空蝉 (うつせみ)
8.
ジャジャジャジャジャ――― 耳を打つ蝉の声に、魅録は顔を顰めた。
廊下から台所へ真っ直ぐに来たが、家主の男も清四郎の姿もない。
金だらいに手ぬぐいが浸してあったので、清四郎がここに来たのは確かのようだ。
この家も、家主の男も、どうにも薄気味悪い。
男の言動はどこか歪み、常軌を逸している。
あの清四郎が簡単に不覚を取るとも思えなかったが、この屋敷の陰惨な空気の中では、何が起こってもおかしくはない。
いや、異常はあの祠に入った時から始まったのだ。 この土地自体に感じる違和感が、ひどく神経に障る。常人の及ばぬなんらかの力が働いている。
霊感もなく神経の太い魅録がそうなのだから、意識が朦朧としている悠理は言うに及ばず、他のメンバーの不安は察するにあまりあった。
清四郎を見つけたら、有無を言わさずこの屋敷を去ろう――――そう思い、辺りを見回した魅録は、日の差す屋外に目を留めた。
祠の近くの雑草の中に、一点の染みが見えた。濃い緑に落ちた、禍々しい紅い色。 魅録は土間から外に出て、裸足のまま濡れた土を踏みしめる。
息苦しいほど萌える緑の中に見え隠れするそれが、千代紙の色であることに気がついて、魅録は肩の力を抜いた。無意識で、ひどく緊張していたらしい。
草の中から拾い上げると、それは小さな箱だった。部屋にあったものと同じ、千代紙で作った箱だ。
蓋を開ける気もせず、魅録はそれから手を離し元の場所に戻した。
ジャジャジャジャジャ―――
蝉の声が、なおも激しく耳につく。 気づくと、周囲の草の中には、無数の蝉の抜け殻が散乱していた。 背筋に戦慄が走る。
これほどの蝉の声がするのだから、あたりまえであるはずなのに。 炎天下の庭で、魅録はしばし金縛りにあったように立ちすくんでいた。
ゆらりと、視界が揺れる。 蒸気のためか、雑草の生い茂る祠のあたりが揺らめいて見えた。
白いものが見えたと思ったのは気のせいだろうか。祠の扉にかかる白い手が。 引き寄せられるように、魅録は祠に向かう。
蝉の抜け殻が、素足の下で、しゃり、と壊れた。
息苦しくなるほどの草いきれの中で、かすかな異臭を感じた。 祠に近づくにつれ、異臭は密度を増した。 それは、死臭。
濃い、血の匂い。
魅録が入口から中を覗き込んだ時、闇の中で倒れている人影が見えた。 「清四郎っ!!」
魅録は恐慌に陥り、祠の中に駆け込んで叫んでいた。
先ほどまでは確かに、この祠は荒れ放題だった。
しかし、魅録が触れた白木の扉も注連縄の紙垂も、白さが眩しい。 飛び散ったような、血の痕以外は。 禍々しい、紅。
床には黒い水溜り。 その中にうつ伏せている清四郎に、魅録は震える手で触れた。
「清四郎、おい、まさか・・・」
「・・・う・・・・」 体の温もりと、小さなうめき声。 清四郎は、生きている。 魅録は安堵のあまり泣きたくなった。
「おい、清四郎!」 魅録は清四郎の体を揺すった。 「あ・・・・魅録か・・・?」 清四郎は目を開け、頭を片手で押さえ眉を寄せた。
ぼんやりとした目が次第に焦点を結ぶ。 清四郎はハッと顔色を変え、魅録の手を掴んだ。 「悠理・・・・悠理はどこだ?!」
「悠理?部屋で寝ているのは知ってるだろう」 魅録につかまり、清四郎は体を起こした。 どこにも怪我はないようだ。
しかし、体を起こした彼のシャツはべっとりと黒ずんだ液体で汚れていた。
ぴとん …―― 魅録は天井を見上げた。
ぴとん …――
濃い血の匂いに、鳥肌が立つ。 漂う、死臭。
清四郎はまだ覚束ない足取りで立ち上がり、狭い祠の内部を見回した。 「・・・ここで、ふたりの人間が殺されたことは確実のようです」
「えっ?!」 魅録は清四郎の顔を見返した。 その目に畏れだけでなく、屹然とした意思の力を見て安堵する。
有閑倶楽部のリーダーは、恐怖に屈したりはしていない。
「一刻も早く、ここを去らなければ。悠理を・・・皆を、守らなければ」
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