暗い時代に突入しようとする日本近代史を連想した。

七十年前の新聞が、どうして真新しく刷り上ったばかりのようにこの部屋にあるのか。
悠理ほどではないものの、野梨子も仲間内では霊感が強い。
悠理が倒れた今、心配させてはいけないと口にはしなかったが、先ほどから収まらない寒気に、野梨子は異常を確信していた。
祠の中で、ぐにゃりと歪んだ空気。
異界に踏み込んでしまったのかもしれない。

傍らの悠理を見ると、うつろな目は虚空を見つめている。
「・・・出して・・・」
小さく呟かれた言葉は、熱に浮かされたものであるだろうけど。
「ここから・・・箱から・・・」
赤らんだ頬に、涙が伝った。
「せい・・・・」

“せいしろう”と悠理の口が動くのを待たず、野梨子は悠理の手を握り締めた。
「悠理、清四郎が、なんなんですの?!」
胸がざわつく。
悠理がうわ言のようにその名を口にするたび、幼馴染の身に何かあったような気がして。
恐怖に駆られた悠理が清四郎を頼るのはいつものことで、ただ救いを求めて友人の名を呼んでいるだけなのだろう。
なのに、胸騒ぎは収まらない。
夢うつつの悠理の見ている光景が、なんなのか。
ただ、無償に恐ろしかった。

「野梨子・・・」
美童が野梨子の肩にそっと触れた。
「清四郎が心配?魅録が見に行ったから、大丈夫だよ」
その言葉は、思いがけないほど力強かった。
野梨子は美童の顔を見上げる。
臆病で小心で、いつも真っ先に悲鳴を上げる友人が、野梨子に笑みを向けていた。

しかし。
「でも、魅録まで戻って来なかったら、どうすんのよ〜!」
可憐がついに、泣き声を上げた。

 

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